――騒動というものは、自分が冷静を保てている場合、むしろその混乱に乗じて動くことができるので有利に働くことがある。今回も恐らく、その一つだった、と考えられるだろう―交渉の件について、急遽結成されていた刑事と検事ら合同の交渉班に直接ねじ込むことによって驚くほど簡単に入り込めた。なにより彼らも、命令とはいえ―こんな役はやりたくないのだ。なんとか自分たちに火の粉が降らないよう懸命に頭を回し、万に一つ失敗した場合は全て上からの指示だったにも関わらず責任を取らなければならない。自分とはまったく無関係の人間の代わりに。となれば―張本人が自分からそれを買って出てくれれば、これほど好都合なことはないというところだろう。並んでいるオフィスの事務机の上の、一つ一つの主達の私物たちが退かされ、機材が持ち込まれ―物々しい逆探知の準備。、繋がれたスピーカー。多くの刑事が、検事が、いつそのときが来るかとひっきりなしに野次馬と化して行き来している――「予告では午後じゅうということだったが。詳しい時間はわからないのか?」交渉班の一人に声をかける、と―「はい。18時の釈放とそれ以降の段取りについて―という名目ですが、一体いつ来るかまでは」…こちらを消耗させたいという意図がよく見える。時刻は午後2時―直前。無機質な壁の時計の白地に台座に黒の針―の、長針が、かちりと12に重なり、短針が2にぴったりと合わさったところで、ほとんど集められていたこの検事局の電話の一つの呼び出し音が鳴り響く。最も近くにいた刑事がそれに飛びつき、そして――ついに。手だけで、合図がきた。



「お久しぶりです、御剣検事殿」



ボイスチェンジャーのふざけた音で―逆撫でするような声が。届けられる。私の耳と、オフィス全体に。吐く言葉には注意しなければならないが、しかし動揺したり怯えを見せるわけにはいかない―「…失礼だが、貴方は何者、なのだろうか。私と面識が?」「冷たいですねえ。まァ、いいや―そんなことよりアイツの釈放は、どれくらいに済みそうですかね?」「現在できるだけ早急に手配に移っているが、もう数時間は必要だろう。しかし確実に手続きは進めている―こちらも人質の状態の確認がしたい」「ハッハ。さすが、最低限は交渉術の真似事もやってるんですね。構いませんよ。声と画像―どちらが先がいいですか」ごくり、と自分の喉が鳴った―オフィスは静まり返っている。「…すまないが、どういう意味だろうか」「そのまんまの意味ですよ。あの可愛い検事さんの画像、今執務室のパソコンに送りました―あと、彼女は今ここにいます。どうしますか」複数人が話している最中に我先にと彼女の執務室に走り、彼女のラップトップを持ち帰ってくる――私の側に置かれ、開かれた。目の前にはパスワード画面。「パスワードが解除できない。彼女と直接話せる、ということでよろしいだろうか」心臓の音が―煩い。喉が渇いて舌を噛みそうになる。「そうですね、解いてもらうといいですよ。ごゆっくり」―――空白。がた、ごと、と小さな音―誰もが沈黙している。私も。永遠のような数秒間だった。



