まだHRが始まるには早い朝の教室。俺は自分の席で本を開いて座っていた。
だが、俺の興味を誘っているのは本ではない。
少し離れた前の方の席で、友達数人と話をしている芹名の姿が気になった。
特に目立つわけでもない。大人しく…だが、どこか穏やかさが窺える雰囲気。
満面の笑顔ではないが、微笑むようにして笑っている彼女の表情に…俺はとても目を惹かれた。
それは今日に限ったことではない。
俺は気がつくと、授業中でも彼女の後姿を見つめてしまう。
そのことに気がついた日はそう遠くない。


「さーんぼう」
「……仁王か」
「さっきから何しとう?」


ぼーっとしていると、横から仁王が飄々とした様子で話しかけてきた。
俺はそのままの姿勢で仁王に答える。


「読書だ」
「嘘じゃ。さっきからページ、変わっとらんよ」
「………」


意外なところを見られているものだな。
俺は図星をつかれたことを素直に受け入れ、本を閉じた。


「珍しいこともあるもんじゃのう。読書中にぼーっとするなんて」
「……そうだな」


面白そうに…とても興味深そうに言う仁王。
全く、他人事だと思って…。だが、仁王が気にするのも仕方ない。
自分でもこのことには不思議に思っているからな。
何故…芹名のことが気になるのか。


「もしかして、恋でもしちょるんか?」


口角を上げ、冗談でも仄めかすかのように告げられる。
……呆れたものだ。俺も…人に見透かされるようになるとはな。


「……そうだな」
「なーんて、柳に限ってそんなこと…………えっ?」


仁王の二度見。これは貴重だ。
とりあえずデータとして残しておこう。


「柳………え、お前、マジで?」
「そんなに驚くことか?」
「そりゃあそうじゃろ…」


心外だ。まあ…確かに、自分でも恋などしないと言い切れる自信がないから仕方がない。
未だに自分でもこの感情が恋だと…信じられないからな。
だが、データを最大限に駆使して考えた結果……これは恋としか思えない。
芹名の一挙一動に反応してしまう。
芹名と話したいと思ってしまう。
芹名の笑顔を見たいと思ってしまう。
もっと、芹名のことを知りたいと思ってしまう。
これはなんら不思議なことではない。恋という現象の内でなら。


「ああ驚いたぜよ…。柳が恋…か」
「先程も、つい見惚れてしまっていたところだ」
「そ、そうだったんか?」
「これから俺の視線で気付かれるよりは、言っておいた方が楽だからな」
「(いくら俺でも柳の視線の先は見つけられる自信ないのう…)」


仁王が苦笑交じりで俺の目を見つめてきた。なんだ、からかう気か?


「まあ、いいぜよ。で、誰なんじゃ?」
「さて仁王、そろそろHRの時間だ。席に着け」
「なっ…参謀、ずるいぜよ。そこまで言っておいて…」


そう誤魔化すと、ちょうどHR担任が入ってきた。
俺はもう一度席に座るよう促すと、仁王は口を尖らせ不満そうにしながらも諦めたようだった。
さすがに仁王に話すのは躊躇われる。
口外されることは心配していないが…奴は少し人をからかう癖がある。
最善を期したことに安堵しながら、俺は前方の彼女の後姿を見やる。


「(……今日は、後ろの髪が2p程はねているな)」


朝、寝坊でもしたのだろうか。
それとも上手くスタイリングできなかったのだろうか。
彼女が慌てている様子を想像すると…なんだか少し微笑ましくなる。
それと同時に、込み上げてくる熱い想い。
……仁王に話したせいで、少しだけ自覚症状がはっきりしてきたな。
やはり俺は…彼女…芹名のことが、好きなんだ。





「当番……か」


放課後。俺は図書室の貸出場の椅子に座り、少し息を吐く。
部活はオフなので、俺は図書委員としての仕事に勤しむことになっている。
あまり人の来ない図書室で一人、本を開き委員としての役目を最低限果たしているところ、


「失礼します」


凛とした通る声が図書室に響いた。
その声に聞き覚えがあり、俺はふと本から目を離す。
見上げた視線の先には……芹名の姿。


「こんにちは、柳くん」
「あ、ああ…こんにちは」


突然の出来事に、柄にもなく驚いてしまった…。
不自然に言葉が詰まったりしていなかっただろうか。
気にしたが、芹名はにこりと笑みのまま、図書室の奥へと歩いて行った。


「………(言葉を交わしたのは、初めてだろうか)」


思えば、俺は芹名と直接話したことはないな…。
同じクラスになったのも3年が初めてだから…この恋は俺の一目惚れ、ということになる。
そんなもの鼻から信じていなかった時期もあったが、この状況に陥ってしまえば、一目惚れというものが存在すると認めなければならない。
実際、人は直感で人を好きになることがある。
この人物は…自分を幸せにしてくれる。この人物を守ってやりたい。
そう思ったんだ。俺の場合。彼女がとても魅力的に思えた。


「………んっ」


はっと我に返る。また…思わず彼女のことを考えてしまった。
だがそれを中断した理由は芹名にあった。
俺の座っている椅子から、少し角度を変えれば見える位置で…。
彼女は、棚の上の方にある本を取ろうと頑張って背伸びをしていた。


