その夜、椿たち全員は桜の家にお世話になることになった。
大所帯での厄介は迷惑になるのではと思う者もいたが、元々桜の家も大所帯だったため問題はなかった。桜の両親の快い歓迎に甘えさせてもらうこととなった。
自分の部屋で休むこととなった桜に呼ばれ、椿も桜の部屋で桜が寝付くまで休んでいた。
疲れのためかすぐに整った寝息で眠る桜の寝顔を少し眺めながら、椿は昼間のことを思い出す。


「………私と桜の、『はじまり』……」


平家に思い出すように言われたあの言葉、態度、表情。
意地悪を言っているわけではないことは分かっている。だが、椿は今でも思い出すと胸が裂けるような痛みを感じた。
触れようと思えばいつでも触れられる距離に桜はいる。
遠い昔のことから思えば輝かしい進歩とも言えた。姿も存在も隠していたあの頃を思えば。
存在だけでも知ってもらえているのは椿にとって嬉しいこと……のはずだ。
たとえ桜が自分のことを何も覚えていなくても。


「………」


久しぶりの自分の部屋だからか、落ち着いた様子で桜は眠っている。
椿は名残惜しそうにその寝顔を見つめ、そっと立ち上がり桜の部屋を後にした。
音を立てないよう気をつけながら長い廊下を歩く。月明かりに誘われるように廊下を歩いた先には、少し場所の開けた縁側があった。
本当なら外に出て直で月を眺めたかったが、万が一のことも考え戸締りをしっかりとしてあるため、それは叶わなかった。
冷たく固い廊下にちょこんと正座をして、ぼうっと月を見上げる椿。
虚しいような気怠いような、何とも言えない脱力感を抱きながらじっとしていると、横から声が聞こえた。


「こんなところで何をしているんだ、椿」


夜更けのために静かな声だったが、心配しているような気持ちを含ませた泪の声。
影になってよく見えなかったが背後には虹次と雪比奈もいた。


「眠れぬのか」


虹次がそっと呟く。雪比奈は何も言わなかったが、じっと自分を見つめていた。それだけで心配されているのだと分かった。


「………少し」
「珍しいな。お前が桜小路の所から離れるなんて」


椿の声が少し暗いことに気付き、泪は腰を下ろして椿の顔を覗き込むように言った。
そうしても着ぐるみの椿の表情は窺えないのだが、これも一つの泪の優しさだった。


「平家に何か言われたか」


虹次がまた口を開く。あの時椿を見つけた時、椿はたった一人だった。分断されてから自分が見つけるまでの時間を考えると、その可能性もあると思ったのだ。


「……あの人のことだから、何か惑わせるようなことを言ったんじゃないか」


平家の名前が出たことで雪比奈も口を開く。
相変わらずその表情は無に近かったが、ほんの少しだけ不快そうなようにも見えた。
椿はその言葉を受けて控えめに首を振る。


「……考えてたの。私と桜の……『はじまり』のこと……」


ぽつぽつと紡がれる椿の言葉を聞いて三人は少し目を見開く。
まさか椿の口からそんな内容が出てくるとは思ってなく、泪も言葉を躊躇った。


「平家さんが……それを、偽りだって言うから……」


そしてやはりその考えの元凶が平家だと知り、雪比奈は嫌そうな顔をし、泪も余計なことをと眉を寄せた。


「……お前の記憶に偽りなどない」


ただ虹次だけは力強く言い切った。
有無を言わさぬくらいの頼りのある言葉を受け、椿ははっと虹次を見上げる。


「どんな経緯があろうと、お前がその記憶を大切に思い今まで糧に生きてきたという事実は変わらぬ」


迷う椿の道筋を作るような虹次の言葉。
それを聞いて、泪は相変わらず椿に対する甘さは凄まじいなと思いながら、何も言うことはできなかった。
椿との記憶を全て思い出した泪にとって、目の前にいる椿は今まで以上に大切な守るべき仲間だ。命はもちろん、その精神すらも。
だが、自分は。
虹次のように何の迷いもなく椿に声をかけてやることができなかった。
椿の記憶にある桜との『はじまり』が偽りである。
それを否定も肯定もできなかったのだ。
勿論、自分も全てを思い出しても椿自身のことを全て分かっているとは言えない。分からないことがまだたくさんある。
自分が知っているのは、『捜シ者』が椿を自分たちの元に連れてきてから以降の椿の生い立ちだ。
それ以前の椿の出生についてや渋谷との接点について、桜を守ろうとする強い意志を持つ理由など……分からないことも多い。
そうだ、桜を守る理由。
自分たちと会ったばかりの頃、椿は自分でもそのことをよく分かっていなかった。

「私は……桜を守るために存在しているの……」

まだまだ幼い少女なのにも関わらず、少女っぽい表情など皆無で。
まるで機械のように同じことばかりを言っていた。
桜というのは誰だ?友達なのか?―――そう何気なく泪が聞くと、

