「…………」


いけない。
今、見てはいけないものを見てしまったかもしれない。
私は入りかけた喫茶店のレジを見た瞬間、Uターンをしてその場を離れようとする。
自分でも驚くくらい素早い反応だと思っていたけど、


「おい!そこに居るのは桜花だろ!」
「っ……!」


少し怒っているような声で私を呼びとめたのは跡部。
どうやら、彼のインサイトからは逃れられなかったみたい。
私は自分の運の悪さを一瞬呪って、振り返る。


「あ、ああ!跡部じゃない!き、奇遇だね〜」
「嘘つけ。お前、今俺様を見て逃げようとしただろ」
「なっなんの話!?」


私があからさまに誤魔化そうとしたからか、跡部は深く溜息をついた。
だけどそれもすぐ真顔に変わる。


「だがちょうどいい。こっちに来い。店員がふざけやがるんだ」


とてつもなく嫌な予感。
私が見つけた時、跡部は店員に文句を言っているような雰囲気だったと思う。
それより…私は跡部が普通の喫茶店に居るという違和感から逃げ出そうと思ったんだけどね。


「ふざけるって……」
「俺様のカードが使えねえとか言いやがるんだよ」


そうして跡部が見せたのは、キラキラとそれはまぁ綺麗に輝くカード。
私は近所だから知ってるけど、ここの喫茶店はカード払いは対応していない。
レジにもそのように提示されてあるけど、跡部は全ての店でカードは使えるだろうと思い込んでいるに違いない。


「……あのね、跡部。ここの喫茶店ではゴールドカードは使えないの」
「なんだと!?じゃあブラックならいいのか?」
「………」


私は深い…それはもう深海の底ように深い溜息をついて跡部を喫茶店へと引っ張る。
ああもう、こうなると予想できたから逃げようと思ったのに。
私はレジで戸惑い焦っている店員さんに頭を下げて、現金での支払いをするよう跡部に促した。





「悪かったな。おかげで良い勉強になった」
「……それは別にいいけど」


私は近くの公園のベンチで跡部の隣に座って答える。
ここに来るまでの道のり、どうして喫茶店に一人で居たのかを聞いてみた。
その答えは、誰もが呆れ……いや、意外だと驚くような内容だった。


「公園に来たのも、庶民の生活を知ろうとするためなの?」


そう。跡部がいかにも個人経営で小さめな喫茶店に居た理由。
それは同世代の中学生(庶民)の生活の実態を学ぶためだという。


「ああ。庶民は金がないから公園で遊ぶんだろ?」
「遊ぶっていうか……まあ、おしゃべりが目的みたいなのもあるけど」
「そうか…。そういや、岳人もよく宍戸と公園で駄弁るって言ってたな」


跡部が駄弁るっていう単語を知っているなんて……。
じゃなくて。
どうやら跡部は、部活仲間の会話についていけない節があることに(ようやく)気付き、こうして勉強しようとしているらしい。


「よし、俺たちもやってみるか」
「え」
「なんだよその顔は」
「……いや、どうせならその向日とか呼べば…」


そう反論すると、跡部は「お前は馬鹿か」とでも言いそうな顔になった。


「この俺様に、あいつらに庶民の生活を教えてくださいと言わせる気か?」


何もそこまで言ってない。


「そうじゃなくて……もう、わかったよ。付き合うよ」
「それでいいんだ。で、会話だな。お前はさっきまで何してたんだ」
「え、えーと…ちょっと喉が渇いたから喫茶店でお茶でもしようかと…」
「ほーう。じゃあやっぱりあの時俺様から逃げたんだな」
「あ゙」


しまった。
私は跡部の意地の悪そうな顔を見上げる。
うっかり本当のことを言ってしまった……!


「よし決めた。俺様を見捨てた罰として、今日1日庶民生活に付き合え」
「なんという!?」


どうしてこうなった。
本当に意味が分からない。
たまたま跡部を見かけたせいで…庶民生活の案内人みたいな役回りにされてしまった。
だけど、ここで逃げたら後が怖いし……。
仕方ない…クラスメイトのよしみとして付き合うか……。


「安心しろ。金なら俺が持つ。庶民の支出なんてたかが知れてるしな」


私が行くと決められてから、心なしか跡部のやる気が上がってきた気がする。
この憎まれ口がその証拠。そんなに一人が心細かったのか。
私が諦めたように了承すると、跡部は早速立ち上がりとある場所へと向かった。


「………ここって」
「ああ。マク●ナルド…とか言うファストフード店だ。宍戸たちがよく行くらしい。知ってるか?」
「ま、まあ……」


知らない人なんていない。
そうツッコもうかと思ったけど、跡部の機嫌を損ねてさらに面倒なことになりそうだったから止めた。


「なんだこれ。こんなもんが美味しいのか?」
「……えっとね、跡部が普段食べてるのと比べたらだめだよ」
「んなもん分かってる。値段からして期待はしてなかった」


そう口を尖らせて言いつつも、最後まで残さず食べている跡部。
なかなか素直じゃないな…。


「桜花、食べないのか?」
「あ……えっと、食べるよ」
「ふっ、照れてるのか」


何を言っているんだこの人。
私はただ、片っ端から頼もうとした跡部を止めるのに精一杯で食欲が失せただけだっていうのに。
それなのに勝手に納得して……ああもういいや。