「(……愛らしい)」


その小動物のような行動に、妙な気持ちになる。
俺はそれを立ち上がると共に捨て去り、芹名に近づいた。


「希望のものはこれか?」
「あっ…」


すっと彼女の横に立ち、取りたかったであろう本を片手で取る。
それを芹名に渡すと、驚いたような顔をしたがすぐに受け取ってくれた。


「ありがとう…」
「いや、礼などいい」
「でも…どうして、この本だって分かったの?」
「ああそれは…お前が今朝、」


そこまで言って、俺は口を噤んだ。
―――今朝、友人とこの本が原作のドラマについて話していた。
そんなことを言おうものなら、俺が盗み聞きしていたことになってしまう。
いくら芹名たちがその話題で盛り上がっていたとはいえ…覚えていることに不信がられるかもしれない。
危なかった。俺としたことが……思わぬミスを犯してしまうところだった。


「?」
「何でもない。芹名の目線の先にあったのがこの本だったからな」
「そっか…。ふふ、柳くんって、よく見てるのね」
「………」


くすっと笑う彼女。
いつもと同じ…おしとやかな笑みだ。
だが、その時とは全く別の感情が俺の心に現れた。
同じ笑顔なのに。それはやはり…俺だけに向けられている笑顔だからだろうか?


「どうしたの、柳くん…?」
「な、何でもない…。借りる本は、これだけか?」
「うん」


彼女が頷くのを確認して、俺は貸出許可の手続きをする。
それを終え、俺は彼女に本を手渡した。


「ありがとう」


彼女も笑顔で受け取り、立ち去ろうとする。
すると、どこからともなく大きな声が聞こえた。


「芹名ーーーーー!」


その声も、俺にとってはよく知った声…いや、いつも聞いている怒鳴り声だ。


「弦一郎…?」
「どうして私のこと……あっ!」


俺が首を傾げていると、芹名は何か気付いたようにはっと時計を見た。
そして時刻を確認した途端、しまったというような表情を見せた。
俺は初めて見た…彼女の新しい表情に、目が留まる。


「私っ……今日、委員会だった…!」
「む…そう言えば、芹名は風紀の副委員長だったな…」


穏やかだが、しっかり者の芹名。
弦一郎もよく頼りになるとか言っていたな。
……ただ、少し抜けているところがあると嘆いてもいたが。


「ど、どうしよう!どうしてもこの本が借りたくて……わすれてた…」


顔からみるみる生気が抜けていく彼女。
そうか…。彼女でも、こんな失態をするんだな。
俺は彼女とは裏腹に、口元が綻んでしまうのが自分でも分かった。


「はは……っ」
「……?」
「芹名でも…こういうこと、するんだな」


今日は良い収穫ばかりだ。
彼女とここで出逢えたこともそう。
色々な表情を見ることができた。
そのどれもが…愛おしくて、ずっと見ていたいと思うものばかり。
そうか、これが恋か。
何の理屈も…理論もいらない。ただ、彼女の傍にいたい。
そう思うだけで、恋≠ニいう現象になるんだ。


「うう…今日は…たまたま……い、いつもはこんなことないんだよっ」
「分かってる。お前が頑張り屋なのは知ってる」
「っ……」
「……どうした?」


俺の言葉に、一瞬言葉を詰まらせ頬を赤らめたのが分かった。


「う、ううん……私のこと…見てくれてるんだと思って……」


そして、呟くように出された言葉。
…少し不信がられたか?それにしては、何だか嬉しそうな表情をして…。
その間にも、もう一度聞こえた弦一郎の大声。
俺と芹名ははっと我に返る。


「私…行かなきゃ」
「………」


少し怯えているような表情を浮かべる芹名。
全く…赤也に対してじゃあるまいし、もう少し気を緩めたらどうなんだ弦一郎は。
そう呆れながらも、俺は出て行こうとする芹名を呼び止めた。


「俺がお前を引き止めていたことにしておけ」
「っえ……」
「そういうことにしておけば、弦一郎もそう怒らないだろう」
「でも…」
「大丈夫だ。都合良く、ここにお前が居たことは俺しか知らない。……あの剣幕の弦一郎の説教は聞きたくないだろう?」


内緒話をするかのような声量で言うと、彼女は少し考える素振りを見せた。
そしてすぐに結論を出したのか、小さく頷いた。


「分かった。ありがとう、柳くん」
「いや。気にするな」


そう言って…出て行こうとする芹名の後姿を見送ろうとすると、


「このことは、私と柳くんの…二人だけの秘密ね」


振り向き様に言われた言葉。
優しげなその表情は…すぐに笑みに変わる。
そして何か返事をする前に、彼女は図書室から出て行った。
俺は一人残され……彼女の言葉を何度もリピートさせる。


「………二人だけの…」


その言葉が妙に心に残る。
何だか……初めての気持ちだ。
勘違いでも…考えすぎでも、いい。
俺は今この一瞬だけ、彼女の特別≠ノなれたような気がして。
そんなものを裏付ける確実なものなんて何もない。
だが、今だけでもそう思いたいと願ってしまっている。
俺はドキドキと鼓動を始める左胸をそっと押さえ、


「全く……恋は、理屈じゃないな」


そう呟いた。





人がそれを「恋」と名付けた理由
(弦一郎…ありがとう。礼を言わせてくれ)(…俺はお前に何かしたか?)