千鶴side


「………なんだか、気まずいよ…」
「まだ言ってんのかよ。昨日決めたばっかだろ」


今日の昼休み。
また、切原は私を丸井先輩のいる教室へと誘う。
どうしよう……。
会いたいという気持ちは確かに強いけれど。
やっぱり、緊張する。


「お、赤也か」
「あ!ジャッカル先輩」


切原に手を引かれながら歩いていると、3年の人に声をかけられた。
この人、私は知ってる。
直接話をしたことはないけれど…丸井先輩のダブルスのパートナーの人だ。


「こんなところで何をしてるんだ」
「ちょっと丸井先輩に用があって」
「ブン太に?それだったら今は教室にはいないぜ」
「え?」
「仁王と確か、屋上で食うとか言ってたけど」
「ま、まじッスか!」


桑原先輩がそう言うと、切原は意外そうな顔をしてそう言った。
私も不安な気持ちになってその言葉を受け止めた。
やっぱり…私を邪険に思ってるんだ……丸井先輩。


「っ……あ、あー…教えてくれてありがとうッス!んじゃ!」
「あ、おい!」


そんな私の様子に気付いたのか、切原がそう言って無理矢理また腕を引っ張った。
桑原先輩は訳が分からなさそうな顔をしていたけど、切原はお構いなしみたい。


「……こんぐらいで、くじけんなよ」
「えっ…」
「丸井先輩は気まぐれだからな。今日は外で食べたい気分だったのかもしれねえ」
「………」
「こんなこと、よくあることだから…よ」


切原の顔は見えなかったけれど、背中が大きく見えた。
なんでこの人はこんなに優しい言葉をかけてくれるんだろう。
私の所為で…先輩との仲も気まずい状態なのかもしれないのに。


「………うん、そうだよね」


だから私もその切原の気持ちに応えるために、そう答えた。
今の私にできることは、切原に情けない顔を見せないことだけ。


「っし……千鶴、いいか?」
「う、うん」


屋上へと続く階段を上り、扉を目の前にしたとき切原は言った。
ただ扉を開けるだけなのに……なぜか私たちは緊張してしまう。
ガチャ。切原が扉を開けた。
一瞬にして綺麗な青空が広がる。
だけど私たちの視線は景色には向かず、目当ての人物を探し出す。
その人は、扉を開けて右側で腰を降ろしていた。


「丸井先輩みっけ!」
「………うぜえ」
「あーあ、見つかってしまったのう」


切原が元気そうな声でそう言って手を振った。
それに丸井先輩は目を逸らして、仁王先輩は少し面白そうに応えた。


「今日は屋上で食いたい気分だったんでな」


心配そうな顔をしている私を見て、仁王先輩は優しく言った。
その言葉で、私の心が少しだけ軽くなった。


「あ、珍しー。丸井先輩がもう弁当食べ終わってる」
「………」


切原が言いながら丸井先輩の横に置いてあるお弁当に目を向けた。
それについても丸井先輩は何も答えない。


「い……いつもは、たくさん食べるんですか?」
「………」
「……そうじゃな。丸井は普段はよく食う」


答えない丸井先輩を見かねて、仁王先輩が答えてくれた。
いっこうに、丸井先輩は目を合わせようともしてくれない。
それでも、私はくじけない。
支えてくれる人がいるから。
……それと同じように、丸井先輩にも…。
支えてくれる人が、たくさんいることを知ってほしくて。
一人で悩まずに、そんな人たちに……心を打ち明けて楽になってほしくて。
少しでも、前みたいな笑顔を取り戻してほしくて。
だから、私が、


「わ、私、けっこう家で料理とかするんですけど………よければ、今度何か…」


丸井先輩が笑顔になれるなら、何でもしてあげたい。
自分にできることなら何でも。
たとえそれが、先輩にとっていい迷惑でも。
笑顔になってくれるのなら。


「うざい」


その私の想いも気持ちも全部、丸井先輩のこの一言で崩れ去ってしまうけれど。
丸井先輩の一言のあと、一瞬時が止まったようだった。
私も、切原も、仁王先輩も。
急な出来事に反応することができなかった。


