出逢い(6) 「壱加、もう練習は終わったぞ」 練習のせいか暑さのせいか、額や首筋に汗をまとわせた跡部が部室のドアを開けながら言う。 クーラーの効いた部室内の空気に触れ、「くあー」「ひやー」と間の抜けた声を出す向日は芥川は跡部に次いで我先にと部室に入ってきた。 「あっ、皆!おかえりなさい!」 そんな皆の帰りを待っていたのは、ソファで大人しく座っていた壱加。 どうやら皆が来るまではその隣に樺地も座っていたらしいが、跡部が入ってくる前に立ち上がっていた。 「ん?なんや、壱加ちゃん機嫌ええなぁ」 最後に入ってきた忍足がドアを閉めて微笑み言う。 すると壱加はにこっと端麗な表情に合わない、子供っぽさを感じさせる無邪気な笑顔を見せた。 「うん!今までずっと、部室の窓から皆のテニスを見てたんだけど……」 拳を作り立ち上がる壱加。 練習の為に部室を出る前とは全く違う態度に、宍戸や日吉は不思議に思っている。 跡部は汗を拭いながら、壱加の話に耳を傾けた。 「なんだか、凄かったの!隣で崇弘くんがテニスについて詳しく教えてくれて、皆がすごく強いってことが分かったよ」 「お、よくわかってんじゃん。その通り、俺は強いぜ!」 「……だから自分で言うなよ、岳人」 えっへんと腰に手を当てて偉そうに言う向日に宍戸が呆れたように言う。 だが壱加にとっては事実らしく、向日の言葉に大きく頷いた。 「岳人くんは、高くジャンプしてたよね!」 「おう!アクロバティックは俺の十八番だぜ〜!」 「遠くから見ててもすごく分かりやすかったよ!私より小さいのに、すごい!」 「うぐっ……」 小さいと言われて素直に喜べなくなってしまった向日。 そのやり取りを見て、宍戸がぷっと堪えられなくなった笑いを声に出す。 元々堪える気はなかったようで、向日に睨まれている。 「壱加さん、テニスを好きになってくれたんですね」 「うんっ。仁菜ちゃんと珊里ちゃんが言ってた通り、皆のテニスは本当に凄い!」 「……壱加さんは……ずっと、キラキラした目で……見てました」 鳳が嬉しそうに言う言葉に、壱加はにこりと頷く。 その言葉を裏付けるように唯一傍に居た樺地がそう言葉を添えた。 「ふん、俺様のテニスを見て魅了されねえ奴がいるわけねえからな」 どこか機嫌のいい跡部が鼻を鳴らしながら言う。 「どこからくんねん、その自信。でもまぁ、壱加ちゃんが笑顔になってくれて嬉しいわ」 自分もにこにこしながら、壱加の頬に手を添える忍足。 「ほんま、子供みたいに純粋やなぁ。泣いたり笑ったり、忙しい綺麗な顔やな」 「………?」 「ちょっと忍足!近すぎだC!」 「忍足さん、ちょっと壱加さんより年上に見えるからって調子に乗りすぎです!」 「……鳳?それちょっと貶しとるで?」 ぷんぷんと怒りを表す鳳の言葉に忍足がそっと胸を押さえる。 壱加はというと、鳳に手を引かれ忍足から少し距離を置かされた。 「ったく、侑士はそういうとこが駄目なんだよ」 「だ、駄目呼ばわりせんでも……ほんまのことやん。俺らのテニス見て、こない喜んでくれるなんて嬉しいやん」 その言葉には、誰も否定的な意見を言わなかった。 どうやら満場一致の感情のようだった。 「確かに、嬉しいです。最初あれだけ不安がって泣いていたのに……もう、笑ってくれて」 「……あ、えっと……私、泣き虫、みたいだから……」 それについては初対面から申し訳ないことをしたと、壱加は人差し指を突き合わせながら俯く。 「んなこと全然悪いことじゃねえって!それも、立派な個性だろ?」 「………個性?」 「ああ。そんなに気にすることじゃねえよ」 にっと笑いながら、ごく自然と壱加の頭を撫でる宍戸。 自分でも数回撫でておきながら、はっと気付いたようにその手を引っ込める。 「あああ悪い!子供扱いみたいにしちまって……。なんか、つい年上だっつーの忘れちまうんだよな……」 「ぎゃはは!宍戸激ダサー」 「ったく、相変わらず馬鹿みてえな野郎だな」 向日には指を差されて笑われ、跡部には呆れられた宍戸。 だがこればかりは仕方が無いと思っているのか、何も反論できなかった。 「………子供、扱い」 「あーあ。宍戸のせいで壱加ちゃん傷ついてもうてるわ」 「大丈夫ですか?壱加さん」 小さく呟いた壱加を見て、忍足が口を尖らせて言い、鳳が心配そうに顔を覗き込む。 