「くるなくるなくるなくるなくるなくるな……」


桜花の朝は、こうして念仏を唱えることから始まる。
全てを優しく包みこんでくれる、あたたかな布団の中で丸くなりながら。
そして両手を合わせて祈る。何かに怯えるように、何かから逃れるように。

ピーンポーン。


「ひっ……!!」


そして今日もその願いは届かなかった。
桜花を怯えさせるためだけに鳴らされるチャイムは形だけ。
桜花が来るなと願った人物はチャイムから数秒後には家に上がりこみ、問答無用に桜花の部屋のドアを開けた。


「さっさと起きろそして着替えて支度をしろ」


偉そうに、そして鬱陶しそうに。
その人物を見たくなくて、会話もしたくなくて、桜花は布団を強く握って震えながら隠れる。


「………起きやがれ!!」
「きゃあああっ!」


苛々が頂点に達した人物は強い力で桜花から布団を引き剥がした。
パジャマ姿のまま丸くなっている姿を露わにした桜花は悲鳴をあげる。


「私のお布団!!」
「何がお布団だ。初夏だってのに暑苦しい」
「お……お布団は、私を世界から優しく包んでくれるの……」


パジャマ姿や寝起きの顔を見られたから悲鳴を上げた、というわけではなく、頼りの布団を取られたことによる悲鳴だった。
布団にすがる姿を見て跡部は眉を寄せるが、溜息をつく。


「こんなものに隠れてたら陰気臭くなってそのうちカビが生えるぞ」
「跡部に叩き起こされるくらいなら、カビと友達になった方が有益だよ……」


涙目でぐすぐすと鼻を啜りながらいじける桜花の言葉を聞いて、さすがに我慢のできなくなった跡部は布団を地面に放って怒鳴る。


「アーン!?いいからさっさと着替えて準備しろ!カビ臭くなるから部屋の窓は全開だ!」
「ぎゃあやめてー!溶けるー!」


ズカズカと部屋の奥にまで行き、桜花の為にカーテンを開け窓を全開にする。
閉め切られていて、朝だというのに暗い部屋だった部屋がいっきに明るくなり、桜花は苦しむように嫌がる。


「吸血鬼か。いいからさっさと用意しろ。5分経っても降りてこなかったら着替えの途中だろうが引きずっていくからな」
「お、鬼だ……」


そうでなければ変態だ、と朝から女の子の部屋を蹂躙した跡部に向かって呟く。
部屋から出ようとしていた跡部は鋭い眼光を桜花に向けたが、桜花が慌てて何でもないですと言うと鼻を鳴らして出て行った。
桜花は仕方なくクローゼットから制服を取り出す。気が進まなかったが、跡部に引きずられるのも嫌なため渋々着替えた。
そして机の上に置いてあった鞄も手に取り、部屋を出る。
リビングまで行くと、母親が少しだけ安心したように出迎えてくれた。その顔を見ると少し心が痛くなる。だが、すぐ隣で腕を組んで睨んでくる跡部を見てすぐにこの場を逃げ出したい気持ちになった。


「早く食え」
「食えって……ここは私の家の食卓で、それはお母さんが用意してくれた朝ご飯なんだけど……」


どうして他人の跡部が偉そうに言うんだと、桜花は頭が痛くなる。
だがすぐに、何か文句があるのかと目を細めた跡部の表情を見て口を閉ざして席に座った。
もぐもぐとご飯、塩鮭、お味噌汁といったシンプルな朝食を食べる。跡部に凝視されているため居心地は悪かったが、久しぶりに作りたての朝食を食べた気がして食は進んだ。
ご飯が無くなったところで、跡部が無言のまま茶碗を持っておかわりをよそう。


「もっと食べろ」
「朝からこんなに食べられないよ!もう、お母さんも何とか言って!」
「桜花のこんなに元気な声、久しぶりに聞いたわ……」


最初の時よりも山盛りにご飯を盛りつけた跡部に桜花が文句を言う。
跡部が他人の為にご飯をよそうだなんて、跡部家の人間が聞いたらびっくり仰天ひっくり返る事柄だろう。
そして桜花の訴えは母親には届いていないのか、感激している様子で涙目になる。
そんな母親を見ると何も言えなくなるのか、桜花はうぐっと黙って仕方なくご飯を食べることにした。
朝から異常なほどの満腹感を抱き、桜花はむしろ元気が奪われたような気になりながらも跡部に手を引かれ家を出る。
未だ涙目でいってらっしゃいと声をかける母親に助けてとは言えず、桜花は渋々跡部が乗ってきた車に乗り込む。
これって拉致に近いのでは?と車の中でちょこんと座りながら、隣で足を組んでふうと溜息をついた跡部をちらりと見た。


