試合が終わり、ユニフォームの袖部分で伝う汗を拭っていると、誰かが駆け寄ってくるのが気配で分かった。
まあ、それが誰かなんて見るまでもなく分かった。


「お疲れさま、亮くん」


両手でタオルを何枚か抱え、俺の目の前で優しく微笑んだ未胡。
俺もどこか緩んだ顔で、未胡を見つめ返す。


「さんきゅ」


そして言いながら、未胡の手にあったタオルを一枚取った。
横から長太郎や、岳人や忍足もそのタオルを受け取る。


「長太郎くんも、すごく強くなったね」
「俺はそんな……宍戸さんの迫力のおかげですよ」
「ちぇっ、確かに宍戸の執念深さには驚いたけどよ……」
「岳人、自分が大袈裟なくらい油断しとんのがあかんねんで」


にこやかに答える長太郎に、不貞腐れたように言う岳人、はぁと大きな溜息をつく忍足。
態度は様々だが、どこか試合に対する達成感を持っているような表情だった。


「ま、悪くはなかったんじゃねーの」


腕を組みながら、何故か偉そうに言っている跡部。
その何様かというお出ましに、俺は眉を寄せた。


「んだよ、見てたのか」
「ふん、気付いてたくせによく言うぜ」


確かに跡部が途中から試合を見ていたことは知ってた。
未胡を見た時、隣に跡部もいたからな。おまけみたいなものだ。


「だが、まあこれで監督も納得してくれるだろうよ」
「跡部……」
「何せ、ウチのダブルス1の奴らを倒したんだからな」
「うっ……」
「……跡部、そうグサッとくる良い方やめてや……」


にやりと笑いながら横目で忍足と岳人を見る跡部。
……確かに、ウチの名ダブルスと言えばこの二人だからな。
油断していたとはいえ、部員たちの前でこうして負けたとなれば、榊監督も……。
っと、憶測で物事を考えるのはやめよう。俺の悪い癖だ。


「でも、皆すごかったよ。こんなにドキドキする試合初めて見た」


まだ興奮が冷めないのか、満面の笑顔を浮かべて胸のあたりで両手を握る未胡。
その表情を見て、跡部も毒づくのをやめた。
心なしか、傷ついていた忍足と岳人の心も癒えたように表情を緩めていた。


「そりゃあ、嬢ちゃんにとっても大事な試合やもんな。宍戸が完全復活できるかどうかの」
「っ……そ、それは……」


忍足が見慣れた怪しい笑みで言うと、未胡は何やら口をもごもごとさせた。
若干、頬が赤くなっているようにも見える。
その妙な未胡の表情を見て、俺は首を傾げた。


「?まあ確かに、未胡には心配かけたもんな……」
「せやなぁ。やからちゃんと、お礼とかごめんとか言わなあかんで」


ポンポンと肩に手を置きながら言う忍足。
俺はわかってるとその手を振り払った。


「ほなら、岳人は向こう行こかー」
「は!?なんだよ、俺はまだ未胡と話した……」
「俺が聞いたる」


訳が分からず連行されそうになっている岳人を、忍足は背中を押して移動させる。
なんだ、急いでんのか?よくわかんねえけど、とりあえず俺はそれを見送った。


「………あ、じゃあ俺も。水飲んでこようかな……」


取り残された俺たちのうち、長太郎も何やら落ち着かないようにきょろきょろ視線を働かせながら呟くように言った。


「なんだよ、ドリンクならベンチにあるだろうが」
「え、あ、えっと……ちょうど、顔とかも洗いたいので、水道行ってきます……」


俺でも不審に思うくらい言葉を詰まらせながら、長太郎は逃げるようにこの場を去った。
なんだ?試合で疲れてんのか?


「さてと、俺も部員共に指示出してくるか。おい宍戸、今日はもうゆっくり休んでていいぜ」


わざとらしく動き出した跡部。
何故か、ゆっくりの部分だけ強調して俺たちを後にし、テニスコートに入っていった。
はあ……あいつも、まあいつものことだけどよくわからん奴だな。


「……もう、皆して……………ううん、亮くんが特別鈍感なのかも……」


首を傾げながら跡部を見送っていると、未胡が何やら呟いた。
だが俺にはしっかりと聞こえず、くるっと未胡へ視線を移すと、未胡は誤魔化すように笑って何でもないよと言った。


「ここじゃあ暑いし、ベンチに行こう?」
「ああ、そうだな。あっちなら日陰だし、日焼けも気にしなくていいか」


日焼けしないため、未胡は外に居る時はなるべく日陰にいるようにしていた。
……まあ、それは過保護とも言える跡部の言いつけなんだけど。
俺も未胡の綺麗な肌が日に焼けるのはあまり良い気がしなかったから、なんとも言わなかった。
ベンチまで来ると、未胡はすとんと座る。
そして自分の隣をぽんぽんと手で触れ、俺に座るように促す。
その気遣いを素直に受け取り、俺はゆっくりと腰かけた。


「でも……本当にすごいよ、亮くんたちは」


先に口を開いたのは未胡だった。


「ダブルスを練習してまだ数週間なのに……正レギュラーの、侑士くんと岳人くんのペアに勝っちゃうなんて」
「ま、あれだけ練習したしな……。それに、あいつらも油断してたみてえだしな」