「それにしても……人が多いな。そんなに人気なのか、ここは」
「まあ…休日のお昼時だからね。特に若い人は集まるよ」


私はそう言いつつも、しきりに出入り口を気にしていた。
それはもちろん、氷帝の生徒がいないかという心配からきたもの。
もし、跡部がマッ●に居るなんて知られたら……。
明日から学園の七不思議決定だからね。
そんな落ち着かない昼食を済ませ、私と跡部は知り合いに会うことなく店を出た。
ここではゴールドカードを出さなかった分成長したと言えるかな。


「ふん、宍戸がよく行くって言っていたが、大したことなかったな」


経験して自信がついたのか、そんなことを言っている。
満足気に言っているから、別に悪く言っているわけじゃないとかろうじて分かる気がする。


「よかったね跡部、これで跡部も庶民の仲間入りだよ。それじゃあ私はこれで」
「待てこら桜花」
「うぎゃああ」


早口で言って背中を向けると、遠慮なしに首根っこを掴んでくる跡部。
なんなんだよ!
最近のブルジョワは路上で簡単に女の子の首根っこを引っ張るのか!?


「まだ帰すとは言ってない。次はあれだ、ユ●クロというブティックだ」
「ぶ、ブティッ……!?もうなんでもいいや…」


私が諦めて大人しくすると、跡部は先導するかのように歩き出す。
あれだよね。
事前に場所を調べておく辺り、跡部の真面目さというか律義さが表れてるよね。


「へえ……ここも混んでるな」
「リーズナブルで素材もしっかりしてるからね」
「……桜花もよく来るのか?」
「うーん、そうだね。結構来るかな」


そう答えると、跡部は少し考えたような素振りを見せた。
そして自分の服を見るのかと思いきや、向かったのはレディース服売り場。


「これなんかどうだ」
「どうだ、って……」


私は跡部が差し出してきたワンピースを見る。
夏らしく涼しさを感じさせるデザインと柄は、とても可愛らしいものだった。


「自分の服見るんじゃないの」
「俺様は専属のスタイリストがいるからな」
「………そだね」


聞いた私が馬鹿だった。


「それより、この服はどう思う?」
「あー……いいんじゃないかな。可愛いと思うよ」


誰かにプレゼントでもするのかな?
でも、それだと跡部ならもっと高級そうなブランドの物買いそうだし…。
あ、今日は庶民生活体験デーだから関係ないのか。
私は適当に相槌を打つと、「そうか…」と少し口元を上げてレジへと向かって行った。


「あれ、買うの?」
「まあな。こういうのも悪くない」


………悪くないって、もしかして着るのかな?
まさか私、跡部の人には言えない趣味を知ってしまった感じ?


「……言っておくが、俺様のじゃないぞ」
「ですよねー」


私の表情で悟ったのか…跡部が釘を刺してきた。
おお怖。さすがインサイトだね。


「待たせて悪かったな」
「いえいえ」


待たせることを謝るのなら、無理矢理付き合わせたことも謝ってほしいかな。
……なんて、期待してないけど。
それに、私も意外と楽しめたような気がするし。


「ちっ、もうこんな時間か……」


跡部が時計を見て呟く。
どうやら、思ったより人混みが多く、時間のロスがあったみたい。


「まだまだ行きたいところがあったんだがな」
「……例えば?」
「そうだな、百円均一というところに、リサイクルショップ、漫画喫茶とかいう場所も押さえておきたいな」
「………大変だね」


きっと、跡部が庶民の全てを知ろうと思ったら一生かかると思う。
そして全ての場所が跡部に不似合いなことを思い知らされた。
結論、そんなところに行かなくてもいいと思ってしまう。


「あれー?そこに居るのは跡部くんじゃない?」
「ん?……なんだ、山吹の千石か」
「なんだとは失礼だなぁ」


と、呆れているところ現れたのはオレンジの髪をした男の人。
跡部にこんな風に話しかけられるということは、テニス部の人かな?
そしてその人の視線は三言目を発言するときには私をじっと見ていた。


「君可愛いねー。跡部くんの彼女?」
「「はあ?」」


私と跡部は同時にそんな風に声が出た。
私はまさかそんなことを言われるとは思わず驚いた風に。
跡部は、


「お、お前っ、何言ってやがる!ん、んなわけ…ねえだろうが!」
「……跡部、落ち着いて」


なんでこの人はこんなに挙動不審になっているんだろう。
もしかして、意外とこういう冗談には慣れていないのかな?


