「ふふっ、もうあなたの評価は最底辺ね」


入ってきて私の顔を見るなりその一言。
にやにやと気持ち悪い笑みを私は一瞬だけ見て、いつもの作った笑顔を神田に向ける。


「どうやら作戦は成功したみたいですね」
「………」


皆が部室に来る前の私とした会話を思い出したのか、神田は眉の間にしわを作って嫌そうに私を見た。


「……ほんと、あんたの強がりって分かりやすすぎ。そういうやつこそ、気付いた時には逃げちゃうものなんだけどね」


神田も負けじと私に嫌味を返す。
ベタで蚊に刺されるよりも刺激を感じないそれに、私は特に表情を変えずにこにこ笑顔のままでいた。
そして自分の嫌味が勝ったと勘違いした神田が早々に着替えているのを見て、私はふと声をかける。


「12時ですよね」
「……は?」


制服のネクタイをキュッと締めた神田が、面倒そうに、訳が分からなさそうに私へと視線を戻す。


「明日の練習開始時間ですよ」


間抜けな顔をしている神田に、もっと分かりやすいように言葉を追加させる。
すると神田は少しばかり驚いたのか、身体を私に向けた。


「……あんた、まだここに来る気なの?」


訝しむように私を顔をじっと見つめる。
神田の見つめている先にある私の表情は、もう外面の良い笑顔ではなかった。
にやりと口角を上げ、相手を見下す様に見つめる、意地汚い笑顔。私の、今まで通りの笑顔。


「当たり前じゃないですか。マネージャーなんですから。ね、梨花子先輩?」


最後はちょっとわざとらしく、いやらしく神田の名前を呼んでみた。
すると神田はあからさまな嫌悪を私に向ける。


「………しつこ。そんなに皆に好かれたいの?」


私、そんなに立海の奴らに好かれたいと思っているように見えるのかな。
ただの神田の被害妄想だとは思うけど。
まあ別にいいか。どう思われようが、どうでもいい。


「でも……そうね。1日ちゃんと部活ができるかしらね」


まだ余裕があるのか、神田は薄い笑みを浮かべてそう言う。
そしてもうそれ以上話すことはないのか、マネ室を出て行った。


「………まだ来るの?って」


あの時の神田のアホ面といったら。
これからが本番なのに。私がいなくなるわけないじゃない。
明日は土曜日。部活時間は午後12時から午後6時まで。
いつもの放課後の部活とは比べられないくらいの時間、この空気の悪い所にいなきゃならない。
……長時間の部活で心配するのが、虐めなんかじゃなくて、この胸糞悪い場所にずっといて吐かないだろうかって思うのが、私の神経の図太いところかな。
あいつらの虐めなんか、全然怖くない。
どうせやることは姉の時と同じだろうから。
姉の日記。毎日欠かさず書かれた日記。
『辛い』『苦しい』と完結に書かれたページもあれば、虐めの内容を詳しく書かれたページもある。
休日の部活のことも、もちろん書かれていた。
とても悲惨な、休日の様子が。
それでも毎週……ううん、休日だけじゃなくて平日も、毎日部活に行っていた姉は。
あの穏やかな姉とは思えないくらいの強さを持っていた。
一体あいつらに何を期待していたのかは分からない。けど……そういう真っ直ぐなところ、私は本当に尊敬する。


「………もう、帰ろう」


神田がマネ室を出てすぐにあいつらは帰って行った。
丸井さんも、私の以前した忠告を気にしたのか、今日はあの輪に入って帰ったみたい。
………そうして、ずっと繰り返される波の中に身を投じていればいいのに。
どうも私は嫌な予感を拭えない。
いつかあの人が私にとって都合の悪いことをしでかすんじゃないかって。
今の様子からじゃ到底想像できないけど……まあ、いつかの話。

部室を出て、家までの帰路を真っ直ぐ辿る。
部活を終える頃にはもう立海生はほとんどいなくなっている。
ようやく歩き慣れてきた閑静な住宅街を通って、私は今の自分の家に帰ってきた。
母の「おかえりなさい」の言葉に笑って返事をして、夕飯ができるまで自分の部屋にいることにした。


