――――頭が、いたい。がくんと揺さぶられたように。酸素が足りなくて、懸命に呼吸をすると、やっと瞼が開いた。床―冷たくかたい、埃っぽい床に顔が押し付けられ、倒れている。口枷は外れているものの、体は、後ろ手の拘束のせいで、うまくおこせない。バランスもとれないし、筋肉もうまく使えなくて―無様に蠢いていると、バンとドアが開く音がして人が入ってくる気配がした。「検事さん。久しぶりだねえ」―あの、銃を突きつけていた男の、声だ。「今アンタのせいで検事局は大慌てだよ。警察も一緒になって騒いでる」挑発は諸刃の剣だとはわかっていても―、気丈に振舞わなければ怖くてつぶれてしまいそうだった。「身内に手を出されたら、警察は本気になるどころじゃ済まないよ。絶対捕まるから」「マァ、そう信じてたほうが幸せだよなあ。まだ若いんだから知らねえだろ。ケーサツってのは身内が大事なんじゃねえ、面子が大事なのさ。アンタの安全なんてどうだってよくてな」「……詳しい、んだね。もしかして昔のお友達?」「…この期に及んで事情聴取とは、仕事熱心なことだ。まあちょっとした縁さ。正しくはケーサツというより、アンタ達やアンタの先輩へのな」ああやっぱりこいつらは検事に―たぶん、御剣に対して何か―要求があるのだ。要求と言うよりは既にもう、執念のような、妄執と化した何かが。静かに冷たく穏やかな代わりに決して消えない、温度の高い青の炎のような憎しみが、この男の言葉には揺らめいている。「可愛い後輩がいけないことになったらアンタの先輩の鉄面皮も少しは和らぐだろう?そういうわけで、協力してもらう」「私みたいなただの後輩がどうなったって―あの人が、取り乱すはずない。無駄だと思いますけどね」



何の予告も無く引っ張り上げられ、そのまま床に叩きつけられた。とんでもない衝撃に、一気に呼吸が苦しくなり、がんがんと痛みは遅れて額の辺りに溜まり始める。「…ちょっと傷がついてたほうが臨場感出るだろ?アンタのその生意気な面も少しは見られるようになるってわけだ。まあ、楽しくやろうぜ」靴の裏―丁寧に、私を貫かないように足全体を使って、しかし執拗に顔を、体を、蹴られる。吐き気がするほど、痛いし、苦しい―涙が滲み始める。目をきつく閉じ、歯を食いしばって耐えるほかなかった。男は、無慈悲に―楽しく、などと自分から言葉を使ったくせに―まるで何の昂ぶりも、私への嗜虐の悦びもなく、ただただ私を蹴り続けた。拳を使うまでもないのは、おそらく感情が揺らめいてないからだ。わざわざ殴ったって、殴打そのものへのフェティシズムかちゃちい支配欲でも持っていなければ―さしたる傷もつけられず、ただ自分の手が痛くなるだけだ。つまり、私なんて、道端の小石にすぎない。腹が立ったときに、思い切り蹴ってすっとするだけの、物言わぬ小石。嗜虐して愉しむほどの存在でもなく―本当に、ただ、傷をつけ続けた。そのままたっぷり数十分は経ち、私の顔はおそらくきたなく腫れ、鼻血と唇を切った血で口は鉄の味がした。痛みとショックのあまり息をするのが精一杯、で――意識を早く手放したいと願い始めたあたりで、男が蹴るのをやめた。必死に逃げようとしていたせいで、髪はばらばらで私の視界は影の落ちた床を右往左往しているだけだ。「よし。カメラ持って来い」声が響く。私は再び引き起こされ、髪を掴まれ顔をビデオカメラの前に突き出される―くそ、ふざけんな、アイラインもファンデも絶対どろどろだ―ぎりぎり歯を食い縛ったまま、睨みつけてやる。無機質なレンズを。今までの酷い目の精一杯の抵抗として。カメラを回してる別の男が楽しそうに長い口笛を吹く。






