DendrotoXin

どちらかというと私が推されている



「話があります」
「ただいま」
「失礼、おかえりなさい」

ドアを開けたらズミがいた。全身鏡が立てかけてない方の壁にもたれて、不機嫌を醸し出すオブジェみたい。リビングからいい匂いがするからきっと何か作ってくれたんだろうけど、疲れている身としてはズミに説教をされるくらいなら来て欲しくなかった。
ズミに合鍵を渡してからここ1週間、ほぼ毎日私の部屋に訪れては、散らかっているだの食事のバランスが悪いだの散々文句をつけて、世話を焼くだけ焼いて満足して帰っていく。家事をしてくれるのはいいけど、感謝を上回るくらい対応が面倒なのでもう鍵を取り上げてしまいたい。
リビングに入る前に振り向き、少し背伸びをしてズミの顎に軽くキスをする。ズミは私から触られたりキスされると急に大人しくなる。今だって、めちゃくちゃに寄っていた眉間のしわが普段くらいになった。
すごく面倒くさいけど、後で怒りがぶり返して爆発すると更に面倒なので、ズミの感情が緩んだ今私から聞く以外にタイミングは無い。

「ズミ、今日は何にイライラしてたの」
「鍋のままラーメンを食べましたね?」
「......」
「シンクに器がありませんでした。」
「だって」
「食事を摂るにあたって食器を使うのは当たり前のことです。鍋から直接食べるなどありえない」
「でも洗い物が増えちゃうし」
「私がやりますのできちんとした食器で食事をとって下さい」
「ズミ、お母さんみたいだね」
「は...」

ズミは眉間を抑えて黙り込んだ。そもそもゼリーと菓子パンだけの食事がラーメンまで進化したのだから少しは褒めてくれても良いのではないだろうか。
ズミをリビングに置き去りにし、鍋の中を覗く。ズミと出会うまでの私のキッチンには存在したことのない、私の家で作られたとは思えない料理だ。家庭の味なんて微塵も感じられない、凄く高級な味がするキラキラ輝くズミの作品。ズミは使い切らなかった野菜や卵が腐る前にやってきては、また食材を買い足して料理を作りに来る。
現金なもので、鍋の中の私の大好きなスープを見た瞬間、いかに早くズミのご機嫌を取れるかを考えてしまう。今し方怒られたばかりだが、このまま鍋にスプーンを突っ込んでしまいそうだ。

「ナオキ、」
「このスープ好きなの覚えててくれたの?嬉しいな」
「...普段あまり食べないあなたの食いつきが異様に良かったので印象に残っていました。それより、」
「わかったよ。鍋からは食べないように気をつける」
「いや、それもですが...」
「他にまだ何か怒ってた?」
「あの...あなたは私のことをなんだと思っていますか」
「ん?何...ボーイフレンド...あ!じゃなくて推して欲しいんだっけ?」
「いえ、ボーイフレンドで結構です」

呆れたのか満足したのか、家の主をしっしとキッチンから追い出すと真剣な顔で料理の盛り付けを始めたので、私は大人しくリビングのソファに体を沈めた。
ホロキャスターで適当にニュースを眺めていると、数日前から何度も宣伝されている、新メンバーが加入したアイドルグループの話がまた流れ始めた。私の大好きだった推しがいたグループ。温め直される料理の匂いで、ズミと出会って慰めてもらった日のことを思い出してしまう。
そもそもこの関係は1ヶ月前、私の大好きな推しが結婚した時から始まった。



突然だった。
ゴシップも匂わせも何もなく、大好きなアイドルが結婚した。本当にいきなりだった。
私の推しは結構人気のある3人組のグループで、イメージカラーがオレンジの笑顔と愛嬌が凄く素敵なひと。次のライブの予定だって決まっているし、ものすごい倍率のバスツアーだって決まっていて、まだ3人とも若くてこれからって時で。なんで?って思ったけれど、ニュースも雑誌も画面の向こうの彼も、結婚しますって。本当に?
積み上げたCDとビリビリ粉々のチケットと一晩フリーズした頭で私はもう何も分からなくなっていた。ただぼんやり理解したのは、彼のことが結婚したいくらい好きだってことと、彼は私以外の女と結婚するってこと。
でもそりゃそうだよね。だって私、彼と通算30分も喋ったことないし。喋ったことないほぼ知らない人じゃなくて、もっと身近で綺麗で金持ちで困った時頼れるお姉さんと結婚したいよね。もうなんもやってられないな。
ヤケ酒をしようと家中這いずりまわったけれど生憎何もなくて、渋々外に出る支度をする。元気はなくても、ドレッサーの前に座ると手が勝手に普段通り動いていく。どんどんできていく私の生きるための顔に、こんなに消えてしまいたい気持ちでもまだ生きる気力があるんだと少しだけ感じられた。苦し紛れの景気付けに、ハイブランドのアイシャドウをまぶたにのせると、顔だけは一丁前でなんだか笑えてしまう。
大好きなアイドルにつぎ込むために頑張った仕事と、少しでも目に入るようにと今では無駄に綺麗になった私。アイドルのおかげでこうなれたと言えば聞こえはいいけど、それは夢を見続けてゴールを何も考えていなかったからこそ。
私は何も分かっていなかったんだ。アイドルだって好きな人ができたらファンなんて置いて結婚するって。彼にも彼の人生があるって。彼が同じ人間だということさえ。

