DendrotoXin

スパンコールの毒






私は彼女に特別扱いをしてほしい。
下心があるから、気を引きたいから、恋人だから。理由はなんだっていい。どんなに些細な事だろうと、彼女に特別に扱われることに他にない至上の喜びを感じる。少しでも彼女に特別に思って欲しくて、彼女が望むことはなんでもしてやりたいと思ってしまうほどに。
なのに彼女ときたら、友人の家で行う仮装パーティーに持っていくためにと焼いていたカップケーキを、私には分けてくれなかったのだ。
菓子を分けてもらうのが特別かどうか、言ってしまえばそうでもない。本当に下らないしそんなことを気にするのは自分自身子供かと呆れてしまう。しかし、ナオキが作った菓子を貰えなかった事が、今だに尾を引いて憂鬱になるくらい私にとっては悲しかった。
パーティから帰ってきた彼女にそういえばと問いかけて、「ズミにあげるのは恥ずかしいからズミがおすすめしてたケーキを買ってきたよ」と言われた時のショックを思い出してしまい、新しいレシピを考える頭が止まる。私はパティスリーのケーキではなくナオキが作ったケーキが食べたかった。料理が得意でない彼女が自信作だと自慢していたカップケーキが欲しかったのだ。自信作なら一つくらい私にくれればいいのにと昨日から何度恨めしく思ったことか。あの砂糖が入りすぎで若干焦げていたカップケーキに思いを馳せてしまう。
純粋な厚意で買ってきたケーキを嬉しそうに見せるナオキに文句を言うことはできなかった。私が駄々をこねたところで彼女が作ったカップケーキはもうなかったのだから、どうしようもなかったのだ。そもそも恐らく、私は彼女の喜びをいの一番に共有させてほしかっただけで、今彼女にもう一度作ってもらったところでそのケーキが欲しいわけではない。もう私が欲しかったものは手に入らないと思うとやるせなさだけが私の胸中に渦巻いた。

意識を作業に戻そうとノートに視線をやると、シャープペンシルの芯が折れてノートに転がっていった。あまりに作業が進まないので気分転換に風呂でも入るかとペンを置く。
支度を一通り終えて脱衣所を兼ねた洗面所の棚にタオルを置くと、見慣れない箱が置いてあった。
マーメイド変身セット。
彼女が使わなかった仮装道具だろうか。パッケージの裏面を見ると内容は腰から下はアシレーヌのようなヒレがついたスカートのような部分と、結構際どい貝殻型のビキニ。ヒレ部分に足を通すことでかなり本物らしさが出せると書いてある。ナオキもさすがにこれを他所で着るのは抵抗があったのだろうか...当日は確か魔法使いの格好をしていた。
思い返すと、私は仮装をしたことがない。幼少のころも生憎私の家には縁がなかったのだ。なんだか急にこのギラつく鱗に焦がれた気がして、脱衣所に立ち尽くした。



風呂場から私を呼ぶ声が聞こえて、面倒に思いつつもソファから立ち上がる。
変な音はしなかったのでこけてしまったとかでは無いと思ったが、ズミがわざわざ呼ぶのだから何かあったのだろう。例えばボディーソープを切らしていたとか。いや、ズミは少なくなってきたらいつも自分で足しているからそれはない。特に何も見当がつかないけれど、とりあえず適当に返事をしつつ風呂場の扉を開けた。
珍しく湯船に浸かっているズミは浴槽の縁にもたれかかっていて、大丈夫かと尋ねるがええだかはいだか気のない返事をするだけでこっちを見ない。何かを言い淀んでいるのか難しい顔でうなるばかりだ。
ズミが何も言わないのに苛ついてきて、服を着たまま浴室に足を踏み入れた。お湯の中がキラキラ反射している。魚の尾びれのようなものも見えて