「……………知らない」

またしても無表情で、淡々と言った。
当時はまだ出会ったばかりで得体の知れない子供という認識だったため、不気味に思ったのをよく覚えている。
感情がないという情報は事前に知っていたが、それでも異様だった。
誰とも知れない相手のために自分の命を懸けようとするその頑固さは。あの『捜シ者』の厳しい生活にもついていき、戦闘技術を磨いていったあの意地は。
まるでそれしか自分には残されていないような、そんな風にも見えた。


「虹次の言う通りだ……」


そこまで思い出したところで、泪はようやく言葉を発する。
着ぐるみの中の椿の表情が寂しそうなものだと感じ、至極優しい表情を努めて椿の頭を撫でる。


「今の椿の中にある桜小路が全てだ。お前が見て、感じて……話してきた桜小路が、ちゃんと記憶にあるだろう?」


泪は思い出させるように優しく言う。
その心地も良い言葉を聞いて、椿はそっと目を閉じて泪の手に甘えた。


「………いる。私の中に……桜はいる……」


目を閉じると今でも鮮明に思い出せる。あれは偽りでも何でもない。
きっと多くのことを忘れてしまっている椿にとって、それこそ大切な記憶。
自分と桜との出会い。それが平家の言う『はじまり』だった。


「桜は……昔から、優しくて……」


思い出すように紡がれる言葉。
それを泪は、ああと頷きながら微笑みかける。


「公園で、初めて会う私にも……笑いかけてくれたの」


邂逅しはじめる椿の言葉を聞いて、虹次は難しそうに眉を寄せた。
雪比奈は表情は無のまま、そっと椿から視線を逸らした。
椿がまだ渋谷の元を離れて『捜シ者』の元へ渡ってしばらくの頃、例の理性と本能のジレンマが起きた。
それまでは桜のことを知らなくとも、護るという強い信念だけで十分だった。
だが、辛く苦しい修行の日々が続くと、椿の中の本能が苦しがったのだ。
桜のためならば耐えなければならない、だがその桜というのは誰だ?
自分は影武者なのだから会ってはいけない、だが会いたい。知りたい。
大切なことに違いはないが、どうして大切に思っているのか……。
椿も我慢の限界だった。
そのため『捜シ者』に任され、泪、虹次、雪比奈が渋谷の元に再び訪れた。
深く悩む渋谷だったが、仕方がないと重い腰を起こした。
泣きじゃくる椿の頭を撫で、少しだけ桜に会いに行こうと言ったのだ。姿も隠さず、ただ帽子をかぶるだけでいいとも言った。
驚く虹次たちが心配するも、渋谷は悲しい顔で大丈夫だよとだけ言った。
その大丈夫の意味を知っている虹次と雪比奈は何も言わず引き下がり、泪だけがいいのかと眉を寄せていた。
会いに行こうと思えばいつでも会える距離にいる。それでも会わなかったのには訳があるのだろうという泪の考えだった。
だが虹次に説得され、遠くから見守ることにした。
大人たちの会話は聞いてもよく分からず、理解もしていないだろうが……椿が覚えているのはここからだ。
外に出てしばらくして渋谷が、この道を真っ直ぐ進んだ左にある公園に行ってごらんと言った。
渋谷も渋谷であまり表を堂々と歩くわけにもいかず、虹次たちと同じように遠くから見守るだけにした。
そして一人で道を歩き、渋谷の言う通り公園を見つけた。
公園の入り口から中を見回してみると、学校の遠足だろうか、たくさんの子供が思い思いに遊んでいた。そしてその中の一点を見て椿は目を見開いた。
まだ幼い桜が砂場で遊んでいるのが見えたからだ。
不思議だった。会ったこともなく渋谷からも何も聞かされていないのに、すぐにその少女が桜だと分かった。
丸い顔に仏頂面ともいえる表情を浮かべて、一人砂場で黙々と砂の山を作っていた。
椿は他には見向きもせずに桜だけを見つめ、恐る恐る桜へと近づいた。
すぐ傍まで来た時、椿は無意識のうちに桜の名を呟いていた。
それに気づいた桜が自分を見上げる。そのビー玉のように丸い目を見た時、椿の心臓が高鳴った。
今までに感じたことがないくらいの心臓の鼓動が何なのか分からず椿が胸を押さえて座り込むと、桜が手に付いていた砂を払って、座り込んだ椿の背中を優しく撫でた。
何も言葉を発しない桜だったが、それが優しさだと気付いた椿は切なそうに眉が寄る。
大丈夫、と椿も短く言うと、桜は安心したのか手を離し、また何も言わずににこりと笑った。
この子が桜。この子が自分が護りたい人。自分の生きる意味、理由、全て。
そしてこの逸る鼓動や涙が出そうなのは嬉しいからだ……そう分かった椿は、唇が震えるのを感じながら、また桜の名前を呟く。
なんだろう、といった表情で桜が椿を見つめるも続きの言葉は出てこない。何と言えばいいのか分からず、椿も頭が真っ白になっていたのだ。
そうしている間に恐らく自由行動終了の合図が付き添いの先生から出される。
桜もそれを聞き一瞬そちらを見ると、もう一度椿を見て半ば強引に椿の手をとる。
驚いた椿が桜をまじまじと見つめると、やはり桜は何も言わないが、ぎゅっとあたたかい手で椿の手を握った。何故か不思議と懐かしい感触だった。
そしてようやく最後、小さな透き通った声で「またね」とだけ桜が言った。
その言葉に何も答えることはできず、ただ茫然としたまま椿は立ち尽くし、公園から出て行く集団の中の桜を見つめる。
やがて誰もいなくなり静かになった公園に、今まで見守っていたであろう渋谷と虹次たちが現れた。
心配する皆だったが、次に見せた椿の表情にそれぞれ言葉を失った。
笑っていたのだ。椿は。誰もが初めて見る微笑だった。
それほどに桜という人物の存在は大きいのかと思う泪や、複雑そうに眉を寄せる虹次と雪比奈、そして切なく表情を歪める渋谷。
遠くから見ていた渋谷にとって、椿の微笑だけでなく、桜の微笑も久しぶりに見たものだった。
本当の娘と、娘のような存在の少女。どちらの微笑も切なく、また嬉しいものだった。