「お前のせいで朝から疲れた」
「それはこっちの台詞だよ!?いつもいつも、何で私の家に来るのよ!」


お願いだからほんと止めてと思いながら、桜花はそう叫ぶ。
自分はいわゆる不登校という状況に陥っている。
3年になるまではごく普通に氷帝へ通っていたが、3年になってしばらくして、学校に行くことをやめた。
理由も親には言っていないため心配させているし、心苦しいところもあったが、それでも学校に行く気にはなれなかった。
ぼうっと布団にくるまってばかりの生活を送っていると、突然嵐のように跡部が家にやってきた。


「生徒会長だからって、不登校くらい見過ごしたっていいのに……」


それはきっと、跡部の立場があってのことだろうと桜花は思う。
同じクラスであり席も隣な跡部は氷帝学園の生徒会長だ。
だから自分をこうして学園へ連れて行こうとしているんだ、と。
最初は桜花も相手にする気はなく、チャイムを鳴らしても母親が対応するだけだった。
だが跡部の行動はどんどんエスカレートしていき、いつまで経っても姿を見せない桜花を玄関から声を張り上げて呼ぶようになり、次は階段の下から、そして部屋の前とどんどん距離を近くしてきた。
桜花にとってはホラーのように思え、毎朝毎朝それに怯えることから始まるようになっていた。
そしてついに自分の部屋に上がり込むようになって数日、布団まで引きはがされるようになってしまった。
不法侵入だと言いたかったが、母親の了承があるために何とも言えない。


「アーン?見過ごせるかよ。それに、生徒会長だからってなんだ、関係ねえよ」


静かな車内の中、跡部の声はよく聞こえた。
その言葉の内容に少し驚いて、桜花ははっと跡部を見上げた。


「……ようやく、俺を見たな」


跡部の綺麗で真っ直ぐな青い瞳と目が合ったと思えば、少し安心したように跡部はぼそりと呟いた。
更に訳が分からなくなり、桜花はすぐに視線を逸らす。


「……本当、訳が分からないよ。どうしてそこまで私を学校に連れて行こうとするの?私なんて放っておけばいいのに」


実際、自分一人が学校に行かないくらいどうってことないと思っていた。
困るのは自分だけで、周りは特に影響はない。それは跡部も同じのはず。
どうして跡部が自分の家に上がり込み世話を焼くようなことをするのか、桜花は全く分からなかった。


「放っておけねえからだろうが。お前が隣にいないのは嫌なんだよ」


自分を卑下する言葉にも、跡部は気にすることなく自分の気持ちを言った。
その言葉に桜花は驚き、跡部を凝視する。冗談を言っているように見えない、真剣な表情だった。
だからこそ、桜花は眉を寄せ、辛い気持ちになった。


「………私がそれから逃げてるって、知って言ってるの?」


そして小さな声でぽつりと呟いた。それは本当に小さかったが、隣にいた跡部には十分聞こえていた。
何も跡部を責めようとして言った言葉ではない。ただ本心を言いたかったまで。
桜花が不登校になった理由。隣にいる跡部の存在は無関係ではなかった。
桜花は跡部の隣の席で少し関わりを持ってしまったために、女生徒から嫌がらせを受けていたからだ。


「………」


桜花の呟きに、跡部は何も言わずに俯く桜花を見つめた。
もちろん、跡部は知っていた。桜花が学校に来なくなったのは自分のせいだと。
3年になって初めて桜花と同じクラスになった跡部は、それまで桜花のことは生徒会長として顔と名前は知っているくらいの認識だった。
くじ引きで偶然隣の席になっても、別に気にすることは無かった。
また大袈裟なくらい喜ばれるか、今後に期待をして媚びを売られるか……そんな態度の女だろうと思っていた。今までずっとそうだったからだ。が、実際は違った。
桜花は「隣、よろしくね」と言っただけだった。本当にそれだけだった。