最初に聞こえたのは、荒い呼吸音だった。息も絶え絶え、というような。「せ、んぱ、い…?」どよめいた。全員が。感情が口から何もかも溢れ出してしまいそうになる。「…!き、みか……?検事!無事かッ!」「は、い……は、んにんは、ふたり…20代、30代男性、さ、ぷれっさーつきマカロフ、刃渡り20cm前後のサバイバルナイフ二本で武装―」「よせッ!報告はいい、君の状況を聞いているのだ!すぐに答えろ!」「わ、たしは…大丈夫、です…軽い暴行を加えられ、疲労は、してますが…軽傷、です」――――あれが軽い、だと?まったく冷静でない判断だ――「そう、か………、わかった。君のラップトップのパスワードを解除したい。緊急事態で申し訳ないが―此処で読み上げて欲しい」「はい、…え、と」簡単な英単語と、数字―皮肉なものだ、まさか結婚記念日にしているとは―――――解けた。確かに画像ファイルが送られてきている、がたがたとばたばたと周りの人間は揺れ動き私にのしかかる勢いで画面に多数の人間が張り付く、私は無造作に――二回軽くタップして、それを開く――時が止まった。皆、私も含めて、何が送られてきたのか最初の数秒は誰一人として理解できていなかった。体は仰向けに、顔は横を向いて意識を失い倒れている女―足は広げられて、黒のタイツが損壊して白い肌が見える―足の間に。股間にナイフが、刺さっている。僅かに刃が飲み込みきれないほど長いナイフが―刺され、柄だけが異様な存在感を放ってそこにある。横向きの顔は口が大きく医療用の開口器らしきもので強制的に開かれ、口内にも別のナイフが一本差し込まれている。口元や覗く舌には黒く乾いた血がはりつき玩具などではないことを証明しており、上半身のブラウスは途中まで無理やり開かれ、黒い下着とくっきりと盛り上がる胸の谷間が露出しており―その上には、白濁した液体が跳ねていた。わざとらしく。ぐしゃぐしゃになっている黒いスカートの上には汚された検事バッジと、同じような―当然、精液だと判断するほか、ない――白濁した液体で文字が書いてある。Where is Justice.



画面の目の前に陣取った男がゴミ箱を引き寄せる。幾人かは廊下の方に走っていく―女は死体だと。死体だと思った。今ここで、彼女と会話していなければ、間違いなく。―数人が連鎖して派手に戻す音が響いている――私は文字通り、言葉を失っていた。頭が働かない。性質の悪いスプラッタ・ムービーでも見せ付けられているとしか、思えない―「せ、んぱい?」軽い暴行、だと―――軽傷だと?報告は、正確に、被害状況も、もっと、駄目だ―言葉が出ない。何も。点滅している。何もかもが。脳内がぐるぐると旋回する。「あ、―――」そこであのふざけたボイスチェンジャーの音が戻ってきた。「これで満足かい」「ふ、ざけ―――ふざけるなッ!!どういうことだ、私達は貴様の要求に従っている!何故こんなにも人質が危害を加えられているんだ!」「危害?別に殺しちゃあいないし、このまま帰れたらほんの少し病院に通えば済む怪我だろうが。危害の内に入らないねえ」「申し訳ないが、話が違う―これ以上暴行を重ねるならばこちらも貴様の要求を全ては呑まんッ!!」声を荒げた私に対し、幾人かの上司が何やらわたわたとジェスチャーをする―「………。検事殿。アンタ、状況をわかってんのかい?俺は人質は無傷で返すとは言ってない。それに、この画像と午前中に送った映像、ちょっと指定時刻を弄った脅迫文がうっかり流出したりしたら―どの局もイヴニング・ニュースは大騒ぎだろうな。どうするんだ。暴行された後に『殺された』ってこたぁ、アンタらが何一つできずに―メンツの為に、気の毒な若い女検事を見殺しにしたって内容になるだろう」もはや誰も指一本動かそうとはしていなかった。交渉の余地も無い。



「――早急に」息が止まりそうだった。「手配を、する。だから人質にはこれ以上危害を加えないでくれ。…これは、単なる懇願だ。検察官御剣怜侍としての、プライドを捨てた」「ハッハッハ!こりゃあいい、アンタ本当に正義感の塊みたいな男だねェ!この国の司法代表として、検事として、男としての矜持より部下の命が大事か!涙が出てくる」「…恥ついでにもう一つ聞かせてもらおう。貴方は一体、何者だ?」私は目配せをする。一部の刑事達は、姿勢を低くして―音を立てないように出て行く。遠くから足音が――喧しい空気を読まない足音が近づいてくる。「……俺は死人さ。名無しの権兵衛、ジョン・ドゥってやつか?アンタの華麗なキャリアの影だよ」荒い呼吸。到着を待ち望んでいた私の膝に開かれたファイルが滑り込む―



