言葉が見つからない君に出会う瞬間まで、僕の世界に色はなかった。そんな臭い台詞を言うつもりはないけれど、事実、君に出会えたことで僕の世界は確かに色付いたと、本心からそう思う。
背中を汗が伝う感触。キュッ、と床を踏み締めるバッシュの音。周りから送られる声援、喧騒。瞼を閉じれば鮮明に思い出せる程に感じたあの感覚が、苦しくなったのはいったいいつからだっただろう。気付けはボールに触れるのが恐くなっていた。そんな感覚が幾日も続いて、まるで迷子の子供のような不安を抱えていた。何にすがればいいのかわからなくて、今にも泣き出しそうで。大好きなバスケを嫌いになった自分が大嫌いだったんだ。あの頃の僕に《バスケ》という世界は、全て灰色に見えていた。
「黒子?」
不意に名前を呼ばれて顔を上げれば、そこには少し不思議そうにきょとんと目を丸くした赤毛の彼がいた。プレーの時は野生の虎を思わせるような彼だが、今のように目を丸くしてジッとこちらを見つめる姿はまるで大型犬のようだ。「なんでもないです」と返事をすれば、腑に落ちないといった表情をしながら持っていたボールを僕に投げた。
「なんでもねぇって顔かよ」
「……火神くんって変なところで鋭いですよね」
「それって誉めてんのか?貶してんのか?」
ムッと顔をしかめる彼に「さぁ?」と曖昧な返事を返し、受け取ったボールを見下ろした。酷く見慣れたその色や感触に、自然と口元が弛んでいくのを感じ、僕は不意に実感する。今の僕はこんなにもバスケが好きなのだと。きっとバスケを嫌いになる前より、ずっとずっとバスケが好きだ。ボールを掴む力を強め、ただジッとそれを見下ろしていると、不意に足元に影が落ちた。顔を上げればいつの間にか近付いていたらしい彼がすぐ目の前にいて、らしくなく少しだけビクついてしまった。「火神くん?」と真っ直ぐに僕を見つめる彼の名を呼ぶと、ツィ、と少し伸びた前髪をはらわれ、そのくすぐったさに肩を竦める。
「……マジでどうかしたのか?」
「…………君はどうしたって、はっきりさせないと気がすまないんですね」
君らしいです。そう言って苦笑を漏らせば、彼は困ったように顔をそむけた。あぁ、君はいつだって真っ直ぐすぎる。どんな時も一直線で、全力で。心からバスケが好きだと叫ぶ君だからこそ、僕は君の《影》になろうと思えた。
「そうですね。しいてい言うなら僕は君が好きなだけなんです」
僕の世界に《色》をくれた君に感謝しながら、僕はそんな君に恋慕を抱いている。それは何故か裏切りのようで、少しだけ後ろめたい。だけどバスケが好きだと叫ぶ君が好きだ。誰よりも勝利を望む君が好きだ。独りではなく、仲間と共にあろうとする君がとても、好きだ。何の恥ずかしげも、疑いもなく「日本一にする」と言った君のあまりに真っ直ぐな目を見たあの時、僕は君に恋をして、同時に世界が色付いた。
「好きですよ、火神くん」
僕に《色》を見せてくれる君が。
「……んだそれ」
意味わかんねぇ。そう言った火神くんの顔は見なかった。見なくても、きっと君は真っ赤な顔を隠そうとしているだろうと容易に想像できたから。
「わからなくていいです。ただ、知っておいてください」
僕の気持ち。口元を弛めながら一回り以上も大きな彼の手を握る。きゅっ、と握った指先がほんの少し震えたのがなんだか可愛くて、無意識に「ふふっ」と笑みが漏れた。
「なに笑ってんだよ」
「いえ、火神くんは可愛いなと思って」
「んなこと思うのはテメェだけだっつの」
「そうでしょうか?」
「黒子以外に《可愛い》とか言われたら気持ち悪ぃわ」
溜め息を吐きながら僕の手を握り返す彼の顔はやっぱり赤くて。どうしたって可愛らしいと思えてしまう。
「やっぱり可愛いです、火神くん」
「……うっせぇ」
「!」
くしゃ、と前髪を上げられたかと思えばカプリと額に噛みつかれた。チリッとした軽い痛みに続き、濡れた舌の感触も感じてバッと彼から身を引く。決して気持ちが悪かったのではない。ただ酷く恥ずかしかったのだ。
「な、」
「うわ、黒子顔真っ赤」
「っ!」
可笑しそうに、そして酷く無邪気に笑う君に僕はもう文句など告げられなかった。あぁ、君は狡い。こんな時ばかり、そうやって僕をたぶらかす。
(君に言われなくたって、わかってますよ)
自分の顔が赤いことくらい、ちゃんとわかってる。それが悔しかったから、僕は仕返しのように背伸びをして彼の頬に唇を寄せた。
「好き」以外の言葉が見つからない。
(何度だって伝えたい想いがある)
僕の名を呼ぶ彼の胸に擦り寄ると、予想通り柔らかく苦笑を漏らした彼が僕の髪を優しく撫でるから、僕は軽く溜め息を漏らしてからもう一度だけ「好きです」と呟いた。
2012.06.25
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