「人魚になってしまいました」
「どうしたのズミ、なんか嫌なことあったの?」
「すみません、ハサミを持ってきてもらえますか。これは後で弁償します」
「ねぇ、言ってくれないとわからないよ」
「あなたが...いえ、......脱げなくなったので手伝ってもらっていいですか」
「それは別にいいけど、そういうことじゃなくてさぁ」

ズミは普段常識人ぶっているわりに意外と馬鹿なことをする。明らかに女性用の仮装グッズで足が抜けなくなる様は無様の一言に尽きるが、照れているところを見ると完全に馬鹿にすることも憚られて、なんだかどうしようもなく愛しい気持ちになってしまう。絶対怒るだろうが写真に納めておきたい。恥かくしにジョークっぽいことを言っていたからキスの一つでもすれば許してもらえるかもしれないと思い至ったところで気づいてしまった。
ズミ、もしかしてキスしてほしかったの?
あの状態で。
人魚は人魚でも人魚姫の方になってしまったのかもしれない。ケータイとハサミを手に浴室の扉を開けると浴槽のヘリにズミがもたれていた。

「ただいま、人魚姫」
「やめてください。今反省していますので」
「人間に戻してあげるから写真撮らせてよ」
「……性格悪いですよ」
「でも好きでしょ」

丈が足りないせいで股間が隠れていない部分を手で覆っているのもズミのみじめさを加速させているのだろうか、怒っているというより最早諦めの表情が画面に映る。この機会を逃すともう二度と着てくれないので念のため何枚か角度を変えて撮っていると、いい加減にしろと目線で訴えてくるズミと目が合ったのでこの辺にしてやろう。特に悪いとは思っていないが、「ごめんごめん」と平謝りしながらズミに口づけるとズミはただでさえ小さい瞳を小さくした。
嫌がっているわけではなさそうだったので角度を変えて唇を食むと、声だか吐息だか分からない声がズミの口から漏れた。普段はあまり長く口づけることはしない。ズミに口内の味を探られている気がするから。でも今はずっとしていられるような気がした。ズミがかわいいことをしているからなのか、それともズミが正常な判断を失っているからなのか、それとも今この瞬間が何か特別なのかは分からない。少なくとも今私にされるがまま唇をいいようにされて瞳に熱を宿している男のことを、私は愛しいと思っていた。
吸っていた下唇を解放すると、思いの外強く吸っていたのか赤く腫れぼったくなっていた。

「…人魚姫がどういう話か知らないんですか」
「王子様にナイフが刺せなくて泡になる女の話でしょ」
「今キスする必要ありましたか」
「ないけど…したいと思ったの。それとも私のこと刺す?」
「まさか」

ズミにハサミを渡すと無言で布を切り裂いていく。きらめくスパンコールを留めていた糸も切れたのか鱗部分が湯船に浮かんでいた。ゆらめくそれをみつめると、宝石を眺めているような心地になる。「あなたは、」ズミが何かを言いだそうとして言い淀む。スパンコールからズミに視線を移しても目が合うことはなかった。ズミの目もスパンコールも大差ないな、とズミの瞳を見つめていると、ズミの瞳もなんだか揺れているような気がした。

「あなたは王子様ではないので」
「えぇ…うん。ズミも人魚姫じゃないしね」
「そもそも人間です」
「ふふ、私は人魚かもよ」
「それなら私も人魚かもしれません」
「もう人魚じゃなくなったのに?」

「そうですね」とズミが笑う。誰も彼も一度変わったのなら、元に戻るのは容易ではない。ズタズタになった人魚の皮はもうパーティグッズとしての役割を果たすことはない。私もズミも、いつかこの皮みたいにぐちゃぐちゃで形を成さない関係になってしまうかもしれないのに、こうして間の抜けたことを二人で笑いあうのはバカみたいな贅沢だ。ズミが何を悩んでこんな奇行に走ってしまったのかはわからないが、知りたいと思った。自分の気持ちを自覚する理由が間抜けすぎる。
私が「声がでるうちに教えてね」と言うと、ズミはあからさまに嫌な顔をした。

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