―断続的な振動と、エンジン音の中で二人の人間が会話している。視界は黒、声はまたおそらくあの時の布でがっちりと塞がれているせいで―出ない。まるで理解できない陵辱の後、起こされ朦朧とする意識の中で先輩と会話した気がする。終わった直後に目と口を塞がれ、頭からジャケットのようなものをかけられ―今度は意識を奪われないまま、「時間ないから今度は自分で歩いてねえ」などと若い男が言った、おそらく車に詰め込まれ―後部座席に若い男と二人だ。声は自分のすぐ上から聞こえるし、顎下をとんとんと冷たく鋭い感触が規則的に叩いている。女の子が自分の相棒の大きなぬいぐるみを抱えるように楽しそうに。運転席には―あの、元刑事だと先輩に言われていた―ボス、の男が座っているのだろう、おそらく。「自分で言っといて難だけどさあ」あの軽い口調。「俺、べつにもうコレがもらえちゃえばいいかなって。楽しいし」「馬鹿言え。これだけ準備させといてそりゃあ無い」「ごもっともなんだけどさぁ〜〜〜〜…正直、昔のオモチャにはあんま執着ないんだよね。ボスは違うの?そんなに戻ってきて欲しいワケ?」「当然だろう。アレは完全にお前の物だが、ソレはまだ金を払ってない。借り物だ」「そりゃあ、そおだけど…アレは俺がちょっと遊んだだけだし、もう顔だって覚えてねーよ。こっちのがいいなあ。おっぱいでかいし、元気だし」「だったらお前も対価を払え。何かをそいつの為に捨てるんだな。俺はお前にオモチャを買ってやるおじさんじゃねえ」「…ハァ。めんどくせ。ボスって何が楽しくてこんなことしてんの?ていうか何が楽しくて生きてんの?」「お前を地獄に送る為だよ」ぎゃっはっはっはっはっは、とけたたましい若い男の馬鹿笑いが車内に響いた。「なにそれスッゲー馬ッ鹿みてェ」




もはや一刻の猶予も―あるまい。その後の動きは迅速だった。犯人らの追跡は続行するものの被告は刑務所から既にこちらに向かって搬送されており、警察の方針は可能な限り早急に犯人の要求に完全に従うことにほぼ決定した―しかし私の脳内はスロー再生といってもいいほど鈍い。まず、自分の憶測はまるで真実まで届いていなかった。そして、あの画像―再び開く元気は残されていない――彼女の、疲労しきった絶え絶えの声―――何もかもが重い。何もかもが黒い。全て投げ捨ててベッドで思う様眠れたらどれだけ幸せになれるだろうかと真剣に思ってしまう。しかし目覚めたらそこに彼女は二度と現れず、同時にそもそも眠れるわけがないのだ。苦い。こちらに被告が到着するまで、少し休憩したほうがいいと―――幾人もの刑事や検事に無理やり自分の執務室に押し込まれた。今回ばかりは捜査から外されているなどと駄々を捏ねるつもりもない、彼らなりの精一杯の公務と私事の合間の同情、なのだ―受け取らざるを、得ない。情けないことに。あまりに衝撃が大きすぎたし起こりすぎた。私は―――正直、彼女が施されるなら、性的暴行だと予想していた、のだ。彼女は女性で、肉感的な身体なのは否めない―しかしそれはあまりに自分が常識的に考えすぎていたと認めざるを得ない。想像を絶する――あのような、陵辱。それももし糸鋸刑事が当時の事件を思い出さなければ、私がそもそも刑事を助手につくことを許さなかったら、足りないとはいえあそこまでの真実にたどり着けなかったら、彼女はもはや再起不能なほど、精神も肉体も破壊されていただろう―とあの男は事も無げに言ったのだ。戻れない綱渡りを、している―――ほんの僅かな逡巡さえ許してはもらえない緊張の連続。今でさえ、彼女の声を思い出す度に脳髄が鈍く、痛む。机に両手をつき――頭を振る。まだだ。私が潰れるわけにはいかない。あの捜査の後ポケットに忍ばせておいた、―男の癖にえらく気取った指だと自分でも理解している私の小指にさえ小さい、同じデザインのリングは―私の左手のそれとまったく変わらない輝きをもって、そこにある。これがあるということ、それは、彼女が私を信じているということを示している。私の妻ということを盾に保護されようとはせず、単なる後輩の検事として私の負担を分け、共に戦う道を―あのほんの攫われる一瞬の内に選び取ったという証明なのだ。何の迷いもなく。



