丸井さんの予想外の行動に驚いたのは、もちろん私だけではなかった。
その場に居た全員きっと、一瞬息をするのを忘れていたと思う。
丸井さんが私を助ける行動をとったこと。
いや、私なんかを助ける人物がいたことに対しての驚き……かな?


「っ丸井、先輩……」


まだ、声を出すにも異物感のような痛みを感じる。
だけど、つい私はそう声を出してしまった。
か弱く呟いた私の声が聞こえたのか、丸井さんは振り返って私の喉を押さえる手とは逆の手を掴んだ。


「行くぞ」


そして、私を立ち上がらせようと引っ張る。
私はその行動に眉を寄せながらも、引かれるままに立ち上がる。
だけど、そのままどこかへ行こうとする丸井さんの後にはついていけなかった。


「……やめて」


本当に小さく、丸井さんにしか聞こえない呟き。
その言葉を聞いて、丸井さんは眉を寄せて何か言いたげに私を見つめた。
でも丸井さんが何かを言う前に、我に返ったのか状況をようやく理解したのか、切原が口を開いていた。


「ブン太先輩!何やってんスか!?」


ネットまで詰め寄り、驚きと戸惑いに満ちた表情で叫ぶ。
その横ではジャッカルさんも、同じような表情で丸井さんを見ていた。


「なんでそいつなんか助けてんスか!」


答えない丸井さんに、少しイラつき始めた切原が声を荒げる。
私からは、丸井さんの背中しか見えなくてどんな表情をしているのか分からない。
でも……私の腕を掴む手に、迷いはないように思えた。


「……間宮は怪我してる。だから手当しに行くんだよ」
「手当って……あんた、何言ってんだよ!俺たちがそいつにそんなことしてやる義理なんか、」


切原は切原で、強くラケットを握っている。
そして説得をするように言う言葉に歯止めをかけたのは、コートの真ん中まで来た幸村さんだった。
幸村さんの登場で、切原だけでなく丸井さんにも緊張が走る。手の力が、少し強くなった。


「……赤也、言い過ぎだよ」


まずは優しく、切原にそう問いかける。
その微笑は形だけの、ひどく冷たいものだった。
それに気付いた切原ははっと口をつぐむ。
……幸村さんの、この制止は丸井さんを庇うためのものではない。


「ブン太、見ての通り、これは練習だよ?多少の危険は伴うけれど、わざわざ練習を中断する必要はあるのかな?」


今までの行動が、あからさまな虐めだと認めないための言葉。
切原の言動がなかなかギリギリだったため、こうして出てきたんだろう。
そんなことわざわざ言わなくても……もう、テニス部全体は気付いているというのに。
気付いて、隠そうと、黙っていようとしているといのに。


「女子のマネージャーが……倒れそうになるまでやる必要も、ねえ、だろ……」


幸村さんの変わらない微笑に対して、丸井さんは弱気を悟られないように言う。
だが、語尾が弱くなっているあたり、やはりこうして対峙するのは苦手なんだろう。
私に手を差し伸べるということは、こうなるってことが分かっていたはずなのに。
幸村さんだけじゃない、他のレギュラーたちとも敵対するようなものなのに。
どうして、この人はこんなことをするの……。


「真面目な間宮さんのことだから。途中で投げ出す方が嫌なんじゃないのかな?」


腕を組んで、さらっと言う幸村さん。
気付けば、練習を中断してしまっているのは私たちの居るコートだけではなかった。
他のテニス部員全員が、行く末を見守っている。いや、ただただ傍観している。


「それと痛い思いすんのは別だろ……!っとにかく、俺はこうして間宮が傷ついてる姿は見てられねえ」
「ふうん……それは、間宮さんの味方をするってことなのかな?」


幸村さんの表情が、一層冷たくなる。
いつの間にか微笑は消え、真っ直ぐ丸井さんと私を見据えている。
その奥では、切原も真剣に、でも少し悲しげな目で丸井さんを見ていた。
姉や私は簡単に切り捨てることができるのに……部活の先輩ともなると、同じようにはいかないみたい。