「なにお前、そうまでして俺の気を引きたいの?」


丸井先輩は、少し眉根を寄せて、茫然と立っている私を見上げた。
その顔は……とても怖かった。
私は怯んでしまい、喉から先に声が出なかった。


「練習見にきたり、食い物作るとか言って……そんなに自分を好きになってもらいたいかよ」
「ち、ちがっ……」
「何度も言ったはずだぜ。迷惑だって」


睨みにも似た視線を受けながら、私は思考を巡らせる。
丸井先輩を怒らせてしまったのかな。
何がいけなかったのか……私の、態度?
もしかして、気遣ってるような、媚びているような、そんな変な顔してたのかもしれない。


「っ丸井せんぱ…」


反論しようと言いかけた切原の腕に触れ、首を振った。
大丈夫。私の問題だから。


「………先輩、私は、」
「………」
「私は、先輩の笑顔が見たいだけなんです」


静かに深呼吸をして、


「丸井先輩が笑顔になってくれるなら、私は嫌われても構いません」
「…!」
「確かに、私は今でも丸井先輩のことが好きです。だけど……」


自分の胸に触れ、心を落ち着かせる。
そして、


「今の私は、丸井先輩が笑顔になってくれるのなら、それでいいんです」


精一杯、笑ってみせた。
私は先輩に遠慮なんてしていない。
気遣ってもいない。
ただ、純粋に……先輩を想っているだけなんです。


「っ………笑うな」


すると丸井先輩は、辛そうに顔を歪めて立ち上がった。


「どうしてお前はそう笑ってられるんだよ!」


そして怒鳴った。
拳を握りしめ、真っ直ぐ私を見て。


「おかしいんじゃねぇの…!?普通、自分を嫌いだ目障りだって言ってるやつに……!」


先輩は泣きそうな顔をしていた。


「そんなふうに、笑ってんじゃねぇよ…!!余計、苛々するんだよ!」


そう言い捨てて、その場を去った。
私は先輩の言葉のどれにも反応することができなかった。
私の心が…ついていけていなかった。


「丸井…!」


素早く去っていく丸井先輩の後を、仁王先輩が追っていく。
切原も気になって後ろを振り向いたが、すぐに私を見て、


「千鶴、おい、千鶴…!」


さっきまで丸井先輩の居た場所を見つめて立っている私に何度も呼びかけた。
肩を力強く掴んで。
それでも、私は、


「っ………!」


おかしいな。
もう、泣かないって決めたのに。
丸井先輩に何を言われても泣かないって……。
それなのに、こんなにも悲しくて辛くて……泣きたい気持ちになる。

私の心が、潰れてしまいそうになる――――

私は膝から地面に崩れ落ちた。


「っ千鶴!」
「………ごめん、切原…」


強く、私の肩を支えてくれる手。
何度も私の名前を読んでくれる声。
一瞬でも、その全てに包まれたくなった。
それでも…私の心だけは丸井先輩を見つめていて、余所見なんてできなかった。


「私、おかしいのかな……」


丸井先輩の目にはきっと、おかしく映っていたんだね。
私の笑顔が……。
一生懸命、見せた笑顔。
丸井先輩のために。
自分の気持ちを全部捨てて。
本当は、私だって悲しい。切ないし、苦しい。
丸井先輩の、私を不機嫌そうに見る目にも……耐えて……。


「ただ、笑って欲しいだけなのに……!」


そんな些細な願いさえ、叶えられないなんて。
もしかして、私の笑顔が丸井先輩からさらに笑顔を奪っていた?
自分にしつこくまとわりつく私の笑顔を見て……不快に、させてしまった?


