「………馬鹿か、俺は」


俺は家から出てすぐ後悔した。
目の周りの違和感に頭を抱える。
昨日の、あの人の言葉に踊らされてしまった。


「ねーねー、ひーよっ」
「ひよではありません」
「んじゃ若。若って、家では眼鏡って本当?」
「……誰から聞いたんですか」
「チョタから。もー、普段はコンタクトだなんて知らなかったぞ!」
「………。教えてませんし」
「じゃ、明日は眼鏡かけてくること!」
「は?」
「若の眼鏡姿見てみたい!!」
「………」



「……はぁ」


朝起きて、すぐに思い出したその会話。
何故か判らないが、あの人の言うとおり、眼鏡をかけてきてしまった。
……あれだ、気の迷いというやつか。
だが、あの時の笑顔を思い出すと俺の口も止まる。


「……まぁ、減るもんじゃないし…」


いいか、と俺は意を決して学校へと向かった。
今日くらい。
彼女の言うことくらい、聞いてやっても。


「………」


教室に行き、鞄を机の上に置く。
生憎、彼女は俺の1つ年上で階も違って会えない。
何だか、見せる相手が居ないのに眼鏡をかけているのが無駄な気がしてきた。


「……仕方ない」


あの人は朝はいつも屋上にいる。
今日も、多分。
だから屋上に行ったら会えると思い、俺はすぐ屋上に向かった。





屋上のドアを開けると、やっぱり、ほら、あそこ。
フェンスにもたれて眠っている、桜花先輩の姿。
俺はゆっくりと近づく。


「……桜花先輩」


声をかけてみるが、相手はまだ寝ている。
まさか本当に寝ていたとは。


「……ったく…。ほら、起きてください。桜花先輩」


身体を揺すぶってみると、小さく声を漏らして目が細く開かれた。
しばらく状況をつかもうとしていた視点が、俺へと一致した。


「あ、れ……?ひよ?もしかしておひる……?」
「いいえ、まだ朝です。寝ぼけているのなら俺帰りますよ」
「!?ちょ、ちょっと待って!」


『帰る』の一言が効いたのか、桜花先輩は身体を一気に起こした。
俺はそれに合わせて身体を反らせた。


「もー、愛しの彼女を置いてこうとするなんて何て酷い後輩…………ん?」


桜花先輩が俺の顔をまじまじと見る。
……何だか、気恥かしい。
俺は目を逸らすと、視界の端で桜花先輩はぱぁっと明るい顔になった。


「もしかして、それ若の眼鏡!?わぁ、昨日のこと本気にしてたんだっ!」
「っうるさいです……。今日はたまたま、コンタクトが切れてたんですよ……」


誤魔化そうと嘘が俺の口から出てくる。
それでも桜花先輩は理解しているかのように意味深な笑顔を見せた。


「そーかそーか…。若くんは優しいですねぇ」
「ちょっ、頭撫でないでください……!」


くしゃくしゃと俺の頭を触る桜花先輩の手を振り払う。
あはは、と桜花先輩は「素直じゃないね」と苦笑した。


「でも、若の眼鏡姿見れたのは嬉しいな。うん、想像してたのより可愛い」
「……可愛いと言われても嬉しくありませんよ」
「もちろん若はかっこいいよ。なんたって、私の彼氏だし!」
「……っ」


何てこの人はこんなに恥ずかしいことをさらっと言えるのか。
こっちが恥ずかしくなる。


「ねぇ若」
「……っ?」


黙って桜花先輩の顔を見ると、視界の横から手が見えたと思ったら一瞬にして俺の見る世界は歪んでしまった。
その原因は、俺の眼鏡を奪った桜花先輩。
そっちはそっちで楽しそうに俺の眼鏡をあちこちから見ているのが見える。


「ちょっと……返してくださいよ」
「へー、これが若の眼鏡かぁ!おしゃれだねー!」


返してくれる気配はない。
コンタクトはしていないから桜花先輩がぼやけて見える。
目を細くして意識を集中させたとしても、よく見えない。


「……桜花先輩」
「ん?」


あ、今俺の眼鏡をかけたな。
……ああ、桜花先輩の眼鏡姿が見えない。


「桜花先輩の顔がよく見えないんですが」
「私には若の顔がよく見えるよー」


上機嫌で眼鏡をかけた顔で俺の顔を覗き込んだ。
だから、それでも俺からは見えないんですよ。
貴方の、綺麗な笑顔も何も。


「じゃあ、こうしたら見えるっ?」
「っ………」


言葉と同時に、微かながらも桜花先輩の顔が正面まで近づいてきたのが分かった。


「ほら、レンズ越しに私の顔!」
「……こちらからでは無理ですよ」


寧ろ、目が痛くなります。


「そっかー残念」
「……そう思うんだったら返してください」
「あ、そうだ。私たまに考えるんだけどね」


俺の言葉は無視ですか。
……まあ、貴方らしいですけど。


「眼鏡してるとさ、キスする時邪魔なのかなぁ」
「………」


不思議そうに、首を傾げる先輩。
その言葉には決して、深い意味は無くて。


「……それなら、試してみます?」
「へっ?」


眼鏡をかけたままの桜花先輩を引き寄せ、何時もの感覚で唇に唇を当てる。
一瞬目が点だった桜花先輩も、状況を理解すると恥ずかしそうに目を固く閉じた。
ああ、駄目だ。
桜花先輩の顔が……頬を赤くしている可愛い表情が見えない。
それどころか、目の前まで来ている眼鏡のレンズが邪魔をする。
今だけ、このレンズが……、俺達の間を挟んでいるこの眼鏡が鬱陶しく思えた。


「んっ……〜〜!」


ふと気付くと、桜花先輩が苦しそうにしているのが分かったからそっと唇を離した。


「っ……若!」
「何ですか?」
「いっいきなり、そーゆーことは……」
「だったら眼鏡返してください」
「あっ…」


俺は桜花先輩から眼鏡を取り、自分にかけた。


「……これならよく見えます」
「っえ?」
「桜花先輩の、可愛い反応が」
「っ……!ば、馬鹿!」


照れ隠しのパンチを軽く片手で受け流す。


「言いだしたのは、桜花先輩ですよ?」
「なっ…あれは、単なる疑問で……」
「その疑問も、今ので解決したでしょう?」


眼鏡は邪魔なものだと。
桜花先輩の表情が見えなくて。


「っ……もう……若の馬鹿!大好きなんだから!」
「意味が分かりません。でも、俺も好きですよ」


そう言うと、桜花先輩はまた顔を赤くして、小さく「ありがと」と言った。
全く、どうして礼を言うのか。
……礼なら、俺もたくさん言いたい。

ありがとう。
俺の傍に居てくれて
声をかけてくれて
笑ってくれて
愛の言葉を囁いてくれて
どんなことでも、幸せになれる。

それが
貴女だから――――





貴女の存在が俺を幸せにしてくれる
(何があっても、俺は貴女を離しませんから)