脅迫状と同じ封筒で、そして同じフォント同じインクの手紙が同封されたSDカードが送りつけられた―らしい。それを知ったのは私が彼女の執務室の捜査を終わらせた直後―時刻はおそらく、午前10時を過ぎたあたり―だろう。刑事はその知らせを受けて一度私の元から離れ―私は少し考えを纏めようと、自分の執務室に帰ったが―すぐに刑事が戻ってきた。鼻息荒く、顔を真っ赤にして、肩を大きくいからせて。「…け、んじが」「どうした、刑事。そろそろ要求の期限でも定めてきたのではないのか―」「え、ええ、そッス、いや、それより―検事が、検事が―――」何だというのだ、まったく…「落ち着きたまえ。相手もまさかこんなに早く殺すまい。何かまずいことが?」「これ、を」手渡されたのはUSBだった。おそらく彼が、勝手に―勝手にコピーして持ち出したのだろう、とんでもない情報管理のずさんさだが―彼の尋常ではない様に驚きながらも、自分のラップトップにそれを差し込む。…映像データか。――――最初は何をしていたのか正直わからなかったが、わかったのは、無機質な打ちっ放しのコンクリートのような白い背景―恐らく古いビルの一室なのではないかと思われる―と、拘束されて倒れている女、それを上から蹴り続ける男、だった。マイクが切られているのだろう、音はわからない―ただただ、蹴っている。あまりに自然なので、まるで壁のように思えてしまうくらいに。しかし女は身を捩って逃げようとしているため、ようやくそこでああこれは人間で、しかも意思を保っているのだ―と、思い出す。しばらく経って、何かカメラに向かって蹴っていた男は指示を出し―女の身体が引き起こされる。長い髪を掴まれ、ひどく傷ついた顔面を見せ付けるようにアップになる。女は大きく息を乱しながらも、えらく―もはや憎悪といってもいい表情で―殺意さえ感じられるような、凄まじい気迫を込めた目で―こちらを睨みつけている。音も無く映像は終わった。黒い画面に戻る。私は言葉が出なかった。もはやそれは記号としか認識できなかった。暴行を加える男と、それから逃げ出そうとする女の人質―声が出ない。しかし拳を握りすぎて、歯は食い縛りすぎてどちらも感覚が無い。な――――んだ、これは?彼女は一体何故こんなことをされている?あのえらく穏やかで飄々とした表情をいつも浮かべる顔を、あんなに腫らして―抵抗することもできずにただただ蹴られて、苦痛や恐怖を必死に屈辱と憤怒に変えることでやっとのことで叫びだすのを堪えているような様子で―何故、彼女が?何故こんなことになっている?送られてくるのは私への要求だけではないのか?昨日最後に接触したときのあの甘く濃い蜂蜜のようなフレグランスの香りを私は覚えている、奴らが何の感慨もなく無造作に掴んだ綺麗な髪の感触も、痛々しく皮が裂けて剥がれていた、すれ違う私を見て一瞬くすくす笑うように柔らかくぷっくりした唇が歪んだことも―何だ?何が起こっているのか、理解できない。これだけでは、こんなものでは―「検事、検事ッ!」「――、ぁ」


やっと息が出せた。「検事殿、大丈夫ッスか…」「も…問題、ない。すまない。取り乱していたようだ」「いえ…御剣検事は、見てる間からえらく無表情で…その、取り乱してなんてないッス。大丈夫ッス」「そ、うか…」がんがんと耳鳴りがした。何か胃の中に入っていたら戻していたかもわからない。それくらい冷静さを欠いている。「…、期限、は。いつまでだと?」「少なくとも被告の釈放は本日18時まで、と―あと、それまでに必ず此処に直接交渉の電話をかけてくる、という予告ッス」「……当然、私だろうな。話したいのは」「…ッス。御剣検事には知らせず代役を立てろとか、今…上も動揺してるッス。マスコミにリークされそうになってるらしくて」「こんな時まで、…こんな時までッ!そんなことを言っているのか!」「………面目無いッス」わかっている、わかっているのだ―刑事にそんなことを言ったところで、彼も私もこの大きな奔流の中の小粒にすぎないということは。当然。「…すまない。とにかく、出来ることをしなければ…私はなんとしてもその交渉に直接応じなければならない、こちらもそれなりに武器を用意して」「武器…ッスか?」「そうだ。奴らがそこまでその過去の被告に固執する理由―私や、そもそも検事という存在そのものを挑発するようなこの手段をわざわざ選ぶ理由―それを、調べ上げなければ。なんとしても」刑事は、背筋を正して頷いた。「上はもう、ガンガンに要求に応じる気みたいッス。脱出ルートはともかくとして、被告の釈放に関してはほとんど逡巡の余地もないって感じッス―」「ならばその前に、ねじ込むほか無さそうだな…」とりあえず私は被告の名前の、判例を―自分の執務室の棚から探し当てる。