「だから…無理をしてでも……私は、笑ったよ…」


だって、


「丸井先輩のことが、本当に好きなんだもん……」
「!」
「自分の感情なんか押し殺してもいいと思えるくらい、先輩のことが…!」


私の初恋の人だから。


「ただ一度でよかった…」


丸井先輩が、誰かに心を開いていいと思えるようになってくれるだけでよかった。
そうしたら……きっと、その人が丸井先輩の心を癒してくれる。
たとえそれが私でなくても。
私の存在が…何かのきっかけとなればと思って。
遠目で、もう一度あのきらきらした笑顔が見たかった。
入学式の当日、明るく私を導いてくれたあの笑顔のように。
丸井先輩は、多くの人を幸せにすることができるから。
だから丸井先輩にも、他の人と同じようにもう一度、


「笑ってほしい……!」


呟くと…ふいに、抱き締められた。
切原の……あたたかい腕の中に。


「千鶴……」
「……切原、私…やっぱり、強くなんかないよ」
「…?」
「もう、どうすることもできそうにない。あれだけのこと…言われちゃったら」


諦めたくない。
それが本心。
だけど……結局、私のような非力な存在では、丸井先輩を導くことなんてできない。
それが事実。


「もう、笑顔なんて…作れないよ……」


そう力無しに呟きながら、その時だけは切原のぬくもりに甘えた。





切原side


丸井先輩の言葉は、衝撃的といえば衝撃的で。
だけど、それ以上に驚いたのは、千鶴が自分で話をしようとしたこと。
その成長は……確かに、俺もすげえと思う。
なのに、どうして、千鶴の気持ちは伝わらねぇんだよ……!
どうして丸井先輩は素直に千鶴の気持ちを受け入れてくれないんだ?
確かに、俺たちも少し強引にしてしまったかもしれない。
だけど……それはどれも、千鶴の純粋な想いがあったから。
ただ丸井先輩の笑顔が見たい。
先輩の支えになりたい。
いつになく綺麗な表情で、そう言っていた千鶴なのに。

「そんなふうに、笑ってんじゃねぇよ…!!余計、苛々するんだよ!」

丸井先輩は、そんな千鶴の気持ちまで否定した。
千鶴が笑顔でいられたのは、先輩を支えたいという強い気持ちがあったから。
いつか見た、先輩の笑顔を自分の支えとしていたから。
その頑張りを、先輩は……根本的な部分から、崩したんだ……。


「千鶴……」


気付いた時には千鶴を抱き締めていた。
普段なら、軽いスキンシップくらいしかできないけど。
こういう時はやっぱり別だ。
俺だって千鶴を支えたいし元気づけたい。
千鶴は別におかしくない。
だけど……俺は、丸井先輩を悪いとも言えない。
あの人だけを責めるなんてこと、できないことはよく分かってる。
先輩の心にある傷は、一生かけても治すことのできない傷かもしれないから。
そんなことは百も承知だ。
だけど、俺だって考えることができるんだ。
先輩だけが笑顔でいられないなんて、そんなのおかしい。
無理して、自分から幸せを取り除いていく……なんて。
それが……真澄さんへの想いってやつなのかもしれねぇけど。
俺は、そんなの変だと思ってる。
だから俺も、丸井先輩には笑顔になってもらいたいと思ってる。
でも、

「丸井先輩のことが、本当に好きなんだもん……」
「自分の感情なんか押し殺してもいいと思えるくらい、先輩のことが…!」


そう考えている反面、俺の心には羨ましいという気持ちがたくさんあった。
千鶴に、そんな気持ちを抱かせることができるなんて。
どうして、近くに居る俺より、遠くに居る丸井先輩なんだ?
そう思ったことなんていくらでもある。
丸井先輩より俺の方が千鶴を傷つけなくて済む。
だけど、俺では千鶴を幸せにすることはできないから。