「………。行くぞ、間宮」


幸村さんの問いに丸井さんは答えなかった。
だが、私の手を引き行こうとする丸井さんの行動が、幸村さんには十分な答えとなったらしい。
そこまでの行動を丸井さんはとっているというのに。
私は動こうとはしなかった。


「……おい、間宮……!」


強く私の手を引く丸井さんだけど、私はなんとかして踏み止まる。
ここで退いてはいけない。まだ、退くべき時ではない。
丸井さんが来たことによって、全ての計画が無茶苦茶だ。
なんで、そんなにも邪魔をするの?
私がいけないの?私が……あなたのこと、挑発しすぎたの?
できるわけがないと踏んで、好き放題言ってきた私が悪いの?
それが逆に、丸井さんの心のどこかに火をつけてしまったの?
そんな自問自答を繰り返しながら、それでもこの場を動いてはいけないと判断し、丸井さんに逆らう。
すると、私たちの攻防に気付いた幸村さんが静かに口を開いた。


「無理しなくてもいいよ、間宮さん。そんなふらふらしてたら、練習の足手まといになりそうだからね」


表面上は優しく取り繕う。
それでも、鋭い視線は突き刺さるように私に届いていた。


「……ほら、間宮」


丸井さんが落ち着いた声音で、優しく促す。
その、私が傷ついていると断定した口振り、やめてほしい。
……結局、痣だらけになりながらも、私が今回得られるものはなかった。
力無しに、一歩足を踏み出す。
それを、受け入れてくれたと思った丸井さんが、また足を進める。
私も一歩一歩、何かに操られているかのように歩き出した。
私たちが動き出したからか、切原が苛々を吐き出す様にラケットでネットを叩く。


「ブン太……」
「ジャッカル、次、赤也と交代だ」


ジャッカルさんは丸井さんが心配なのか、思わずついていこうとしたところを幸村さんに止められていた。
私たちがテニスコートから出る直前、真田さん、柳さん、柳生さん、仁王さんの横を通る。
私は真っ直ぐ見られないながらも、横目で少しだけ様子を窺った。
真田さんは腕を組み、複雑そうな顔をしていた。
柳さんは未だ信じられないという表情で、丸井さんの姿を目で追っていた。
柳生さんは丸井さんの行動を訝しむような表情。
そして、仁王さんは。最初こそは驚いていたけど、横を過ぎるころには怖い顔で私たちを見つめていた。
丸井さんの表情は始終見られないまま。私は手を引かれるがまま、弱々しく丸井さんの後をついていくしかなかった。





しばらく歩いて、丸井さんの向かっている先が保健室であることに気付いた。
それもそうよね……部室にも救急箱はあるけど、今は神田がいるんだもの。
部室には、絶対に行けない。
歩いている途中、足がずきっと痛む。その痛みから足を若干擦って歩き始めると、気付いた丸井さんが立ち止まった。


「あ……悪い、足……痛かったよな」


すまなさそうに言う丸井さん。
だけど、私はそんなことを言って欲しいわけじゃない。
私は、少しだけ力の弱まった丸井さんの手を振り払った。
それに一瞬驚いた丸井さんだが、すぐに私がまたコートに戻るんじゃないかと心配してもう一度私に手を伸ばす。
その手が私を掴むまでに、私は口を開いた。


「テニスコートには行きません」


拒絶の意味も交えて言うと、丸井さんは私に手を伸ばすのをやめる。
代わりに、じっと私を見つめた。
まだ喉元の痛みはあるけど、丸井さんを前にすると不思議とその痛みが消えていくような気がした。
痛みより、憎しみが勝っている感覚だ。