嬉しそうに言う未胡に、俺は遠くのテニスコートを見ながら言う。
今は跡部の指示で、準レギュたちが試合形式の練習を行っていた。


「だけど、次試合しても絶対俺たちが勝つ。今度はあいつらが最初から全力できても、勝つ自信がある」


それは今の試合に勝ったという経験による自信だけじゃない。
長太郎とのダブルスの手応え、自分の役割、特訓の成果……それらを踏まえて言える、俺の自信だった。


「うん………私も、そう思う」


優しい声音で言う未胡が俺の横顔を見つめていることに気付き、俺もふと未胡を見る。
綺麗で澄んだ未胡の瞳と目が合った。


「私、本当に嬉しいよ。あれだけ、凄まじい特訓をした亮くんが報われて……本当に、安心した」


目を閉じて笑う、未胡の綺麗な微笑に俺は目を奪われた。
ちょうど風も吹いて、未胡の細い髪を揺ら揺らと揺らす。
まるで俺たちが初めて会った、あの桜の木の下での光景とよく似ていた。


「………亮くん?」


ぼうっとしている俺に気付き、未胡が不思議そうに首を傾げる。
我に返った俺は、自嘲気味に笑った。


「いや、なんでもねえ。……ちょっと、俺たちが初めて会った時のことを思い出したんだ」
「えっ……初めて、って……」


その言葉に、未胡は驚いたように目を見開いた。


「そんなに驚くことじゃねえだろ?ほら、あの桜の木の下で、お前が俺に体育館の場所を聞いてきた時のことだよ」
「……あ、ああ……そう、だね。確かに、あの時もこんな風吹いてたよね……」


俺が説明すると、未胡も思い出したのか微笑みながら言った。
その微笑みが少しぎこちないような気もしたが、特別気には留めなかった。


「未胡、俺、本当に未胡には感謝してる」
「……亮くん……」
「お前が俺の背中を後押ししてくれたから、あの敗戦から立ち直れたし……ここまで辿りついた」
「そんな、私は何も……」


胸の前で両手を横に振り否定する未胡。
だが、俺はお礼を言うのをやめなかった。


「あの時お前の歌がなかったら……俺は、一人で無茶して……潰れちまうとこだった。ありがとう、な。何度礼を言っても足んねえよ」


そこまで言うと、未胡も否定するのは悪いと思ったのか何も言わなくなった。
代わりに、照れを隠すようなそわそわした表情を見せる。


「……私の歌……亮くんの、役に立ったの……?」


気になるのか、ちらちらと俺を見てくる。
俺はうんと大きく頷く。


「ああ。俺、未胡の歌好きだぜ。こう、心に染みるっつーか……」


穏やかな歌声。心に優しく沁み込んでくる……透明感のある未胡の声。
今思い出しても、力が沸いてくる。


「………好き、か」


未胡は小さく言葉を繰り返した。
その声は、どこか嬉しさを噛み締めるような……そんな声に聞こえた。


「嬉しい。亮くんにそう言ってもらえるなんて」


そして、ぱっと俺の方を向き……目を閉じて、これ以上ない程の最高の微笑を俺に見せてくれた。
未胡は無自覚でやってんだろうけど……その笑顔、本当にやばい。
俺まで嬉しくなってくる。っつーか、俺以外にその笑顔見せて欲しくないと、同時にもやもやが生まれた。
なんでか、わかんねえけど。


「ったく……未胡には力もらいっぱなしだな」
「え?」
「未胡の笑顔を見るだけで、俺はすっげー嬉しくなる。次の試合も、頑張れる」


自分でも今、情けない顔をしてると思う。
未胡の笑顔を見ると、俺もつられて笑顔になっちまうから。


「亮くんのためなら、私いくらでも笑うよ。亮くんはまた……約束を守ってくれるって、信じてるから」
「未胡……」
「亮くんは約束通り、私に勝利を見せてくれた。だから私、今日はとても嬉しい」


一度は果たせなかった約束。
都大会で、俺が橘に負けてしまったから。
……長くなっちまったな。それでも、未胡は待っていてくれたんだ。


「……待たせてごめんな。心配かけたり、辛い思いもさせたりしてごめん」
「謝らないで。私決めたの。どんなことがあっても亮くんを信じるって」


亮くんがレギュラーに復帰できたあの時から、と未胡は告げる。
その言葉を聞いて、俺は自然と心が優しい気持ちになるのを感じた。


「だから、亮くん。また次も勝ってほしい」


にこやかに、未胡は言う。
未胡の言う次というのは、


「関東大会、か……」


数日後に迫った関東大会の準々決勝。
まだ、試合のオーダーどころか、試合に出れるのかも分からない俺の状況。
それでも、どうやら未胡は信じてくれているみたいだ。


「亮くんなら、大丈夫だよ」


呟く俺に、未胡は安心させるよう穏やかな口調で言う。


「……ああ。未胡のためにも、俺は掴んでやるぜ」


関東大会で戦える権利を。
そして、もし戦えたのなら……その勝利という結果を。
氷帝テニス部のためというのももちろんある。
だが、すごく個人的な理由を告げるのなら。
俺は、未胡に公式戦初勝利の結果を捧げたい。


「うん……」


俺のすぐ隣に居てくれる、未胡の笑顔を守るために。





今一度、君に約束しよう
(俺には君がついている。そう思えば、俺は本当に約束を実現できると思った)