うぐっ、と更に何も言えなくなる宍戸だったが、 「ううん、私、嬉しいよ」 急に壱加が抱きついてきたために「!?」と声にならない叫びをあげる。 壱加からスキンシップをするとは思わなかった皆は思わず目を見開いた。 「頭撫でられるの……あんまり、されたことなかったから……。すごく、嬉しい」 「壱加……?」 どこか、落ち着いた……寂しさも感じさせるような声で言う壱加。 不思議に思った宍戸だが、甘えるように頭をぐりぐりとする壱加に思わず眉を寄せる。 「よ、よせ……お前の身長差だと、丁度俺の肺を潰してる……っ」 意外と強い力だったため、だんだんと抱擁が苦痛へと変わっている。 「壱加、」 嬉しそうに宍戸に抱きついていた壱加だが、跡部がその肩を掴みそう声をかけた。 それに気付き、ふと振り返った壱加。跡部の真っ直ぐな瞳を一身に受ける。 「………。そろそろ帰るぞ。着替えるから、隣の部屋に移れ」 「あ……う、うん……」 跡部自身は普段と変わらない態度で言ったつもりだが、壱加は少し怒られたと感じたのか、しげしげと視線を落とす。 はっとそのことに気付いた跡部は、困ったように眉を寄せたが、 「……別に怒ってるわけじゃない。早く、お前を家に案内したいだけだ」 と弁明するように言う。 そんな跡部の言葉に、自分が受け入れられていると気づいた壱加はぱあっと顔を明るいものへと変えた。 「うん、わかった!」 表情は、まるで子供のように純粋に、無邪気に、明るい。 だが発せられる声は落ち着きのある、しなやかな伸びのある声。 そのギャップを残したまま、壱加は隣の部屋へと移動した。 そして、残された面子と言えば。 「………嫉妬やな」 「………嫉妬か」 「………嫉妬ですね」 「おいそこ、何を言ってる」 こそこそと呟いたのは忍足、向日、日吉だった。 どうやら跡部が宍戸から壱加を引き剥がした理由について話していたようだ。 「ふっ………下剋上のチャンス来たり」 「おい日吉、その拳を引っ込めろ」 にやりと笑ってぐっと密かに拳を作った日吉に跡部がぴしゃりと言う。 そしてくだらないと言いたげに視線を自分のロッカーへと向け、着替えを始める。 「俺はいい加減着替えて帰りたかったんだよ」 「ふうーん?それにしては切羽詰まっとったんちゃう?」 「アーン?それはお前の眼鏡がおかしいからだろ」 「いや、俺にもそう見えました!」 「………お前は黙ってろ」 きっぱりと言った鳳に、額を押さえたくなるのを押さえ、溜息をついた跡部。 「いやつーか、跡部が嫉妬とかありえねーだろ。あの跡部だぜ?」 「そうだC〜!どうせいつもの、突然☆不機嫌☆タイムだC〜」 「なんだその不愉快な名前は」 からかうように言われた芥川の言葉に、跡部が更に眉を寄せて言う。 それをきっかけに、忍足や向日も冗談のノリに戻り、楽しげに着替えを済ました。 そして、 「壱加、もういいぜ」 全員が着替えを終えたところで、跡部が代表として壱加を呼んだ。 呼ばれると、すぐに部屋に入ってきた壱加。 「わあ……制服を着ると、皆すごく大人っぽいね」 服装が違うだけで、皆が少し違って見えるのか、少しばかり楽しそうに皆を見渡す。 その表情を微笑ましげに見つめながら、鳳が口を開く。 「きっと壱加さんにもよく似合いますよ。明後日が楽しみですね」 「………う、うん」 明後日。 自分が学校に行く姿を想像してしまったのか、壱加は若干物憂げな表情を浮かべた。 だが、そんな壱加の気を紛らわせるように跡部が壱加に声をかける。 「そんなことはその時に考えろ。今はほら、早く帰るぞ」 言葉だけでも、その力強さに引っ張られそうになる跡部の言葉。 それを聞いて壱加も気を落ち着かせたのか、にこりと薄く笑った。 「じ、じゃあ……皆、帰ろう……」 「………おい、どうしてそんなに震えてんだよ」 帰ろうと言いつつも、一歩も動かない壱加を見て宍戸がジト目で言う。 その指摘に、壱加は思わず樺地の後ろに隠れる。 「ちょっとまだ……怖くて。……ね、崇弘くん」 「ウス」 「……随分と樺地に懐いてますね」 意外そうに、だがなんとなくウマは合いそうかと結論づけた日吉が言う。 「ああでも、分かる気ぃするわ。ほら、言うやん?