外に出ると夜風で思いの外冷えて、少し身震いをしてしまう。どこの店が良いとかは無く、適当なバーで適当にベロベロになれればどこでもよかった。ミアレであればそこまで粗悪な店は少ない。交通の便の良さを考えてミアレに住んでいたのは彼を推してて良かったと思える所のひとつだ。もしかすると今の私の生活は、ほとんどが彼を中心に形成されているのかもしれない。ああ、虚しい。
推しという表現でずっと彼のことを好きだと言っていたけど、これは分類するならば恋だ。むなしさと喪失感と怒りと未だ引き摺る恋しさがないまぜで、早く飲み下さなくてはどうにかなってしまいそうな心地であった。考えていることはもうめちゃくちゃだ。もうここでいいやと薄暗くあかりの見える店に入る。
入ると、ホールには必要最低限しかあかりがついておらず、キッチンにだけ人がいるようだった。よく確認もせず店に入ってしまったが、この時間だからもしかしたらもう営業は終わっているかもしれないと思っていると、ドアベルの音を聞いてか奥から人が出てきた。

「どなたですか?今日は定休日ですよ」
「......すいません」

それ以前の問題だった。もうだめだ。こんな些細な失敗でも、もう自制が効かず目から涙が出始めていた。
この人には申し訳ないけれど、もう限界であった。定休日に突然店に入ってきて突然泣き出す女なんて、どう軽めに見ても不審者以外の何者でもない。早く外に出なくてはと頭では分かっている。けれど、次の店に入るまでにこの涙が止まるわけではないしもうどこにも行きたくないと脳が拒絶し、足がこの場から動かなくなっていた。

「大丈夫ですか...具合でも悪いのですか?救急車を呼びましょうか」
「いえ、具合は...悪いですが救急車は結構で、す。本当に申し訳ないんですが、ほっといてくださって平気なので、少しここにいさせてもらえませんか」
「さすがに放っておくことは...いえ、結構です。ここに座っていらしてください」
「すみ、ません」

エプロンをしたお兄さんは私を入り口に近い椅子に座らせると、店の奥に引っ込んでいった。カバンからハンカチを取り出して止まらない涙を受け止める。あぁ、オレンジ色のこのハンカチも彼の色。薄暗いライトに照らされて少しくすんで見えるけれど、私の大好きな色。涙を流す原因が彼なのに、涙を拭くのも彼の色なんて馬鹿馬鹿しくて嫌気がさしてしまう。本当に彼が生活に根差しすぎている。彼が私の生活の中にいたことなんてありはしないのに。
キッチンの方で料理をしている音と、私が鼻水をすする音が店のホールの薄暗さにのまれていく。自分以外の人間の生活音というのは存外落ち着くもので、ひとりで家にいた時より随分気持ちがマシなことに気づく。お兄さんがキッチンで何か作っている音が私の涙を緩やかに落ち着けていく。
定休日と言っていたし、新しいメニューを作ったりしているのかな。考え出したら自分が空腹なことを思い出してしまった。彼の手が止まったら、またお店を探しに行こう。さすがに料理中に話しかけるのは気がひけるし、かといって勝手に出ていくのも、それこそ盗っ人みたいで憚られた。
時計の針が12に近づいて私の涙も収まり始めた頃、キッチンで聞こえていた音がやんだ。あまり店内を立ち歩かれるのは好ましくないだろうと、その場で声を掛ける。

「あの、すいません!ありがとうございました。おかげで落ち着きました」
「少々お待ち下さい、今行きます」
「はい」

わざわざ見送ってくれるのだろうか。お兄さんのカロス男っぽさを感じて少しくすぐったい気持ちになる。
しかしキッチンから出てきたお兄さんは、山ほど料理を載せたサーブ用のワゴンを押して出てきた。
泣いて傷ついている女を哀れに思っておこぼれでもくれるのだろうか。ますますカロス男っぽい。今も結構険しい顔で料理を並べていて、お堅そうな印象だったけれど人は見かけによらないなと思ってしまう。

