「う……っ」


桜の傍を離れる。
その結果を想像してすぐ、椿は小さく呻いた。
それが本望。念願。成功。満足。役目。覚悟。―――存在する、意味。
きっとそれが成されれば、自分は凄く嬉しい。
自分の生を全うできる一番の方法だと思うのに。

よろこばしい、すてき、まんぞく、このましい、すばらしい、うれしい。

そんな気持ちでいっぱいに満たされるはずなのに。
桜のために。大切な人のために。護りたい人のために。
それなのにどうして。心がこんなに痛むのか。

くるしい、つらい、ふまんぞく、いたい、せつない、かなしい。

―――――何故?


「あ……あ、ああ、あ、あああああああああああああっ!!!」


息ができずにもがき溺れてしまうくらいの苦しみが椿を襲う。
それは椿の喉を裂くような叫びとして、渋谷荘に響き渡った。
ぎゅうっと手を強く握り、肩で呼吸をする。吸って、吐いて、吸って、吐いて。
その行為ですら辛い。呼吸の仕方はどうすればよいのか。
分からないまま足掻くようにして、椿は胸を自分の手で掻き毟った。


「椿ちゃん!」


椿の叫び声を聞きつけて部屋に飛び込んできた渋谷。
蹲って苦しむ椿の姿を見て、慌てて傍に駆け寄る。
同じく驚いて走ってきた泪や、他の住人も椿の部屋に入った。


「おい椿!どうしたんだよ!」
「ああ、あ、ああああああっ……」


苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい。
そんな気持ちに苛まれたまま、椿は泪の腕に抱かれた。
泪は初めて見る椿の様子に心配しながら、何度も何度も椿の名を呼ぶ。


「く、苦しいのか?椿、何をそんなに苦しんでいるのだっ!?」


桜も急いで椿の傍に座り、胸を掻き毟る椿の手を強く握った。
その手が大きく震えていることにも気づき、ただ事ではないと感じ取る。


「一体何があったんですか、会長」
「……大丈夫。すぐに、いつも通りになるよ」


零の言葉に、少しだけ冷静になった渋谷が答える。
だがそれだけでは納得できていない刻と遊騎は首を振った。


「っでも、この様子尋常じゃネェヨ……!」
「そうや!『ひめまる』、めっちゃ苦しそうや……」


はあ、はあ、はあと大きく肩で息をする椿。
人形のような椿からは想像もつかない事態だった。


「と、とりあえず着ぐるみを脱ぐのだ!そうしたら、少しは呼吸も……」
「それはだめだよ、桜小路さん」


椿の様子を気遣って言う桜の言葉だが、渋谷はぴしゃりと否定した。
桜は何故かと眉を寄せて渋谷を見つめた。
その間にも椿は苦しげに呼吸を続けている。


「渋谷、こうなった今は着ぐるみなんか……」


一貫して反対する渋谷に、苛立ちがピークを越えたのか泪が低い声で言う。
だがその続きを遮ったのは、小さく呻く椿の声だった。


「さ……さ、くら……」


着ぐるみの中から漏れるようにして聞こえるその声に、皆が耳を澄ます。
そして名前を呼ばれた桜は、更に強く椿の両手を握って近付いた。


「な、なんだ、椿。何か辛いことがあったのか?」


そう言う桜だが、椿は首を振る。


「桜……さく、ら……さくら、ぁ……」


何か理由を言うわけでもなく、椿の口から紡がれるのは桜の名だけだった。
必死に、ひたすらに、一生懸命に。
ただ大切な人の名前を呟いた。
その様子を、渋谷と桜以外は目を丸くして見つめる。


「っどうしたのだ、椿!何が言いたいのだ?何を思っているのだ……?」


名前を呼ばれるだけでは、何を伝えようとしているのか分からない。
桜は悲しげに目を細めて椿を見る。


「……はな…れ……た…く……ない」
「え……?」


確かに何かを呟いた椿だが、その言葉は掠れて誰にも明瞭に聞こえることはなかった。
桜も何とか聞きとろうとするが、それは叶わず椿は眠るように意識を失った。


「椿……?椿!!」


辛そうに椿の名前を呼び続ける桜を、渋谷は切なそうな表情で見つめるしかなかった。
そして、どうして椿がこんな状態になってしまったのか。
考えることを必要とせず、すぐにその見当はついた。
管理人室での泪との会話を思い出す。
……桜の傍に居ると思って油断していた。
まさかこんな近くに、椿が居たなんて。
後悔の波が襲い立ちつくすままの渋谷に、泪は我慢できなくなったように言った。


「渋谷、もしかしてこれは、椿の異能に関することじゃないのか……!」


意識を失ったため、だらんと全身の力を抜いている椿を抱き抱えている泪が強く言う。
尋常じゃない椿の様子に形振り構っていられないのか、泪は渋谷を睨むように見た。
その言葉に驚いたのは、渋谷以外の全員だった。


「い、異能……!?」
「椿さんは……異能者だったんですか?」


予想できなかった言葉に、刻はあからさまに驚いた。零も問う。
泪と渋谷以外知ることのなかった事実が露見された。
できれば、隠し続けておきたかったことだろう。
以前泪に脅され、渋々と異能を持つことを語ったことのある渋谷。
その時は極秘だと言ったのに。あっさりとばらされてしまった。
だが、そのことを悲観に思うことも焦燥することもなく渋谷は頷いた。


「いかにも。椿ちゃんは正真正銘、異能者だよ」


それは腹を決めた、覚悟の一言だった。
一人で苦しみと闘う椿に、心の中で謝りながら。


「そんな……椿が……大神たちと同じ、異能者だと……」


一番驚いているのは桜だった。
目の前で苦しむ椿と、コードブレイカーの皆、そして渋谷を切羽詰まった様子で見回した。
桜に気付かれてしまったことを悲しく思いながらも、渋谷はこちらを真っ直ぐ見つめる皆に言い放った。


「そうだよ。異能は『無』。物体や衝撃などを全て『無』に返すことができる」


もう誤魔化しは効かない。
真剣に言う渋谷の言葉には、迷いなどなかった。
そしてそれは零たちも感じているのか、何も言わずじっと続きの言葉を待っていた。
自分と同じように真剣な表情をしている皆を渋谷はしばらく見つめ、大きく息を吸った。


「そして訳あって、今椿ちゃんはその異能で自分の感情を『無』にしているんだ」


その言葉は、その場に居る誰にとっても衝撃的な言葉だった。


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