「そんな……優しくてあたたかい桜を……私は、護りたい」


少し思い出に浸った椿が小さく呟く。
そうだ、何を迷うことがあっただろう。この思い出さえあれば十分じゃないか。
空っぽで何もなかった自分の記憶の中にあの時初めて色のついた思い出ができたんだ。
これが自分と桜との『はじまり』だ。大切な出会い。無論、偽りなんかじゃない。


「………そうだな、お前なら、きっと護り切れる……」
「泪……ありがとう。虹次さんも……雪比奈さんも……」


泪のあたたかな言葉に礼を言い、虹次と雪比奈にも視線を向けると、礼は不要だと言わんばかりに虹次は首を振り、雪比奈はそっぽを向いたままだった。


「話して良かった………これで、私は……影武者を全うできる」


平家も言っていた、いずれ訪れるであろうその瞬間を。
あの時の桜のぬくもりと、今の桜の笑顔さえあれば何も悔いはない。自分の誉れだと断言できる。
椿は今一度心の中で決意をし、立ち上がった。


「桜小路のところに戻るのか」


聞く泪の言葉に、椿は力強く頷いた。
お前もゆっくり休めよ、という泪の別れの言葉を受けながら椿は静かに桜の部屋へと向かう。


「………影武者、か」


その後姿を見送って、泪は悲し気に呟いた。
幾度も幾度も椿の口から零れる影武者という言葉。
それを本気で思っているのは椿だけで、他の人物は誰一人そうは思っていないことを切なく、また苦しく感じた。


「椿は、まだそんなくだらないことを言っていたのか」
「雪比奈っ……」


たとえ自分も影武者と思っていないとはいえ、雪比奈の冷たく聞こえる言い草に我慢できず、泪は声を押し殺しながら雪比奈を睨む。


「泪もそう思っていないくせに」
「………っでも、椿があんなに懸命に……!」
「落ち着け、泪。雪もだ」


心を見透かされたような気がして泪は一瞬黙るが、それでも言い方というものがあると詰め寄る。
だが落ち着いた声で虹次に静止させられた。雪比奈も視線を逸らす。


「虹次……」
「皆考えていることは同じだ。誰も椿を影武者とは思ってはおらぬ」
「だったら、」
「椿には理由が必要。それもまた事実だ」


たとえそれが、自らの死を受け入れることであっても。
どんな内容でもその理由がなければ椿は今まで生き抜くことはできなかっただろう。
虹次はそう思いながら、端的に泪に告げる。
泪はじっと虹次を見つめた。何かと椿について甘いのは、椿のことをよく知っているからだと泪も気付いていた。
自分も知らない何か重要なことを虹次は知っている。そしてさらに旧知の仲であろう雪比奈も、おそらく知っているだろう。


「……っくそ、またオレだけ除け者かよ……」


そして当然、聞いても教えてくれないことも知っていた。
悔しそうに吐き捨てる泪の言葉を聞いて、虹次も目を閉じる。
椿の心や決意を壊したくないのは本音だった。
そのため、椿の前で虹次は平然と嘘をつく。いや、嘘というよりは、椿が求めいるであろう言葉を投げかけたのだ。

「お前の記憶に偽りなどない」

それは虹次が故意についた嘘だった。その嘘は椿を護る。
事実、あの時桜と出会った後の椿の成長は著しかった。護るべき者を具現化させ、あとは一身にそれに向かうのみ。
当初、自分が抱いていた悩みなど些末なものだった。
渋谷の言う通り、大丈夫だった。
昔も今もそうだ。
椿と桜が面と向かっても、何も思い出したりしなかった。
―――お互いに。


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