かかった。



「…では。貴方は一体どこから来たのだろう。正義を探しに、といったところか」「その先の話は逆探知を切ってからにしてもらおうか。スピーカーはそのままで構わねえぜ」まあ、さすがにそこまでは無理だったか―私は目だけで止めるよう指示する。不十分とはいえ幾らかは絞り込めたらしく、追跡班らは音を立てないよう慌しく―ファイルを私の膝に滑り込ませた糸鋸刑事もこちらに一度視線を投げ、出て行った。「これで、いいだろうか。無能な司法を躍らせるのはさぞ楽しかろうな」「ああ、悪くない。アンタもSL9号事件関連と元・主席検事殿の裁判で―こっち側に来てくれるんじゃないかと、期待してたんだがな。これでも」「随分こちらの事情に詳しいようだ。出身は桜田門かね」「無能なふりをしてくれなくてケッコウだぜ、検事殿。俺の名だってアンタはもう知ってるはずだ」「そちらこそ、私を買い被りすぎなのでは?………確証までは、まだ。しかし、このようなことをする理由ならば―」「聞かせてもらおうか。面白い話をでっち上げてくれるんなら、サイレンの音が聞こえるあたりまでは待っててやるよ」



「貴方はかつて、刑事だった。正義を信じ、組織に尽くし―腹に据えかねることも多々あれど、基本的には信じていた。己の正義を、組織の正義を。しかしそんな中事件が起きる―ある銀行が強盗目的で占拠された。犯人グループは人質を盾に逃走を企てている。外は警察が包囲。最初の通報で駆けつけていた刑事らと、犯人グループの武装レベルの高さから判断された―後の連絡により駆けつけた本庁の機動隊。現場は大いに混乱していた。意見は真っ二つだ。このまま突入すべきか、うまく交渉し人質を確保するか―貴方は交渉を選んだ。僅かな部下を連れ―外で待機している刑事とのみ連絡を取りながら、銀行内に進入。怯える人質を早く救ってやろうと、誰一人殺すわけにはいかないと、必死に――しかし外は混乱を極めつつあった。どこから漏れたのか多くのテレビ局が大挙し、何台ものヘリが取材に入る。犯人も警察も最高に焦っていた。過度のプレッシャーに耐えきれなくなり――おそらく、犯人か機動隊かそれともほぼタイミングは一緒だったのか――機動隊が強行突入を遂行した。待機組の刑事らには、何の連絡もなく。突如始まった銃撃戦の最中に、貴方達はほぼ丸腰で取り残された―それでも必死に、人質を救おうとあがく。しかし期待虚しく犯人は人質を連れ逃亡、代わりに貴方の部下は一名射殺された。全ては着実な多くのミスの上に発生した、憐れな必然の不幸だった。後に、事件は解決したものの―――貴方の部下は勇気ある殉職と銘打たれ、その後のフォローは一切無し。かつ、犯人グループはその多くが逃走に成功。貴方は司法に疑問を持ち始め、次第に憎むようになった――こんなところ、だろうか」



男が、笑う。



「さすがだ。ウツクシイほど、出来すぎてんなあ。だが――残念ながらそれじゃ、不十分だ」「…どういうことだ?」「世の中なかなかオハナシのように過不足なく小綺麗にはいかないもんさ。小説家としちゃ二流だな、検事さん」「なかなか見る目がお有りのようで、何よりなのだが―つまり、それは」「それだけじゃ足りないんだよ。ならば俺は何故わざわざアンタら検事に唾を吐く?しこたまトラックにC4積んで本庁ビルに突っ込んでやった方がよほどクールだし、楽だ。あえて検事を選びここまで手をかけて銃口向ける理由がないんだよ」「……………つまり、それは。それは―貴方の、部下は――」「そろそろタイムオーバーだな。なかなか悪くない話だった。アンタはやはりなかなか優秀なようだ、俺を強盗呼ばわりしたらオシゴト熱心な後輩のマンコは使い物にならなくなってたぜ」「待てッ!まだ、まだ話は終わっていない―聞かせてくれ、せめて、何故貴方は、私と彼女を――」「面白かった、充分だ。この世の糞展覧会みたいな組織の中じゃ、テミスの娘の糞くらいの価値はあるだろうな。じゃあ、釈放は18時。脱出ルートは24時までだ。また電話するよ」「待て、待ッ―――――」回線は切れた。切れた―――



それらと共に緊張は切れた。何もかもが一斉に。まだ、未だに深淵の底は、見えない―



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