――正直に言って、不審な点や、不可解な点は何も無い。そこにあるのはただ、過去として過ぎていった裁判の記録だけだ。そもそも明快な事件。被告は女性で、銀行強盗の現行犯だった。人質の銀行員を逃亡の最中で殺害し―犯人グループの中で、一人だけ逃走中に逮捕。本人も犯行を認めていて、私もほとんど仕事が無い―といえばいいか、とにかくスムーズに済んだ覚えしかない。酌量の余地無しの完全な黒で、強盗殺人罪で死刑が確定している。そしてそれはまだ―執行されては、いないが。つまりそういうことだろう、あのとき逃げおおせたグループの残党が、彼女を取り戻すために動いているというのが自然だ。しかし…まったく出来すぎている。それはもう、これで確実だと言わんばかりに。間違いなく警察も、検事局の上も、その線だけを突き進んでいるのだろう。私自身も、それ以外に何かあるとは到底思えなかった。「…考えろ」考えるんだ。何もないわけがない。こんな、ここまで私や検事を憎んでいる―わざわざ検事局の中で彼女を襲うという危ない橋を選び、嘲笑うようにこんなものを送りつけ、交渉の相手に私を指名する―ここまで周到に事を運びながらも、この国の司法に唾を吐くような真似を執拗に繰り返すなど―明らかにおかしい。何がそこまで、そこまでこいつらを―駆り立てるのか。ここ数日の疲労や先ほどの映像のショックや―見せ付けるように事も無げに暴行できるような倫理観の崩壊した集団に彼女が囚われているということや―つまりそれはすぐに命を奪われることはなくともこの先最悪の陵辱が施される可能性も大いにあるわけで―そういうことばかりが頭の中を巡り、そのせいで思考は何度も中断された。「くそっ…」


忘れもしない、かつて真宵くんがコロシヤに誘拐され、依頼人の無罪の要求を弁護士につきつけたあの事件――やはりあれを思い出さざるを得ない。あの時の成歩堂の追い詰められぶり、取り乱しぶりといったら―忘れられそうにない。近しい人間が自分を理由に人質に取られるというのは、こうまで精神を削られるものか―と実感する。ただでさえ誘拐されたというだけで大事なのに、ましてそれが自分の功績に巻き込んだ結果など!認めるにはあまりに、重すぎる―「御剣検事、あの」「ム。…どうした、刑事」「……自分、これを見て、なんとなく思い出したことがあるんッスが―」私は目を見開く。「何だ。何でも構わない、言ってくれ」「…ううん……その。この時、自分もいたッスよね?捜査、ってほど捜査した覚えはないッスけど」「そうだろうな。犯人らがかなり本格的に武装してたのもあり、ほとんど機動隊が片付けた仕事だった」「そッス。その機動隊ッス。たしか、あいつらが、突入する時―現場は混乱してたッス。すごく―このまま要求に従うそぶりを見せながら、隙をつくべきだという意見と―奴らが逃走するその瞬間こそが勝負だ、今こそ突入するしかないという意見と―上もこの二つを決め兼ねて大きく動揺してて。自分らも、ほとんど動けなくて。自分は外での待機組だったんッスが―中に、実は、あの時公表されてないッスが、交渉班がこっそり入り込んでいたッス。本当に、少数。4人程度で―」「――――何だと?そのような報告、私は聞いてないッ!」「ッ!…すまねッス。機密だったッス。現場だけの。何故ならそこで、自分ら待機組への連絡を欠いた機動隊の強行突入によって―1人、刑事が殉職したからッス」



ピースがはまる音がした。



「あの事件で死亡したのは、人質だけではなかったのか!」「そうッス。あの現場にいた人間しか―知らないッス。断言できるッス」「……成程、な。事情がわかってきた。そして、それはとても重要な証言だ。間違いないか、刑事」「間違いないッス。こればっかりはいくら自分の目が曇ってても、刑事のタマシイは曇ってないって証明ッス!」………できることなら、そのマナコの曇りもなんとかして磨きぬいておいてほしいものだが、まあ、いい。「刑事。すぐにその殉職した刑事及び当時現場にいた刑事の情報を集めろ。私はなんとしても交渉に応じられるよう掛け合ってくる。君から得た、この情報を使って」「あいわかったッス!」掴んでやる、掴んでやる――なんとしても。この、私の手で、こいつらを。私は―――もはや信念を持って、煤けた真の正義気取りのレンズの向こうの小悪党どもを潰してやる。



深淵の底は未だ見えない。延々と落ち続けるそれがもはや穴だったのか海だったのかさえ、私達は誰も知らないのだ。



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