放課後、図書室の目立たない席。
そこで俺は静かに読書をしていた。
いつもなら部活で汗を流しているこの時間だが、今日はオフ。
大抵オフの日は日差しが柔らかくなる頃合いまで、ここで時間を潰している。


「若」


ほとんど人のいない図書室だったが、急に横から声をかけられた。
俺は驚くことなく、その人物を見上げる。


「桜花先輩……」
「やっぱりここに居た」


名前を呟くと、先輩はにこりと笑って許可もとらずに隣に座る。
……まあ、許可を求められたところで、俺の返事はイエス以外にないのだが。
俺の心境は複雑だった。


「何をしに来たんですか。本なら、選び放題ですよ」


隣に座り綺麗な微笑で俺を見つめてくる先輩に、俺はつっけんどんな態度で言った。
そして視線を本に戻す俺に対し、また口を開いた。


「こーら、先輩がお話をしようとしてるのに、読書は禁止です」
「っ……」


妙に大人ぶった口ぶりで、俺から本を奪うと机に置いておいた栞を挟んで本は閉じられる。
俺は少し驚きつつも、先輩が机に置いた本を取り戻すことはせずに不満そうに先輩を見た。


「もう、せっかく久しぶりに二人でお話できると思ったのに」
「……別に、俺と話すことなんて何もないだろ」


そんな不満そうな俺を見て、先輩も不満に思ったのか小さく頬を膨らませた。
あざといとも思えるその表情を見て、俺はつい気を緩ませてしまい敬語ではなくなってしまった。
しまった、と思った時にはもう遅く、先輩を見ると意地悪そうに笑った。


「若のその口調、なんだか懐かしいなぁ。最近はどんどん他人行儀になっていっちゃうし」
「………」
「幼馴染なんだから、昔みたいに普通にしてくれればいいのに」


先輩はきっと、本心からそう思っている。
俺が先輩に対して敬語で話すのは、自分で勝手に決めたことだ。誰に言われたわけでもない。
これ以上、先輩との距離を縮めたくなくて。それならばいっそ距離を空けてしまおうと。
そうすれば俺自身を惨めに思わなくて済む。
……そんな俺の気持ちなんて知らずに、先輩は話を続ける。


「私にとっては、先輩後輩になっても若は可愛い幼馴染だよ」
「……頭、撫でないでください」


小さい子にするようにぽんぽんと頭を撫でてくる先輩。
俺が小さい頃よくやっていた仕草だ。それを懐かしむ余裕も嬉しく思う余裕も今の俺にはない。
すぐに先輩の小さな手を振り払った。


「全くもう、若は立派な反抗期になっちゃって……お姉さんは悲しいよ」
「誰がお姉さんですか」


そうつっこむと、先輩は楽しいのか表情を緩ませて笑った。
……ああ、畜生。
悲しいだけなのに、その先輩の笑顔を綺麗だと思ってしまう。
俺が小さな頃から好きだった、先輩のあどけない冗談めいた笑顔。
昔と違って、その笑顔には品があり、しばらく見ない間に随分と大人びているようにも思えた。


「……それで、なんですか。何か用事でもあるなら手短にお願いします」
「うふふ、用事というわけではないんだけどね。最近若とお話してないなぁと思って、来ちゃった」


予想外の言葉に、俺は目を見開いて驚き、言葉を詰まらせた。
だがその態度を先輩に見せたくなくて、すぐに平静を装うために口を開いた。


「き、来ちゃったって……馬鹿ですか、先輩は」
「馬鹿ってなによー、幼馴染想いのお姉ちゃんに向かって」


俺の言い草に先輩は納得いかなかったのか、また頬を膨らませて俺をジロリと見る。
……幼馴染想い、ね。本当に俺のことを想ってくれるのなら、俺のことを見つめないでほしい。放っておいてほしい。
だけどそうは言えない臆病な俺は、何も言えずに先輩の口元を見た。


「ふふっ、でも安心したなぁ。こうやって話をすると、若はあんまり変わってなくて」


少し生意気にはなったけどね、と先輩はいらぬ補足をしてまた笑う。
変わってない、か。相変わらず先輩は鈍感で、土足で人の心を踏みにじる。
本当に変わらなければ良かったのに、と遅い後悔の気持ちを抱きながら、俺はようやく先輩の目を見た。
優しく俺を見つめてくる双方の瞳は、昔と何も変わっていない。大事な幼馴染を見る目だ。
俺の好きだった、優しい先輩の目だった。
それは今でも変わらない。だけど、先輩は少し変わった。


