あれから俺は必死になって千鶴の名前を呼び、ナースコールを押した。
だけど千鶴は目を開けてくれなかった。
ただの気絶だって分かってる。
でも俺には、もう二度と目を開けないんじゃないかと不安でいっぱいだった。

「……初めて、こんなに人を愛しいと思った」

その言葉は純粋に嬉しかった。
でも、できれば聞きたくなかった。
もしこれから……千鶴の口から、二度とその言葉をきけなくなると思うと、怖い。
怖くて身体の震えが止まらなくなる。
……なんて、弱すぎだろ、俺。
千鶴は必死で頑張ってるっていうのに。
この15年間、一人で。

「千鶴!千鶴っ!!」

俺は千鶴の名前を呼ぶことしかできないなんて。

「愛してくれてありがとう。でも、すぐ、別れがやってくるから……」

どうして俺は気付いてあげられなかったんだ?
千鶴の体なのに。
千鶴が一番に自分の体のこと知ってるのに。
俺は……馬鹿だ………。

一人で項垂れながら千鶴の病室の外に居ると、幸村が来た。


「ブン太、千鶴ちゃんが倒れたって……」
「ああ…。……幸村、俺、どうしたらいい?」


幸村の優しい表情を見ると、弱音を吐き出したくなる。
やっぱり、俺一人では何もできない。


「ブン太……」
「俺、馬鹿なんだ……。全然、千鶴の気持ちを分かってやれなくて……」
「………ブン太は十分頑張ってるよ。千鶴ちゃんも、最近は笑顔増えてるし……」


幸村は俺を安心させる為に、優しく笑った。
その優しさは嬉しい。
だが、どうしても俺の中の不安がどいてくれない……。


「ブン太の気持ちも分かるよ。……でも、俺は言ったよね?覚悟が必要だって」
「………」
「……もう、医師に言われた日まで、一週間しかないんだ」
「……………っ」
「それは、ブン太も千鶴ちゃんも、分かってるよね?」


俺は小さく頷いた。
俺たちは、日に日に千鶴との距離を埋めていった。
だが、それが逆に切なかった。
どんどん別れが近づいていること、知らない振りをしていた。


「……だったら、最後まで笑顔でいてあげて」
「………え、」


初めて、幸村の弱い声を聞いた。
………そうだ、幸村だって辛いんだ。
きっと、この病院でお互いに励まし合ってたんだ。


「千鶴ちゃんを、最後まで……幸せでいさせてあげて、」


俺は強く頷いた。
俺に出来ること。
それは……、
千鶴の傍で、笑ってあげること。


「あ、丸井くん……」


それからしばらくして、病室から看護師さんが出てきた。
俺と幸村は立ち上がる。


「あのっ、千鶴は……」
「千鶴ちゃんなら安心よ。少し、小さな発作が起きただけ」


看護師さんは優しく微笑む。
俺は少し気が楽になった。


「そうですか……。明日から面会はできますか?」
「幸村くん、貴方もいたのね。……ええ、もう普通に話せるし、今日一日安静にしたら明日からまた会うことができるわよ」
「ありがとうございます」