その痛々しいまでの勇気に、私は報いなければならない。ここで膝をつくものか―――目を開ける。何度も瞬きを繰り返す。あの時の成歩堂は、戦った。いかに追い詰められようとも、私に食ってかかってきたのだ。果敢に、勇猛に。あの時の成歩堂も、今回の、自分の身より犯人の様相にばかり気を配っていた彼女も、先程の糸鋸刑事でさえこちらは任せてほしいとばかりの強い目で私を射抜いて出て行った。、皆自分の戦場で食い下がっていたのだ。私だけが、こんなところで―屈するものか。まだ終わってはいない。追跡は続いている。被告はすぐにここに到着するだろう。何が出てきてくれるかわからない、何も出てこないかもしれない賭けだ、が―――被告から犯行に関してではなく当時の事件、及び現場についての証言を、引きずり出そう。そしてそこから真実を見つけ出すのだ。それは、口は比較的回るものの素人に限りなく等しい交渉よりは――ずっと、私に適した、私の為の戦場だ。そうだ、やっと私はホームで奴らと戦うことができる。ならば、そこで―そこでアドバンテージをとるしかない。確実に。方針が固まったところで、がんがんとドアを破壊するような粗暴なノックとそれに答えるまもなくドアが開き、えらく興奮した様子の糸鋸刑事が入ってきた。「ただいま帰りました、検事ッ!…申し訳、ないッス……既に犯人らは逃亡、しかし奥様のものと思われる私物を幾つか発見したッス!」「それは…!ご苦労だった、刑事!……ありがとう、本当に…君の助け無しでは、とても…」「勿体無いッス。それはきちんと、奥様を救出し犯人の奴らをとっ捕まえた後で――、じゃ、これは検事に預けるッス。でも、だいぶ絞り込めてきたッス、少なくとも脱出ルートが用意される前には抑えてやるつもりッス!それは自分だけじゃなく、一課現場組の総意ッス!」―――ああ。そうだ、った。先程の会話は、何も私だけが聞いていたわけではない。挑発は、決して検事だけに向けられていたわけではないのだ。刑事らもまた―敵はかつての仲間ということを意識し、プライドを賭けて本気になったということか。収穫だった。私は全てを失敗したわけでは、なかったのだ。「ああ。…ありがとう、刑事。ありがたく受け取ろう。私は君を―いや、君達を全力で信頼している。頼んだ」「了解ッス!じゃ、何か聞きたいことがあったら、いつでも連絡してほしいッス!」嵐のように慌しく刑事は出て行った。私は、はっきりと芽生えた意志の中で、彼女の私物を机に広げる―



ダークブルーの薄手のトレンチコートからはやわらかく、昨日の午後―なんだかもう10年近く昔の気がするな―嗅いだフレグランスの匂いがして、うっかり懐かしさに涙が零れそうになったが、踏み止まる。間違いなく彼女の痕跡だった。黒い革のバッグの中身も、ネックホルダーつきの彼女のIDカード、色を薄いピンクに統一された細いペンケースにパスケース、財布、イヤフォン付属の音楽プレイヤー、携帯ゲーム機―なぜこんなものを持って出勤しているのだ、と不覚にも笑ってしまった、―黒く艶やかな二つ折りのミラー、薄紫とモノクロカラーのハート模様の化粧ポーチ、洗練してセンス良く色が纏められているそれらとは一線を画すといってもいいほど色気の無い透明の薄いA4サイズのファイル、グレーのバインダー。何も不審なものはない。だが、充分だった。確かに彼女はそこにいたのだ。どれもこれも見覚えがある、彼女がひどく酔ったり疲れて帰ってきた時リビングに散らばるそれらを私は何度も―拾ってやった覚えがある。もう一つあった、濃いピンクのレザーカバーの手帳―中を見る前に今度は比較的大人しいノックが響き、被告が到着したとの報告を聞く。私はそれをバッグに戻し、尋問にむけて発つ――次は遅れをとるわけには、いかない。



時刻は――16時を、今、過ぎた。


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