「どうしてこんなことをするんですか」


眉を寄せて、睨むように丸井さんを見つめ返す。
すると丸井さんはばつの悪そうな顔で、少しだけ目を伏せた。


「お前を……守りたかったんだ」


切なそうに悲しそうに言う丸井さん。
そんな丸井さんに嫌気が差して、私は唇を噛み締め、言葉を発する。


「どうしてそう思うんですか?私は丸井先輩の忠告を無視したんですよ?そんな相手……もう守りたいなんて思わないじゃないですか……」


こうもあっさりと丸井さんの期待を裏切れば。
諦めてくれるんじゃないかと、思っていたのに。
嫌ってくれたら。嫌いになれば……楽なのに。お互いに。


「お前が俺を嫌いでも……俺はお前のこと、嫌いじゃねえから」


どこか悲しげな微笑を浮かべて、丸井さんは言う。
私にとっては最悪の、予想外の言葉を。
嫌われるために来ているのに。
復讐するために来ているのに。
なんで……。


「なんで、今更っ……」
「っ……!」


あなたは最低だよ。
姉を見捨てたくせに。
姉の為に動く私の邪魔ばかりする。
どうしても、あなたは私たち姉妹の邪魔をしたいのね。


「私はあなたなんかに守られたくない!もう私のことは放っておいて!罪滅ぼしは、他でっ……」


込み上げてくる怒りを押さえながら、丸井さんを睨み言う。
でもその途中で、丸井さんに抱き締められた。
全く予想していなかった行動に、私は言葉と思考を止める。
何故。どうして。こんなことを。
疑問でいっぱいの私に、丸井さんはどこか力のこもった言葉を私に放つ。


「本当に、ごめん……!」


その言葉は、力が入りすぎているのか震えていた。


「もっと早くこうしていれば……。こうして、両腕で、しっかり……守ってやれていれば……!」


それに伴うように……丸井さんが私を抱き締める両腕も、震えていた。


「そうすれば秋乃も……死なせずに済んだかもしれないのに……」


今にも泣きそうな丸井さんの声。
私は姉の名前が出てきてようやく……我に返った。
今、丸井さんは私を通して……姉を思い出してる。私と姉を、重ねてる。


「俺はもう、あんな思いしたくねえし、させたくもない……!だから間宮、頼むから、俺を受け入れてくれ……っ」
「……丸井、先輩」
「お前が俺を見限るのも分かる。一度は逃げちまった俺を……簡単に信じることなんか、できるわけない」


丸井さんの体に力が入る。
私はその強さに痛みを感じ、若干眉を寄せた。


「だったら俺はもう絶対に逃げない。あいつらから、立海から孤立してでもお前を守る……!」
「っ……痛い、です。丸井先輩……!」


丸井さんの強い意思に反して、私は弱々しく呟く。半分本気で、半分演技の言葉だった。
すると丸井さんははっとして、力を弱め、私を離してくれた。
私はそれを良いことに、丸井さんから数歩離れる。


「間宮……」


その行動を、丸井さんは悲しそうに見つめる。
でも、距離を詰めたりはしなかった。
それは私への配慮なのか、罪悪感なのか、分からない。


「私のことは気にしないでください。保健室にも、一人で行けますから」
「でもっ」
「孤立するなんて、考えなくていいですよ」


眉を寄せる丸井さんに向けて、私は薄ら笑みを浮かべる。
以前浮かべていたような、邪気のない作ったような笑顔。


「先輩が孤立したって、何の意味もないんですから」


そして冷たく、刺す様に言う。
丸井さんは言葉を失ったようで、私を凝視したままだった。
それをいいことに、私は背を向けて立ち去る。
表情は無にして。いや、もっと冷たいものかもしれない。
………立海から孤立してでも私を守る?
なにを馬鹿げたことを。
姉や私と同じ立場になれば何かを共有できるとでも思っているの?
おこがましい。
でも……皆の前で私を助けるような行動をとってしまったことは事実。
これからの丸井さんの生活は、少し変わってしまうかもしれない。
……ああ、面倒なことになってきた。
私は喉の痛みよりも頭痛が気になり、頭を軽く押さえながら保健室に向かった。


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