「君の異能は素晴らしい」

どこか遠くに聞こえる優しげな声が、目を閉じている椿の脳内に響いた。
決して忘れることのない声。
忘れようと思っても、忘れられないほどに優しく儚い声。
例えそれが辛くても……椿は、忘れることなどしたくなかった。
忘れるというのは、とても辛くて悲しいことだから。

「私の傍にいろ。私の傍を離れるな」

だから、自分は決してあの人の優しさや悲しさを忘れない。
あの人が抱いていた悩みも辛さも全て、懐かしい声と共に。
未だこの胸の中にあたたかな思い出として刻まれている。

「私が、護りたいものを護る強さを教えてあげよう」

教わったこともたくさんある。
出逢った人もたくさんいる。
異能に頼らない戦い方も、強くなるための方法も。
―――それらを教えてくれる時の、切なげな表情も。
自分が生きている限り決して忘れない。
この異能に呑み込まれる、1分1秒まで。絶対に。
共に同じ時間を生き抜いたのだから。
生と死の狭間を、確かに。
行く道は違えど目的は違えど。
かつては『仲間』と呼べる存在だったのだから。





「………?」


椿が目を覚ました頃はもう、夜も更け星空が見える時間帯になっていた。
大きな腕に抱かれた状態で目を覚ましたため、椿はすぐに自分を抱えている人物と目が合った。


「起きたか」
「……雪、比奈さん」


やけに鮮明に雪比奈の顔が見えることに不思議に思ったが、すぐに自分が着ぐるみを着ていないからだと気付く。
ロストから戻り、意識もはっきりとしたことを確認した雪比奈は椿を地面に立たせた。


「あり……がとう」
「……着ぐるみはそこだ」


呟くように言った椿のお礼の言葉も、雪比奈は聞こえない振りをした。
そして袋に詰め込んだ、『ひめまる』の着ぐるみを指差す。
椿はそれを見つけ、駆け寄り着ぐるみを取り出す。
いそいそと着替え始めた椿を見て、雪比奈は少しばかり不愉快そうに眉を寄せた。


「まだお前は姿を隠しているのか」
「……うん」


黙々と着替えていた椿は、間を置いたもののしっかりと頷いた。
そして頭の部分を被り、後ろを振り返って雪比奈を見ると、こちらを真っ直ぐ見る目と目が合った。


「大丈夫。いつもと同じ」
「………心配などしてない。今、お前とオレは敵同士だ」


その無感情から、若干の心配の色を窺った椿だが、雪比奈は首を振る。
それに椿は悲しそうに目を伏せるも、またすぐに雪比奈を見た。


「わかってる。護りたいもの、違うから」


呟きながら、椿は昔の記憶を思い出した。
夢で聞こえたものと同じ声が、仲間にとある頼み事をしたこと。
自分もその場に居合わせ、微力ながらその頼み事の手伝いをしたこと。
……それを終えた時、『捜シ者』が穏やかな笑みを作り自分を見たこと。


「……そうか」


その言い切るようにして言う椿に、雪比奈も少し意外そうに椿を見つめた。
着ぐるみで表情は見えないが、きっと中には今まで見たことのないような目をした椿がいると想像して。
そして何も言わず、雪比奈は背中を向けて歩みを始めた。
椿は小さくなっていく後ろ姿をしばらく見つめた後、背後にある建物へと目を向けた。


「ただいま……」


今にも崩れそうなほどボロボロで古さを感じられる建物。
『渋谷荘』と表札の立てられたその家を見て、どこか安心したように呟いた。
そしてゆっくりと歩き、渋谷荘の玄関へと足を進める。
扉を開けると廊下をギシギシと鳴かせながら、この家の主である会長……渋谷が走ってくるのが見えた。


「おかえり椿ちゃん!ごめんね、迎えに行ってあげられなくて」


エプロン姿のまま、ばつが悪そうに眉を下げて出迎える渋谷。
そんな渋谷に椿はふるふると首を横に振った。


「大丈夫だった?暗い夜道を一人でなんて、心配してたんだよ」
「……平気。雪比奈さんが送ってくれたから」


怪我はしていないか寒くないかと椿を心配しながら、中に入るよう促す渋谷。
それを安心させるように、椿はそう告げる。
椿が渋谷荘にあがったところで、奥からもう一つの人影が現れた。


「おい師匠、鍋が噴いて……」


それは弟子となるために今日から渋谷荘に住み込みを始めている零だった。
ここにはいないはずの存在を見ても、椿は驚いた様子もなく零を見た。


「ただいま」
「……お…おかえりなさい……」


椿はいつも通りの様子で言ったが、零は驚いたまま、ほぼ無意識に挨拶をした。
そして、零の言葉で今度は鍋の心配をし出した渋谷は急いでキッチンへと向かう。
パタパタとその足音が聞こえなくなったところで、ようやく零は椿は渋谷の助手だということを思い出した。
それならばここが住処と言われても、何らおかしいことはない。


「本当に……『捜シ者』のところに居たんですか」


冷静を取り戻した零は、少々厳しい顔つきで椿に問う。
その言葉に椿は躊躇いも隠そうともせず、正直に頷いた。


「そう、ですか。無事で……何よりです」


そして今朝椿が見たものと同じ、能面のような笑顔でそう言う零に、椿はまたきっぱりと言った。


「『捜シ者』が憎いの?」


突然の問いかけに、零は癖で作った能面の笑みをすぐに崩す。
そして言葉に詰まりつつも、こちらを見上げてくる椿を見つめる。
視線の先にいる椿は、純粋な疑問を投げかけただけで、深い思惑などがある様子はなかった。


「……あなたに関係ありません」


探られたくないと拒否するように、言い捨てる零。
顔を逸らされたことを、椿はどこか寂しげな表情で見つめた。


「おーい二人とも!早くしないと鍋が冷めちゃうよ!」


そんな重い沈黙を、キッチンから渋谷が明るい声で切り裂く。
能天気にも思えるその言葉を聞き、零は大きく溜息をついて椿を見た。


「行きましょう、椿さん」


先程の拒絶するような態度とは打って変わり、どこか疲れたような笑みで言う零。
そんな、どことなく何かに似ている笑みを椿はぼんやりと見つめ、頷いて零の後をついていった。