「知ってる。俺がお前の日常を奪っちまったってことは」


跡部の言葉に今度は桜花が黙った。
まさかこんなにストレートに言うとは思わなかった。桜花は少しだけ申し訳ない気持ちになった。


「……別に、跡部が悪いとは思ってないよ」


これは桜花の本心だった。跡部もそれを分かっている。
だが、跡部は素直に受け入れることはできなかった。
自分の隣の席になったばかりに桜花は虐められた、そんな単純な話ではないからだ。
それなら、今まで自分の隣の席になった女生徒は全員等しく虐められていたことになる。だがそんなことは一度もなかった。
桜花だけが虐められることになってしまった理由、それについて跡部は心当たりがあった。
跡部は自分で分かっていた。桜花を特別に思ってしまい、自分から話しかけることも多くなってしまったことを。
自分と普通に接してくれる桜花の存在に、心が安らぎもっと話をしたいと思ったのだ。
そのため、桜花が学校に来られなくなってしまった主な原因、虐められる要因を作ってしまったのは自分なのだ。


「分かっていたが、お前は優しいな。いや、優しすぎる」
「そんなことないよ……弱いから、逃げてるだけ」


桜花から責めるようなことを言われても仕方ないと跡部は思っていた。だが実際に責められたことはない。
嫌がらせを受けるようになった桜花はそれを隠し、跡部にも気付かれないように振舞っていた。
だが、気になる相手の様子がおかしいことに気付かない跡部ではない。
すぐに虐めのことが頭に過った。周りの取り巻きの考えそうなことだと思った。
そしてすぐに桜花を問い詰めたら案の定、女生徒たちから嫌がらせを受けていることが分かった。
その翌日だ。桜花が来なくなったのは。


「違うな。お前が学校に来なくなったのは、俺や周りを気にしてのことだろう」
「………」


弱いから逃げただけ、その言葉を跡部は否定した。そして続けて言った跡部の言葉に桜花はまだ黙る。
見透かされているような視線を一身に受け、桜花は悲しくなって目を伏せた。


「知ってしまった以上、俺が黙っているはずがないと思ったんだろ」
「……そうだね、跡部は意外と優しいし、そういうの嫌いだと思ったから」


やっぱり跡部の洞察力は凄い。桜花は改めて思わされる。
跡部が自分への嫌がらせに気付いてしまい、女生徒たちへの嫌悪を露にした時、ああだめだと思った。
跡部のことだからきっと、すぐに女生徒たちに注意をしてしまう。そうしたら女生徒たちと跡部の仲がぎくしゃくしてしまう。
仲と言っても、女生徒たちが一方的に跡部に好意を向けているだけだが。それでも跡部は皆が憧れる氷帝学園の生徒会長でテニス部の部長なのだから。
自分が学校へ行かなければ、この事柄はそこで終わる。だから終わらせてしまおうと思った。
こんなことで跡部の気を散らすのは嫌だった。


「意外とは余計だ」


先の言葉に跡部は眉を寄せて不満そうに釘を差す。
気にしてるんだと思い、桜花は少しだけ面白そうに笑った。
こんな不満そうな顔を見るのは久しぶりだ。前はよく、冗談などを言った時にこんな顔をしていた。
この顔を自分は守りたかった。別に好きだからというわけではない。
今までは凄いけど近寄りがたい存在としか思っていなかった跡部。だが話してみると意外と話しやすく、お堅い印象もなくなった。


「……意外だよ。一生徒のためにこんなにしてくれるなんて」


自分が不登校になった時点で全て終わったと思っていた。
これで女生徒たちは不満はないし、跡部も面倒ごとを抱えなくて済む。
それなのに跡部は自分の家へとやってきて、根気よく桜花を学校に誘った。途中からやや強引にはなってきたため怖かったが。


「お前だからやってるんだよ。言っただろ?お前が隣にいないのが嫌だって」
「……我儘」


まるで子供のような言い草に桜花は少しだけ呆れて呟いた。


「何とでも言え。俺が桜花を好きだっていう気持ちは変わらねえしな」
「………え?」


突然の跡部の告白に、桜花は理解できずに眉を寄せる。
もしかして聞き間違えたかと思い跡部を見ると、


「お前のことが好きだから、お前には傍にいて欲しいんだよ」


もう一度改めて告白されてしまった。
桜花はぎょっと目を剥いて、あわわと跡部を見た。


「ちょ、ちょっと待って!急すぎない?」
「アーン?お前、本当に気付いてなかったのか。俺様がわざわざ毎朝迎えに行ってたんだぜ」


いやだからそれが凄いねって話をしていたんだけど……と桜花は呆然とする。
跡部個人として優しいからこうしてくれていると思っていたが、まさか、自分のことが好きだと言われるとは思っていなかったらしい。