幸村が丁寧にお辞儀をする。


「ふふ、それに……今は、誰にも会わない事が、千鶴ちゃんにとって一番辛いことかもしれないしね」


それでは、と看護師さんは俺たちの前から立ち去った。
俺たちは看護師さんが残した言葉に、何も言うことができなかった。
しばらくして、幸村が口を開く。


「……じゃあブン太、今日のところはもう帰った方がいいよ。また明日、おいで」
「………ん、分かった」


俺はドアの向こうに居るだろう千鶴を思い浮かべ、病院から去った。





次の日、俺は当り前のように病院へ向かう。
今日から千鶴に会えるはずだ。


「………」


千鶴の病室の前に立って、少し呼吸を整える。
少し、緊張する。
何度か深呼吸をし、扉をノックした。


「……どうぞ」


中から聞こえたのは、幸村の声だった。
俺は扉を開く。


「……幸村?」
「ブン太、はい、ここに座りなよ」


入ると、幸村が微笑みながら隣にあるパイプ椅子に触れる。
俺は促されたまま、椅子に座った。


「………ブン太…くん?」
「千鶴……」


千鶴はベッドで身体を横にしたままだった。
いつもは上半身は起こしているのに。
それに、口元には……呼吸を手伝うものだっけ?淡い緑色のマスクをつけていた。


「……昨日…は、ごめんね……」
「っ千鶴が謝ることじゃねぇよ……!」


俺は千鶴のその姿を見て、他に言葉が出てこなかった。
元気そうでよかった。
無事でなにより。
また会えてうれしい。
どの言葉も、無神経な言葉だった。


「………ブン太、」
「…なんだ、幸村」
「今日は……立海の皆にはお見舞い、遠慮してもらうよ」
「っえ……?」


俺が疑問符を浮かべていると、幸村は耳元で、


「これからは、二人の時間を大切にして。……精一杯、千鶴ちゃんを愛してあげて」


震えて……今にも、泣きそうな声をしていた。


「っゆき……」
「じゃあ、俺はこれから検査があるから」


幸村は微笑むと、静かに病室から去って行った。


幸村が出て行ったあと、訪れる沈黙。
俺は、何を話していいのかわからなかった。


「……ブン太くん…」


千鶴が俺に手を伸ばす。
俺はその手を強く握った。


「……どうした?千鶴、」


顔を近づけると、千鶴は俺に握られている手を支えに、上半身を起こそうとしていた。


「む、無理するなよ、千鶴……」
「……無理なんて、してないよ…」


千鶴は大丈夫、と笑顔を見せる。


「っだめだ!無理するんじゃねぇ!」


俺は初めて、千鶴に対して怒鳴った。
言って……すぐ後悔した。
千鶴の哀しい顔を見て、
俺は何か言葉を探した。


「……そ、その……悪い……」
「………ううん、気にしてないよ。……ブン太くんは、私の事を心配してくれてるんだもん」


俺の馬鹿。
千鶴を余計に気を遣わせてどうするんだ……!


「千鶴……」


俺は千鶴の頬に触れた。
少し、冷たい。


「………ブン太くん、そんな顔しないで」


千鶴は切なそうな顔で俺を見た。


「………、悪い」


笑顔でいるって決めたんだ。
だめだ、ちゃんと笑わないと。
千鶴を安心させないと――――


「……大好きだよ」


思わぬ言葉に、俺は伏せていた目を千鶴に向ける。
千鶴は、とても綺麗な微笑を浮かべていた。
……この顔が、もう自分の死期を悟っているような顔には到底見えなかった。


「千鶴……俺も、愛してる……。愛してるんだ……」


俺は頬にある手を髪へと動かし、少し指に絡ませた。
生きてるんだ。
千鶴は今、生きてるんだ……。
俺たちと同じように言葉を口にして、
同じように笑えるんだ。
それは、これからもそうしていいはずだろ……?

お願いだ、神様。
千鶴の命を奪っていくなよ――――


「……っブン太くん……」
「?どうした……?」


千鶴が、眉を寄せて、苦しそうに……俺を見た。


「……お、ねがいっ……」
「お、おい、千鶴……?」


千鶴は両手で、俺の体に触れようとする。


「私をっ……強く……抱き締めて……!」


涙ながらに、訴える千鶴。
俺は思わず言葉を失った。
千鶴がこんなに、
こんなに強く俺を求めてくるなんて。
嬉しいのに……何だ、この複雑な気持ちは。
やめてくれ……!

これが最期なんだと、思わせないでくれ――――――!!


「っ千鶴…!」


俺は千鶴を抱き締めた。
ベッドから起こさない様に、俺が覆いかぶさるような形で、だけど。
細くて、俺が本気で抱き締めたら折れてしまいそうな身体。
千鶴も、その細い腕で俺を必死で抱き締めている。

その姿が愛おしくて。
もっと
きつく
つよく
抱き締めたい―――

そんな気持ちが、俺の心を支配する。
だが、その気持ちも次の千鶴の言葉でかき消される。





「ブン太くん、―――――――――――――――キスして?」





俺は驚いて、一度千鶴から離れてしまった。
ぱっと見た千鶴の頬は、紅く染まっていて………。
マスクも、自分から取ってしまった。


「………お願い…です。私、もっとブン太くんを感じたいの……」
「千鶴……でも、」
「私、その……は、初めて……だから、……ブン太くんと、したいなって……」


急に恥ずかしくなったのか、千鶴は少し顔を背けた。
心なしか、目も少し泳いでいる。


「……わかった。……今だけ、お前を俺に独り占めさせてくれ………!」


千鶴の頬に再び手を添え、こちらへ向けさせる。
千鶴は一瞬俺の瞳をじっと見つめ、目を細めた。
俺も目を細くし、千鶴の薄く開かれた唇に自分の唇を当てた。
柔らかい。
俺もキスをするのは初めてだが、こんなに気持ちが高揚するものだなんて思わなかった。
初めは少し冷たさを帯びた千鶴の唇が、俺の温度が伝わったのか段々と暖かくなっていく。
俺はもっと、こうやって千鶴の傍に居たいと思った。
触れて、
キスして、
抱き締めて、
ずっと、このまま――――

俺はそうもできず、そっと唇を離す。
すると千鶴は目を開けて、切なそうに俺を見た。
もっと、もっととねだるような顔だった。
きっと俺も同じ顔をしている。


「このままずっと……時が止まってしまえばいいのに――――――」


千鶴の言葉を聞いた時、俺はまた、千鶴の唇に自分の唇を押しあてた。



そして、
これが、
最期のキスになるなんて―――――

俺たちは、思いたくもなかった。





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