「もうそろそろ、皆が来る頃だよ」


部屋全体に大きな本棚が立ち並ぶようにして存在している、人によっては圧迫感を強いられるような空間。
明らかに、本来の用途として使われるには広すぎる部屋である。
だが厳かな空間を演出する本の数々に反するように、床にはありとあらゆる動物の着ぐるみが無造作に置かれていた。
それが、この場所が荘厳たる趣だけではないということを主張している。
物が多く置かれ賑やかながらも、一切の無言を保っているその部屋に、緊張感のない声が続けて発せられた。


「本当に大丈夫なのかな?」


返事が返ってこないことを心配したのか、先程よりは心配の色を濃くした声音で言う着ぐるみ。
その着ぐるみは巷で人気の『にゃんまる』の姿をしていた。
その『にゃんまる』が声をかけているのは、端正な顔つきで髪は長く黒に艶めき、どこか儚さやか弱さを感じさせる少女。


「………大丈夫」


顔を覗き込むようにして見られた少女は、感情のこもっていない言葉で返す。
とても大丈夫には聞こえないが、着ぐるみは何の疑問を抱くことなく会話を続けた。


「いくらこれが必然であるからって、無理しなくていいからね。いかにも、君にはそうする権利がある」
「……私は影≠セから」


どこか逃げ道を作ろうとする言葉に、はっきりと首を横に振り答えた少女。
それすら、どこにも抑揚のない声だが確かに強い思いを感じさせられる。


「……いかにも、君は変わらないね」


それにつられるように、着ぐるみも飄々とした態度を改めどこか落ち着いた声で言う。


「彼女はきっと君のことを何も覚えていない。それでも君は彼女に会うんだね」
「それが、私の務め。存在意義。―――――義務」
「………」


無感情に淡々と言う少女。
その最後の言葉、義務≠ニ聞いた時、着ぐるみは切なげな表情を少女に向けた。
少女もそれに気付いてはいるが、生憎それがどういった感情や思いの表情なのかが分からない。
首を傾げ、幾年も同じ時を過ごしてきた着ぐるみを見つめるばかりだった。
何かを言いたげに、でも言ってはいけないと歯止めをかけている着ぐるみの様子に、少女は何かはっと思いついたように口を開いた。


「桜は、大丈夫。正義感が強くて、真っ直ぐで、強い子だから」


表情は変わらないが、その言葉は確かに励まそうという気持ちに溢れていた。
少女なりに、着ぐるみがこんな様子なのは彼女のことを心配に思う気持ちからだと長年の経験から結論づけたようだ。


「私が桜を、護る」


着ぐるみが脳裏に浮かべる、桜という名の人物と寸分の違いもない真っ直ぐな目。
そして同じく真っ直ぐな言葉が着ぐるみの胸を突く。
どうやら、自分が切ない顔をしたのは桜という少女を思ってのことだと思われたらしい。
いや、予想はできていたことだが。と着ぐるみは情けなく笑った。


「ありがとう。君が言うと、心強いよ。桜小路さんを頼むよ」


今からこちらに、とある人物の誘導により連れてこられるであろう少女。
多くの『存在しない者』……コードブレイカーなるものと一緒に。
それが桜小路桜と呼ばれる少女だった。
着ぐるみがそう告げると、今まで無表情を貫いていた少女の表情に若干の柔らかさが現れた。


「……うんっ」


まるでその言葉が至上の一言だとでも言うように、少女は心から嬉しそうに微笑んだ。
それは今の少女≠ノとって嘘偽りのない……正真正銘の喜びの笑みだった。
少女がこうして表情を変化させるのは、いつだって桜という人物関係のことばかり。
この少女にとって、桜の信念こそが少女の信念であり、桜を守ることこそが信条、存在意義に他ならない。
それを知っている着ぐるみは、その人形のように綺麗な笑みを見ても、複雑な思いが募るばかりだった。
桜を守るという、少女にとって唯一である強い意志の表れへの喜び。
そして、その信条以外には無関心になってしまった感情への悲しみ。
決して意図して失われたわけではない、少女にとっての嬉しいや楽しいや悲しいや寂しいといった感情。


「桜の影武者≠ニして、頑張る」


そう生きていく上で必要ないとし、少女自身が切り捨ててきた感情たち。
それを悲しむ気持ちも、辛いと思う気持ちも最早少女にはない。
今はただ、桜を守ることが少女の全てであり、この世を生きていく理由であり、存在する意義なのだ。


「……分かっていると思うけど、くれぐれも皆には内緒でね」
「うん。私は桜だけど、桜じゃない。ただの影=v
「………」
「太陽の前では存在すらも許されないから」


ほぼ機械的に繰り出される言葉。
何も着ぐるみは、少女にここまで言わせようと思っていたわけじゃない。
ただ、お互いのパニックを避けるために内緒にしようと言いたかっただけだ。
伝えたい言葉が伝わらず、心が痛むも今の自分には少女にかける言葉は何も見つからない。
言う資格がないのだ。少女をこうさせてしまったのは、少なからず自分にも原因がある。
切なげに、自分と同じように着ぐるみに姿を隠そうとしている少女を見つめる。
今はまだ……強い信条を貫く少女を密かに見守ることしかできない。
それが自らの罪でもあり、この世の均衡を保つために必要なことなのだから。