「……先輩は、変わりましたよね」
「え?そうかな?」


俺が呟くように言うと、先輩は意外だったようで目を少し大きく開く。
思い当たる節がなかったのか、小首を傾げた。
その仕草により、片側にさらさらと流れる黒く艶のある髪を見て、俺は目を細めた。


「髪……伸びましたね」


そして、言うつもりではなかったのに、思わずそう声に出てしまった。
すると先輩は、変化とは髪のことかと思ったのか、そっと、胸のあたりまである髪を一束つまんだ。


「そ、そんなに伸びた……かな?」


ああ、やっぱり言うんじゃなかった。
先輩は俺の知らない顔をして、自分の髪を見つめて言う。
俺の知らない奴に恋をしている、先輩の表情。
そんな見たくもない顔をした先輩を……俺は正面から見つめる自信はない。


「………伸びましたよ」


俺は情けないとは思いつつ……眉を下げて、少し先輩の横の空間を見ながら呟いた。
声量も小さく、情けないものだったが先輩はそんなことに気付くこともなく、自分のことでいっぱいいっぱいのようだった。
人からその変化を口に出され、より実感しているんだろう。
先輩の想い人のために、髪を伸ばしている先輩にとっては、それが最上の誉め言葉だ。


「え、えへへ………そっかぁ……」


照れ隠しなのか、つまんだ髪を指で擦り合わせて先輩は控えめに笑う。
頬も若干赤くなって……恋する乙女の表情だ。
最低だ。俺ではない別の人を想う先輩のそんな表情、見たくないのに。
見惚れてしまうほど……その表情は綺麗なのだから。


「(……どんな先輩でも綺麗だ。けど、)」


恥じらい髪を見つめる先輩を見ながら、俺は遠い昔の思い出を思い出す。
思い出、といえるかも分からないくらいの瞬間的なものだが……。
小さい頃からずっと髪の短かった先輩。
その頃から先輩のことが大好きだった俺は、何度か先輩に言ったことがある。

短い髪が似合っている、好きだ、と。

俺より一つ年上で、活発だった先輩はありがとうといつも言っていた。
俺が中学に上がった時も先輩は変わらない短い髪のまま俺の入学を喜んでくれた。
それなのに、先輩は変わった。
いつからだろうか、先輩が好きな人のために髪を伸ばしていると聞いたのは。
先輩が誰かを好きになるなんて、考えてもいなかった俺は。
それを聞いてとても悔しかったし、嫉妬もした。
少しずつ変化の訪れる先輩を見ていたくなくて、距離も空けていった。
年頃で、反抗期だろうからと先輩は深刻にとらえずにいつも通り俺に接してくれていたが、俺にはそのいつも通りが余計に辛かった。
どうせなら、全部変わってくれていたら良かった。
それなのに、先輩はいつまでも変わらない優しい先輩のまま、俺じゃない奴のために髪だけを伸ばしている。
何も、髪の短い先輩じゃないと嫌だとか、そんな偏見やこだわりを持っているわけではない。
目で確認できる……先輩の気持ちが嫌だった。髪が伸びていく分だけ、先輩が誰かを好きだと言う事実を、見たくなかった。
見たく、ないのに。
恋をしている先輩はどんどん綺麗になっていく。それが羨ましくて、妬ましくて。


「(俺じゃない誰かに向けたそれは、ちょっと、切ない)」


俺はいつまで経っても桜花先輩の幼馴染のまま。
それこそ子供みたいな我儘を抱いて、大好きな先輩の微笑を、何とも言えない気持ちで見つめるしかなかった。





要するに、俺は、あなたを、
(大好きなんですよ。そしてその感情を捨てることができない。情けなくて惨めな臆病者です)





日吉くんの切ない夢は久しぶりですね。
相手を鳳くんにするかで少し悩みましたが、日吉くんにやきもちを焼いてほしくて。
いつもは強気で生意気な日吉くんが、こうして弱気で何もできないでいるところがギャップというか、なんだか好きです。
恋愛に対して、というよりは、ヒロインに対して臆病になっているところとか……そんな日吉くんが愛おしいです。