「千鶴は…頑張ってる……」
「……っ」
「俺が、いつも見てた」


だからせめて、こうやって励ますだけでも……。


「……授業、さぼろうぜ。気の済むまで……ここで、泣いていけよ」
「っう…、うぅ」
「俺がついていてやるから」


俺は「丸井先輩なんてやめて俺にしろ」なんて言わない。
言えないし、言いたくもない。
何よりも千鶴の気持ちを優先する。
………今なら、千鶴の気持ちがすっげぇ分かるな。
好きな人の為なら、何でもしてあげたいって……。
違う人のことを想いながら流す涙でも、拭ってやりたいって。
胸の中で思い切り泣かせてやりたいって。
そう思えるのは……俺も、本気の恋だったのかもしれないってことかな……。





丸井side


「どうしてあんなこと言ったんじゃ」


屋上を飛び出し、普段使われることのない教室に入った。
そして、ここまでついてきた仁王が切り出す。


「……別に、思った事を言っただけだ」
「ほう。だとしたら、丸井は嘘をつくのが上手くなったもんやのう」


………。
気に入らない。
仁王の、この俺の心を見透かしたような言葉が。


「あの二人は騙せても、俺は騙されんぜよ」
「………っだったら、どうすりゃよかったんだよ」


言いたくも、なるだろ。
笑うなって。
あいつの……笑顔が、
真澄に似ていると、一瞬でも思ってしまったら……。


「……ブン太、」
「……笑えんだろ?あいつの…あの言葉の時の表情が、」


「今の私は、丸井先輩が笑顔になってくれるのなら、それでいいんです」

そう、何か決心したようなあの微笑。
それが……


「真澄の、最期に見せた微笑に似てるなんてよ」
「…なんじゃと……?」


そうだ。俺は気付いていた。
真澄と秋月が似ているってこと。
あの時、真澄は自分が死ぬと分かって俺に笑顔を見せた。
そしてさっき…秋月は自分が俺に嫌われていると知りながら、あんな笑顔を見せた。
どっちも、真っ直ぐに俺を見つめて。


「……んな顔、見せんなよ…」


泣きたくなる。
秋月の顔に真澄を重ねてしまったことも。
ふいに…その笑顔に見惚れてしまったことも。


「俺は……真澄がいれば、」
「また、その嘘をつくんか?」
「っ嘘なもんか…!」
「いや、嘘じゃ」


きっぱりと言う仁王に、俺は頭にきて睨むようにして見た。
それでも仁王は表情を変えず、


「お前さんは、想い方が下手なんじゃ。そうすれば自分は納得できるんか?」
「……ああ、そうだよ」
「違うじゃろ?本当は、愛されたいくせに」
「何…!?」
「3年間の付き合いじゃ。それくらい分かる。真澄と過ごした日々みたいに……また笑いたいと思ってるって」
「っ……」


俺は仁王から目を逸らした。
とっくに、午後の授業が始まるチャイムが鳴っていた。


「だが……お前さんも純粋じゃからな。真澄への罪悪感があるんじゃろ?いやむしろ、今のお前さんにはそれしかない」
「んなこと…」
「罪悪感がなければ、とっくに笑えてるはずじゃ。俺たちとも、今まで通りやってこれたはずじゃ」
「……!」


………仁王の言っていることは、確かに正しい。
俺だって、笑おうと思えば普通に笑える。
小さい頃……大好きだったばあちゃんが死んだ時だって、葬式が終わった頃には普通に友達と遊んでたように。
だけど、今回のこれは違う。
真澄は……俺と出逢うまで、本気に人を好きになったことなんてなかった。
友達だって、そういなかった。
一人だったんだ。
俺しかいなかったんだ。
だから……


「俺は……真澄を一人になんてできねえ」
「っブン太!」
「ついてくんな!」


珍しく声を荒げる仁王に背を向けたまま、俺は廊下を走り抜けた。
どこに足が向かっているのか分からない。
ただ、俺は、気付きたくなくて。
何かに……。
だから逃げるようにして、仁王の前から去ることしかできなかった。





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