「お待たせしました。どうぞ」
「えっ、本当に?」
「お召し上がりください。店にはまだ出していない物ですが、このズミの料理ですので味は保証いたします」
「ありがとうございます。申し遅れましたが私はナオキって言います。」
「はい、ナオキさん。っと、先に食べていてください。少し暗いので照明を上げてきます。」
「待ってますよお兄さん」
「......ズミと申します」
「ふふ、はい。ズミさん」

改めて呼ばれたのがくすぐったかったのか、ズミさんはそそくさと店の奥へ引っ込んでいった。テーブルの上の料理たちの香りが、私の嗅覚に早く口に入れろと訴えかけてくる。照明をつけるなんてたかが数十秒か一分そこそこしかかからないだろうが、先に戴いていればよかったと少し後悔する。
薄暗かったホールの明かりが強くなって照らされる。
食事をすることを考えて作られた照明。バーやリストランテなんかのほの暗かったり柔らかい照明でなく、結構ハッキリとテーブルを照らし、それでいて室内自体は明るくなりすぎない料理を輝かせる明かりだと思った。さっきまでの暗がりが嘘みたいに輝いて、シャンデリアの光がグラスにキラキラと反射しているのがとっても綺麗だ。

「どうしたんですかぼーっとして。泣くほどお腹が空いていたのでは?」
「えっ!?ズミさんお腹がすいてたから泣いてたと思って…ふっ、あはは!」
「……涙は止まったようですしなんでも良いですが」

あまりに面食らってしまって、笑いが止められなかった。お腹が空きすぎて泣くなんて、赤ん坊じゃないのだから。涙を流していた妙齢の女に掛ける言葉としては的外れすぎる。私があまりに笑うものだから、ズミさんは少し具合悪そうに席についた。

「すいません、つい。ズミさん料理上手ですね。どれもおいしそう」
「ありがとうございます。さすがにこのままでは食べにくいですね、取り分けます。何か嫌いなものは?」
「えっと…きのこがあんまり」
「そうですか。ではこちらのスープは食べなくて結構ですよ。」
「あっ、いえ。お気遣いなく」

それとなくカップが私から遠ざけられた。ご相伴にあずかっておいて重ねて恐縮だが、心遣いに少し気持ちが柔らかくなる。

「気が落ち込んでいる時は好きなものを食べたほうがいいですよ。サーモンはお好きですか」
「はい。ズミさんって…結構優しいんですね」
「…結構とは?」
「えぇ?うーん、雰囲気のイメージより優しいかなって」
「はぁ。あなたは意外と失礼ですね」
「ナオキです。ふふ、イメージより?」
「ナオキさん。えぇ、イメージより」
「そうだ。失礼ついでなんですけど、お酒って出してもらえませんか?お金は出しますので」
「構いませんよ。私も料理と合わせるために試しますので。」
「やった。そうだ、ズミさん。ご飯作ってくれたお礼に私がなんで泣いてたのか教えてあげますよ」
「それはお礼なんですか…?」

そう言いながらもズミさんは私の皿に多めにサーモンと、なんだかおいしそうなものをたくさん載せて私の前に置いてくれた。こういうレストランは誕生日や特別な時にしか行かないから、今のところどれも料理名がわからない。ただ全部キラキラしていて、かろうじて大体何が入っていそうというのが分かる程度だ。洗い物を減らすためか、普段であれば絶対一枚の皿にこんなふうに載せないんだろうなというゴチャゴチャ具合で、でもそれが逆にありがたかった。きっと一つずつなんだか綺麗なお皿に載せられたら、申し訳なさと堅苦しさで息が詰まってしまうところだった。
お酒を取りに行ったズミさんを目で追うと、明るくなった店内でいかにも高そうな調度品のようなものが目につく。今更だがこのレストラン、結構高級な店なのではないだろうか?店の内装も、高級なお子様ランチみたいになっているこの皿も、日常生活でまったく見ない雰囲気を醸し出している。なんだか急に場違いな気がしてきてしまって、気を紛らわせるように料理に手を付ける。

「おいしい」
「それは良かった。酒はどれになさいますか。本当は一つ一つ合わせるものを絞っているのですが…酔えればなんでも良いのであればグラスを一々変えるのはめんどくさいでしょう」
「ありがとうございます。ズミさんはどれがおすすめですか」
「そうですね…これなんかはスッキリしていて飲みやすいですね。甘くないので料理の味もあまり邪魔をしません。ですが女性の方に人気なのはこちらですね。甘めのスパークリングです」
「じゃあスッキリしてる方で」
「分かりました。あぁ、デザートの時だけ違う物を出します」
「私は構いませんけどいいんですか?」
「はい」