子供は本能で良い人が分かるって」 「……まだ壱加さんを子供扱いするんですか」 「気持ちは分かるけどよ、単に練習の間一緒にいたからじゃね?」 忍足の冗談にも聞こえる言葉に日吉は眉を寄せ、向日は口を尖らせて言う。 気持ちは分かっちまうのかよ、と後ろで宍戸が呆れていた。 「樺地のことを嫌う奴がいるわけねえだろ」 「やから、自分はどんだけ樺地を過信しとんねん」 至極当然のことを言うような態度の跡部に思わずつっこむ忍足。 どうやら樺地に懐いていることは良いことだと思っているようだ。 「崇弘くんは優しい、から……。練習の間もずっと、私を落ち着かせてくれた」 「(あの樺地が!?)」 「(練習の間ずっと!?)」 その言葉を信じられなさそうに向日と宍戸が心の中でそう思った。 「……人がいっぱいいるところは、苦手だから……」 悲しげに目線を下に落としながら言う壱加に、全員が注目する。 最初はただの人見知りかと思っていたが、ここまでくるといきすぎというか、重症のような気もする。 まあ、ただ単にそういう性格なだけだろうと、この時は互いに顔を見合わせた。 「それなら平気やで。準レギュたちが着替えとる場所は離れとるし、休日やから他の生徒はおらへん。外見てみ、誰もおらへんやろ?」 忍足が優しく言い、窓の外を見るように促す。 壱加が震える手で樺地の服の裾を握ったままなのに気付き、樺地も付き添うようにして窓まで行く。 そして外を見る。確かに、そこには人がいない。 「………ほんと、だ」 「それに、例え怖いことがあったとしても俺たちが壱加さんを守りますよ」 にこっと鳳が柔らかい笑みを壱加へと向ける。 その表情、言葉に嘘がないとすぐに分かった壱加は、つられるように同じ笑みを浮かべた。 「……うん。ありがとう。私……頑張る」 口元を引き締め、意気込む壱加。 まだ樺地にくっついたままだが、そこはまあ大目に見ることにした皆。 「ま、校門までの距離だ。そう気にすることはない」 「校門まで……?」 「あー……」 跡部の発言に、壱加は首を傾げる。 そして何かを察した向日が、小さく声を漏らした。 「壱加、俺の家までは車だ。人目を気にすることなんかない」 跡部が徒歩で帰るということが、とんでもなく有り得ないことだったからだ。 樺地に隠れるようにして部室を出て、校門へと歩く壱加。 自然と、その周りを囲うようにして歩いている皆には、その姿が小動物みたいで可愛らしく見えてしまっている。 「壱加、あれだ」 校門を出た所で、跡部がそう声をかけた。 視線の先には、黒くて長い、いかにも高級そうな車。 「………」 予想もしていなかった車に、思わず目を点にする壱加。口も、ぽかんと開けてしまっている。 「ま、驚くのも無理ねえよな、ベンツなんてそう見るもんじゃねえし……」 宍戸が頭を掻くが、次の壱加の発言は斜め上を行くようなものだった。 「あんなに長い車があるんだね!すごい、初めて見る!ね、ね、あれ全部座席なの?」 初めて見る物に対しては興味をそそられるのか、壱加が目を輝かして跡部に聞く。 その態度に、今度は皆が口をぽかんとする番だった。 「……壱加さん、ベンツ、知らないんですか?」 「?べんつ、って言うの?」 ベンツを見たことがないならまだ分かるが、知らないとなると少しばかり驚いてしまう。 「すごい真っ黒で綺麗な車だね!」 はしゃぐ壱加が車に近づくと、待機していた黒服の人物が颯爽と現れ、車のドアを引く。 急に現れた黒服に目に見えて委縮した壱加は、逃げるように樺地の後ろに隠れた。 「……ったく。壱加、これからは毎日これで通学するんだぜ?慣れろ」 「うう……」 呆れたように言いながら壱加の手を引く跡部。 ずっと樺地の腕を掴んでいるため、必然的に樺地も壱加に引っ張られる形で車に乗り込んだ。 元より、跡部と樺地は共に登下校しているらしいから結果オーライなのだが。 「……なんか、変なやつだな」 ベンツが走り去り、壱加が居なくなった途端、静かになった空気。 ぽつりと呟いたのは向日だった。 「せやな。明日から楽しみやわ」 「そうですね。なんだか、お姉さんができたみたいで嬉しいです」 「……俺には長太郎の方が上に見えるぜ」 鳳以外の全員が宍戸の言葉にうんうんと頷く。 そしてベンツが曲がり角を曲がったところで、彼らも帰り道を辿ることにした。 |