「あ、あのね、跡部……よく考えてみて」


どうどうと落ち着かせるように桜花は両手を跡部に向ける。
そうしなくてもすでに落ち着いている跡部は眉を寄せて桜花を見た。


「私はね、現在進行形で虐められてるんだよ……その場所である学校へ向かう途中に、そんなこと言う?」


しかも虐めの原因である当人が、と桜花は口元をひくつかせる。


「向かう途中じゃねえ。もう着いたぜ」
「重要なのはそこじゃないよ!?」


あまりにもマイペースな言動に思わず桜花は叫ぶ。
そうだ、確か跡部はこんなマイペースで自己中なところがあったなと桜花はつい思い出してしまう。大事な話をしていたのにおかしいな。
どこか遠い目をしている桜花に、いつの間にか車から降りた跡部は車のドアを開けて桜花へと手を差し出す。


「とにかく行くぞ。俺は今日、ようやくお前を守れるんだからな」
「ま、守るって……」
「全校生徒の前で、桜花は俺の彼女だと宣言する。そうしたら虐めもなくなる」


あまりにも突拍子もない言葉に桜花は絶句し、奥の座席へと逃げる。


「や……やだやだ!やっぱり学校行きたくない!」
「今更何言ってんだ。このために朝食をたくさん食べて元気をつけさせたんだろうが」
「今まさにその朝食を吐きそうなんだけど!」


跡部のこの魂胆は思い付きなどではなく計画的犯行だと知る。
こんなことだったら学校には来なかったと思う桜花はぶんぶんと首を振る。


「ちっ、やっぱり話の流れだからって言うんじゃなかったか……」


そんな態度の桜花を見て、跡部は眉を寄せて舌打ちをしながら呟いた。
どうやら本当は言わないつもりだったらしい。


「って、当初の予定では私も全校生徒の前で知ることになってたってこと!?」


順序がめちゃくちゃだ、と桜花は恐ろしくなる。やっぱり跡部の存在はホラーだと思い、身を縮こませる。


「アーン?そんなに違わねえだろうが。知るのが遅いか早いかの違いだ」
「そこに私の意思が一つもないんだけど……」


というか私まで返事してないよね、と桜花はおずおずと跡部を見上げる。
太陽の光を背に浴びた跡部の髪がキラキラと光る。そんな演出も相まってか、跡部の表情は自信に満ち溢れているように見える。


「じゃあ桜花、お前は俺が嫌いか?」


ああ、この人はずるい。桜花は跡部のそんな表情を見て思った。
嫌いだったなら、最初から不登校にはなっていないし、そもそも会話もしなかっただろう。こうして学校に来ることもなかった。
そしてそんな桜花の気持ちを知っているのか、跡部は身を乗り出して、桜花の額にキスをした。


「嫌いじゃないなら守らせろ。好きな女も守れないような男じゃないって証明してやる」


その行動には驚いたが、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
むしろ、頼りたくなってしまう。この強引な手に守られたくなる。
桜花は改めて差し出された跡部の手に自分の手を乗せた。


「行くぜ。堂々としろよ。俺の手を握ったからには、絶対にこの手を離さないからな」


跡部の自信満々で、力強い言葉に桜花は思わず瞳に涙を溜める。
そしてそれを悟られないように笑って、わかったと頷いた。

こんなことをされて好きにならない方がおかしい。
跡部はやっぱり、最初から自分の答えを分かっていたんだ。


「(………きっと私も、)」


この手を離したくないと思える日が近いうちに来るのだろう。





魔法をかけられたシンデレラのように
(この車を降りると、きっと私は今までの自分ではなくなる。おとぎ話の中でお姫様を守る王子様のようなあなたがずっと隣にいてくれるんだ)




久しぶりに跡部夢を書いた気がします。冒頭部分しか思いつかずに書いたものですから、着地地点をどうしようか迷いました。
が、やっぱり跡部様は頼りになりますね。彼はいつまで経っても格好良くて、惚れ惚れします。
そこをうまく表現できないのが悔やまれますが、俺様何様跡部様!ご健在ですね!