ズミさんがボトルを開けてグラスにお酒を注いでくれる。くびれたグラスの中腹まで注がれた薄金色の液体が揺れているのを数秒眺めて、私は自分が悲しんでいた理由を思い出してしまった。

「ズミさん、あのね。私失恋したんです」
「はぁ、そうですか」
「しかも人気のアイドルに。でもやっぱり私今でも彼のことすっごい好きで…う、思い出したらなんかまた出てきた…」
「食事中に泣くのはおやめなさい。食事中に泣いていいのはあまりの美味しさで感極まった時だけです」
「だっで…ねぇズミさん愚痴聞いてよ…もう明日から何を楽しみに生きていけばいいかわからないんですよ。私の推しが結婚しちゃったんですよ」
「推し…?ナオキさんの好きなアイドルのことですか?」
「そう、好きなアイドルのこと推しって言うのそれでね…」

そのあとはもう酒も回ってめちゃくちゃで、めんどくさいという態度を隠そうともしないズミさんに散々泣き言を言った。彼は本当にごく稀にはいだかええだかの相槌を返すだけで、私の勝手な愚痴に口を挟むことはなかった。

「ズミさん、これもう飲まないんですか?」
「そうですね...そちらに置いたグラスはもう飲みません。少し勿体ないですが」
「じゃあもらっちゃお」
「は?......いえ、構いませんが」

はしたないのは分かっているけれど、彼が飲まないのなら私がいただいても良いだろう。もうこの席は、はしたないとか下品とかそういうお話はとっくに過ぎてしまった所だ。
一杯飲み干してグラスを口から離す時、ズミさんと目が合った。次のグラスに手をつけてちらりと彼の方を見ると、やはり飲みさしのグラスを傾けるのを、彼はやけにじっと見ていた。見つめると言ってもいい。それくらい熱烈に、彼の視線は私を捉えていた。

「ズミさんと間接キスしちゃった」
「.........いえ」
「ほら」

わざとらしくグラスに口付けると、今度は顔を逸らされてしまった。ウブな人。からかわないでくださいと顔を赤らめながらもまたこちらを見つめてくるかわいい人。

「ズミさんかわいい」
「かわいくありません。本当に失礼な人ですね」
「かわいいよ。そこらへんのアイドルなんかよりずっと」

もう絡み酒であった。私は椅子を引きずってズミさんの隣に移動し、赤くなった彼の頬を軽く撫ぜた。そして重ねられた手の大きさに少しドキっとしてしまった。触られると思っていなかったから。きっと私は、たかだか間接キスごときで照れているような人が、自分から触れてくると思わなくてびっくりしてしまったのだ。そう、きっと

「......私を推してみませんか」
「へぇっ?」
「貴方の好きなアイドルは引退したのでしょう?それなら次は私を推してください」
「ははぁ。商売がお上手ですねズミさん」
「そうですね。シェフといえどたまには営業も必要かと」

ズミさんの手が腰に回って、意外と柔らかい唇が...そう、こんな感じで...ん?



「うそ、寝てた?」
「ええ、おはようございます。十分も経っていませんが」

目の前にはやたら嬉しそうなズミの顔面があった。大方キスしたタイミングで起きたから眠り姫でも想起して喜んでいるんだろう。ズミは意外とロマンチックなところがある。
結構な時間寝たような感覚だったがテーブルの上にはまだ湯気の立った料理が並べられていて、十分も経っていないというのは彼の気遣いではないと確信した。

「やっぱり一緒に住みませんか」
「...その話長い?先ご飯食べようよ」
「長くありません。私は貴方に毎日一番におはようを言いたい」
「いただきます」
「どうぞ、召し上がってください。で、ナオキ、どうですか」
「今日もおいしいよ」
「いえそうではなく。一緒に住んでくれませんか。もちろん家賃は出します」
「考えとくね」
「そろそろその返答以外が欲しいです」
「えぇ〜...じゃあ鍵返して」
「嫌です」

あの日ズミに出会ってからなんだかんだ交際をし、十回目あたりの同棲の申し出でめんどくさくなって鍵を渡したのだがやはり満足できないらしい。日に日にズミはめんどくささが増していて、推しているかと聞かれたら正直推してはいない。

どちらかというとこのめんどくさい男に私が推されているような気がしてならないが、きのこのスープを啜るとズミが下手くそに笑うから私は全部どうでもよくなってしまった。




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