「あ、千石さんでしたっけ?私たち別にそういうんじゃないので」
「そうだぜ!馬鹿千石!勝手なこと言ってんじゃねえよ!」
「(なんだろうこの温度差……)」


跡部の驚き具合に呆れているのか、千石さんが苦笑する。


「でも…こんな休日に二人で出掛けるなんて、良い雰囲気なんじゃないの?」
「そんなんじゃねえよ!」
「私が無理矢理跡部に付き合わされてるだけです」
「桜花!お前も余計なこと言うんじゃねえ!」


なんで私が怒られないといけないんだ。


「あ、あはは…(跡部くん、分かりやすっ)」


ほら。跡部の態度があまりにも変だから千石さんも若干引いている。
ごめんなさい、こんなのが氷帝のテニス部の部長で。


「でも、桜花ちゃんは優しいんだね」
「え?」
「無理矢理でも、嫌いな人の相手なんかしないでしょ?」


千石さんがなんか企んでいるような笑みを見せる。
私にはその表情が示す意図なんて全く分からないけど、跡部は珍しく黙ってしまっていた。
黙っているどころか、私の方をじっと見てる。怖い怖い。
なんだろう。返事を求められているのかな?


「……まあ、確かにそうですけど」
「ってことは、桜花ちゃんも今日結構楽しかったり?」
「そうですね、退屈はしませんでした」


そう答えて、恐る恐る跡部の顔を見上げてみる。
すると怒っているのか…その頬には若干の赤みがあるのが分かった。


「あ、当たり前だ!俺様がわざわざお前と一緒に行動してやったんだからな!」
「いや、行動してあげたの私なんだけど」


そこはちゃんと訂正しようと思ったけど、当の本人聞いてねえ。
……ま、いいけど。


「うーん、仲が良さそうで羨ましいよ。ねえ桜花ちゃん、今度俺とも遊ばない?」
「え、嫌です」
「!?!?なんで!?」
「私軽い人は苦手なんで」
「ぐっ……結構はっきり言うんだね、君…」


胸の辺りを押さえて傷ついている感を出す千石さん。
まあ、こういう人はこうはっきり断っておかないとしつこそうだから。


「……でも、よかったじゃん跡部くん。こういう子なら色々と安心じゃない?」
「っ、うるせえ!お前はさっさとどっか行け!」
「あはは、はいはい。じゃあ、また試合しようね〜!」


千石さんはそう言いながら手を振って去って行った。


「……少し、移動するか」
「そうだね」
「人も、さっきより増えてきたな」
「帰ろうとする人が多いからかな」


そう答えると、跡部は私の手を握ってきた。


「?」
「……はぐれたら困るからな。これくらい当然だ」


突然のことに驚いたけど、なるほどこれも跡部の優しさだと思って何も言わなかった。
不自然なくらいあったかい跡部の手を私も握り返すと、跡部は急に言葉を繰り出してきた。


「それにしても、あいつは本当、お節介なやつだったぜ…」
「まあ、楽しそうな人だったじゃん」
「………お前、本当にあいつに誘われても付いていったりするなよ」
「言われなくても、そんなことしないよ」


私は子供か。
溜息交じりで答えると、跡部は安心したのかふうと息を吐いた。


「……今日は、付き合わせて悪かったな」
「別にいいよ。私は普通に楽しかったし」


珍しくそんな言葉を言う跡部に私は驚きつつも答えた。
そろそろさようならの時間かな?と思いながら跡部の次の言葉を待っていると、


「そうだ。これ、桜花にやるよ」
「えっ……これって…」


跡部の手に下げられていた紙袋。
それはユニ●ロのあのワンピースだった。


「今日1日付き合わせた、礼だ」
「あ…ありがとう………って、まさか、これ…」
「ああ。お前にやるために買った」


まさかそれが自分の物だとは思っていなかった。
私は驚きを隠せないままでいると、追い打ちをかけるかのように跡部は言葉を放った。


「……また、デートしてやってもいいぜ」
「―――――――え?」
「だ、だから…次は偶然とかじゃなくて、俺様からデートに誘ってやるって言ってんだよ」


私の頭がフリーズしているにも関わらず、跡部は早口で言葉を告げる。
ちょっと待て。………デート=H
私は一瞬にして今の自分の姿を客観的に見てみる。
少し夕陽の傾いた…住宅街を異性と手を繋いで歩いている自分。
それはどこからどう見ても、恋人そのものだった。
私がそのことに気付いた時には、その手は離されていた。


「ここがお前の家だろ?今日はここまでだ。……じゃあ、またな」
「う……うん………またね…」


跡部の言う通り、ここは私の家の前だった。
少しだけ赤くなっている跡部の頬を最後に見て、私はその場に立ちつくす。
そして事の重大さに気付いて、跡部の比じゃないくらい顔が熱くなっていくのを感じた。


「わ、私……もしかして、」


異性と二人きりでおしゃべり、昼食、ショッピング……これって間違いない。


「デート……してた?」


その単語が出てくるまで実感できなかった。
そうか。だから千石さんも恋人だと間違えたんだ。
私、とんでもないことをしていたんだ。


「………跡部の馬鹿っ…」


普通に帰っていけばいいのに。
いつもの俺様な態度を全開で……帰っていけばよかったのに。
何よ。私をこんな気持ちにさせて。


「馬鹿………!」


あなたのこと、今さら意識してしまったじゃない。





それは突然のロマンスのはじまりでした
(まさか私が、こんな感情になるなんて)(明日からどんな顔してあなたに会えばいいのよ!)