「椿ちゃん、なんだか元気になった?」
「……うん」


翌日の朝、学校に向かう皆を気持ち良く見送った椿。
泪と遊騎は学校はないが用事で出て行ったため、渋谷荘にいるのは椿と渋谷、『ゐの壱』だけだ。
玄関に待機中の『ゐの壱』はそっとしておくとして、リビングに戻った渋谷が椿に声をかける。


「桜小路君と仲直りできた?」
「……違う、けど、零が慰めてくれた」


穏やかに言う椿の言葉を聞いて、渋谷は少し黙った。


「いかにも、最近大神君と仲が良いね」
「……零は特別。桜の次に、大切」


それを聞き、渋谷は驚きはっと椿を見た。
心なしか今の椿の様子が嬉しそうにも見える。
渋谷の心の中で焦りや戸惑いが渦巻く中、椿は言葉を続けた。


「桜の大切は、私の大切。零は桜の特別だから、私にとっても特別」


淡々とした椿の言葉を聞いて、渋谷の中にあったモヤモヤが一気に晴れた。
そうだ、椿が桜以外の人に依存するなど、有り得ない。
そんなことは分かっていたはずなのに、どうしても心配になってしまう。


「……そうか。椿ちゃんは、桜小路君と同じ気持ちで大神君と接しているんだね」
「うん。桜はいつも零を護ってた」


ほっとした渋谷がそう呟くと、椿もこくんと頷いた。
それはそれで別の意味で気が気じゃないが、とりあえず椿に何の異変もないことに安心することにした。
そう、きっと何もないはず。
『ゐの壱』の存在があるため居場所をなくした椿が、零の部屋に行ったのも。
多くを語らない椿が、苦悩を言葉にして漏らしたことも。
椿にとって零が特別だからじゃない。


「……桜小路君が一番大切なんだもんね」


渋谷が優しく言うと、椿はすぐに頷いた。
そんな健気な椿の姿を見て、渋谷は悲しげに微笑む。
そして、こう切り出した。


「でもこれから言うことは、桜小路君には秘密にしててくれるかな」


きょとんとした椿を真っ直ぐ見据え、渋谷は語り出した。
それは後に、コードブレイカーたちにも語られる決意であった。





「やったーー!みんなでキャンプなのだ!!」


本来は零と刻、渋谷の3人で修業だったはずの内容。
それが桜の興味をそそり、結果的に全員でキャンプに行くという形になった。


「きっと楽しいだろうな!なっ、椿!」
「えっ……」


にこにこの笑顔を見せながら、椿に話しかける桜。
隣に居たとはいえ、例のことがあり声をかけられるとは思っていなかった椿は目を丸くして桜を見た。
その様子を見て、桜はばつの悪そうに眉を下げて椿を見た。


「この間は本当にすまなかった。椿の気持ちも知らずに……一方的に怒鳴ってしまった」
「……そん、な、桜は、悪く……」


急なことに感情の処理が追い付かず、言葉をもたつかせる椿。
ふと零を見ると、口元を緩めてこちらを見ていた。
学校に言っている間、零の方から桜に口添えをしたようだ。


「事情があるのは分かった。でもいつか、感情を取り戻せるよう……私が椿を助けてやるぞ」
「……桜……」
「そのためには、もっともっと仲良くなるのだ!感情を曝け出したいと思うようになるまで、存分に仲良くなるがいいよ!」


ぱあっと眩しく見える桜の笑顔。
それをじっと見つめた椿は、心がなんだかじゅんとなったのを感じた。


「ったく、相変わらず桜チャン理論は難しーネ」
「桜小路らしくて面白いな」
「俺も『ひめまる』と仲良うなるしー」
「私と久留須さんはとうにベストフレンドですがね」


怪しげな笑みを浮かべた平家に、刻が呆れたような顔をしながらも食いつく。
そんな賑やかな空気になると、桜も嬉しそうな顔になり再び椿を見つめた。


「椿、山には行ったことがあるか?」
「……ない」
「そうか。着ぐるみのままだと暑いだろうからな、対策はちゃんとするのだぞ」
「……大丈夫。通気性、良好」
「それならいいのだ。他の荷物は、あとで一緒に準備をしような」
「…………、うん」


自分が大好きな笑顔を桜が浮かべてくれているというのに。
椿の心は無意識のうちに締めつけられていた。
それはきっと、他の皆も同じ。
こんなにも楽しそうにしているというのに。
叶わない明日への希望を抱いているというのに。
今の椿は、それを共に喜ぶことができない。
桜を裏切るような行為は椿にとって初めてで、こうも心臓が裂かれるような胸の苦しみは。
理性を持ってしても、抑えられることはできず。
この感情がどういった名前のものなのかも、知ることはできなかった。





「いいのか、椿」
「………」


ほとんどの人物は寝室へと向かい、静かなリビングで一人座っていた椿。
そんな椿に声をかけたのは、泪だった。


「あれだけ桜小路のこと心配してたのに……」
「……これも、決意。桜を護るためにつながる」
「そうか……」


明日起こるであろう事柄を思うと、椿のことが心配になったようだ。
泪は少しだけ切なそうな表情で椿を見る。


「でもお前、今までずっと桜小路の傍にいただろう」
「………」
「何年も前から、気付かれないように桜小路を見守って……」
「泪」


それは言わないで、と制止するように椿は言った。
椿の意思を汲み取ったのか、泪は黙る。
今まで椿は知らなかっただろうが、泪は椿の秘密を一つ知っていた。
渋谷荘に来た時から、たまに姿の見えなくなっていた椿。
何度か跡をつけてみると……椿はいつも決まった人物を監視しているかのように、見守っていた。
それが、今この渋谷荘にいる桜小路桜だということを。
初めて気がついた時、泪の中の疑問は大きくなった。
そして桜と接している椿を見ると、その存在がいかに椿にとって大切なのかを。
他人である泪でさえ、強く実感した。


「……桜は私が一生護る。だけど、その前に……やるべきこともある」


椿は淡々と言った。
そっと、着ぐるみの頬を撫でるように触れる。


「『捜シ者』との、決別」


確かな意志が込められた椿の言葉に。
泪は不思議に思いながらも……それを邪魔することはできなくなった。
そして椿も、自分と同じ気持ちを持っている泪を、どこか悲哀のこもった目で見つめた。


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