「か、感情を……!?」


そんなことが可能なのかと桜は声を上げ、椿を見つめた。
だが目に映るのは、『ひめまる』の変わらない表情。
着ぐるみの下の素顔が一体どうなっているのか分からない。
椿と出逢ってからの、全ての言動が無機的であることは感じていた。
その理由がようやく垣間見えた気がして、桜は辛そうに顔を歪めた。


「椿ちゃんは今までずっと、理性から感情を分析し理解していた」


桜と同じくらい辛そうな表情で渋谷は椿を見つめる。
もっとも、その渋谷の表情も着ぐるみに隠れ誰にも知られることはないが。


「……なんで、そんなことせなあかんねん」
「それは言えない。とても大事なことだからね」


遊騎の疑問に、渋谷は首を横に振って答える。
続いて、零が口を挟んだ。


「それで……どうして、椿さんは発狂したんですか」


冷静とも取れそうな零の言葉だが、それは事態を把握したいという思いの強さからだろう。
刻もこういう場合は疑問を投げつけるような態度を取るが、今回はそのようなことはなかった。


「……感情とは本来、考えずして起こるもの。それを椿ちゃんは失い、『きっと今自分はこういう感情なのだろう』と自ら結論付けているからだよ」


説明を求める皆の視線を浴び、渋谷は目を閉じて話し出す。
まるで何かを思い出すかのように。ゆっくり、穏やかに。


「信号機の赤が止まれを意味するように、良いことが起きれば嬉しい、悪いことが起きれば悲しい……と、まるで知識のように感情を理解しているんだ」
「っそんな……!」
「今までの椿ちゃんはそうだったよ。何をするにも、一つ間を置いて行動していたよね」


渋谷は淡々と言う。
その言葉で思い返せば、椿は発言をする時も少し間を置くことが多い。
きっとそれは、相手がどういう感情で自分は今どういう感情であるべきかを考えて、言葉を探っていたのだろう。
本来、理性と感情は全く別物であるのに。
感情がないため……その全てを理性で補おうとしていた。
だんだんと椿の言動を理解してきた皆は、無意識に固唾を呑む。


「そうして感情のない生活をしてきた椿ちゃんだけど、どうしても本能は抑えきれないんだ」
「……本能?」
「いかにも。感情に左右されず、こうしたい・こうあるべきだと本能で思って行動することは椿ちゃんにもあるんだよ」


渋谷の言葉に、聞き返した泪は思い当たる節があるのか視線を逸らす。
そうだ、椿は発言こそ間を置いて考えてからすることが多いが。
行動は違うことが多かった。
先日刻と喧嘩をしてしまった時のことを思い出す。
あの時自分は関わってほしくなくて、すぐに渋谷荘から立ち去ろうとした。
だが、椿はそんな自分の腕を掴んだ。間なんてなかった。
そして強く、強く掴んでいた。行かないで、悲しまないでと言いたげに。
そのことを思い出した泪は思わず唇を噛む。


「感情、本能……それらが別々の動きを始めると、椿ちゃんはこうして自分の気持ちの処理ができなくなってしまうんだ」
「それはつまり、ジレンマを感じるようなことですか?」
「そうだね。極端な例を言えば、知識としての感情は『嬉しい』なのに、本能では『悲しい』と思ってしまう……とかね」


結局どちらの感情が正しいかは分からないけれど。
渋谷は心の中でそう言いながら話す。
極端な例、と言ったが……今の椿の状況はその通りだと渋谷は確信していた。


「ヘェ。それでオーバーヒートした結果がコレ……ってコトか」


刻はどことなく切なそうに椿を見つめた。
感情は理性で制御できたとしても、本能はそうはいかない。
それを理解した刻は、それこそ本気で、椿に人間性というものがないと分かった。


「……椿ちゃんが小さい頃はよくあったことだよ。最近はなかったから油断してた」
「小さい頃って……一体いつから、椿は感情を……」


眉を寄せ、問う泪。
渋谷はその言葉を聞き、少し沈黙する。
だが決意したように、口を開いた。


「5歳だよ」
「………」


零はふと、その言葉に引っかかりを覚えた。
5歳。それは桜が桜小路家に拾われた年齢だ。
それを思い出すも、すぐに関係ないだろうと結論を出し何も言うことはなかった。


「で、でも、椿は一生懸命私を護ろうとしてくれたぞ?」
「そうやな。『ひめまる』は『にゃんまる』に会うてからずっと傍を離れんかったで」


感情がないのなら、どうしてそこまで桜に固執したのか。
それを各々が疑問に思っているのか、再び渋谷に答えを求める。


「………それは、」


さすがにそれについては説明するのを渋っているように、渋谷は口籠る。
はっきりしない態度に、泪は声を荒げた。


「もうここまで話したんだ。ちゃんと最後まで話してくれよ!」


そうだそうだ、と同調するように桜と遊騎も真っ直ぐ渋谷を見る。
渋谷はしばらくその様子を見つめ、何か感じたように口を開いた。


「……君たちがそこまで椿ちゃんを心配するのは、どうして?」


問いに問いで返す渋谷。
ちゃんと答えろと反論したくなった泪だが、その答えは簡単に分かった。
焦らすなと言わんばかりに声を荒げて言う。


「そんなもん、椿が大切だからに決まってるだろ!」
「私も王子殿と同じなのだ!椿は大切だから、護ってあげたいのだ!」


桜も大きく頷きながら言った。
その言葉をしっかりと聞き届けた渋谷は、「それだよ」と小さく言う。


「君たちがそう思うのと同じ感情を、椿ちゃんはただ一つ残したんだよ」
「………というと?」


遊騎は理解できていないのか首を傾げて、より詳しい説明を求める。
それを受け、渋谷は遊騎だけでなく全員に向けるように言葉を告げた。


「桜小路さんを護りたい、という強い感情を」


そしてその言葉で、ようやく椿が桜の周りをひっついている理由が分かった。
あれは、椿の中の……唯一で確かな感情だったんだ。
全ての感情を失う覚悟があっても、それだけは失いたくないと願った感情だったんだ。


「……どうして、椿さんはそこまで……」


一度、本人にも言ったことのある疑問を呟く零。
だがそれは渋谷からも明確な答えを聞くことはできなかった。


「椿ちゃんにとって『どうして』の理由なんてないんだ。ただ、それだけが全てなんだから……」


締めを言うように最後に悲しそうに言い、渋谷はその場を去る。
椿の部屋から動かない、皆を残して。
意識を失ったのが幸いなのか、正常な呼吸をしている椿を見つめる彼ら。
その脳裏にはやけに、最後の渋谷の言葉が響いていた。


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