「そういえば、氷帝ももう部活が終わった頃かな」


時計を見て、ふと思い立つ。
もしかしたら若はもう帰り道かもしれない。
夕飯まで時間もあるし、電話してみようかな。
たまに部活が長引くこともあるから、少しコールして出なかったらまた夜にしよう。
そう思って携帯を手に取り、若に電話をかける。
しばらく電話は繋がらず、また後にしようと思い切ろうとした瞬間に繋がった。


『もしもし』
「あ、若?今帰りだった?」
『……いや、部室だ』
「え?じゃあ……」
『夏姫の声だCー!!』


少しばかり不機嫌そうな若の声が聞こえたと思うと、電話越しの少し遠くから慈郎先輩のテンションの高い声が聞こえた。
この時間に部室にいて、慈郎先輩が起きているということは。


「部活、終わったばかりだったんだ」
『ああ。……お前、タイミング悪いぞ』
『ええやん日吉。俺らかて、久々に夏姫ちゃんの声聞きたいねん』
『そうだぜ!夏姫!ひっさしぶりー!』


あー………。
今の会話で大体の様子が掴めた。
部活終わり、着替えでもしている最中に若の携帯のコールが鳴って、皆私からだって勘付いたんだ。
普段若が誰かと電話することなんてないし……消去法というか、選択肢が私一択だったのかな。
それで、皆の前で電話に出たくない若と、出ろと言う皆。
その一悶着があのコールの間にあったというわけだ。


「お久しぶりです、向日先輩」
『ふっ……思ったより元気そうな声じゃねーか』


今度は跡部部長の、いつもと変わらない勝気な声が聞こえた。
電話越しに、若の携帯が跡部部長に渡った事が分かる。
すると向日先輩や慈郎先輩が「ずるいずるい!」と叫ぶ声がまた聞こえた。
相変わらずの様子に、私は自然と笑みが零れる。
少し前まで、私はこの中にいた。
なんだかずっと昔のことのように思える。
向こうで宍戸先輩と長太郎くんが向日先輩と慈郎先輩を落ち着かせているのが聞こえ、また跡部部長の声が聞こえた。


『ったく……。夏姫、そっちはどうだ』


どう、か。
一体なんて答えればいいんだろう。
どんな答えを跡部部長は聞きたいんだろう。
少しの間考えて、私は当たり障りのない言葉を返すことにした。


「特に変わりはないですよ。私もいつも通りです」


そう返すと、今度は跡部部長が返答に悩んだようで、間が少しだけ空いた。
若以外のテニス部員と電話をするのは初めてで、表情が分からないからちょっとだけ不安になる。
今、跡部部長は、皆は、何を考えているのか。


『そうか……。お前が傷ついていないなら、まあいい』
『本当に大丈夫なの?夏姫ちゃん』


長太郎くんの心配そうな声が私の耳元に優しく届く。
ああ、落ち着く。私は皆の声を聞いて安心できるけど、きっと皆は逆なんだろうな。
私の言葉一つ一つに、きっと不安と心配を抱いてる。
私が立海へと向かう準備期間の、あの複雑そうな表情を思い出す。
それでも皆は何も言わずに、黙って見守ってくれた。
だから私も、皆になるべく心配かけないようにしなきゃ。


「大丈夫だから、そんなに心配しないで。皆の知っての通り、私は強いから」
『……まあ、確かによ。お前の強さはよく分かってるぜ』


宍戸先輩の声。
初めは、私がマネージャーをやることを良く思っていなかった。
それは私に対しての不満ではなく、周りへの不満を持っていたから。
虐めが起きないか、って。
まあ案の定呼び出しとか喰らったけど、そんなの屁とも思わない私の毅然とした態度に宍戸先輩は何度か褒めてくれた。
……いや、あれは褒めたのかな?「心配してた自分が恥ずかしいぜ。思ってたよりお前は男前だな」って言われたことがあるんだけど。


『夏姫ちゃん……』


心配そうな慈郎先輩の声が遠くから聞こえた。
次に飛び出てきそうな言葉を予測して、私は言われる前にその言葉を言おうと思った。


「心配しないでください。また、落ち込んだりしたら氷帝に顔出しますから」
『本当っ!?』
『おう、いつでもこいよ!』


慈郎先輩と向日先輩が安心したのか声色が元気になる。
……そうでも言わなきゃ、ね。
皆には余計な心配かけたくないもの。
だからこういう嘘を吐くのも大事。


『……そろそろいいですか』
『ああ……あんまり長話も迷惑になるか』


今まで黙っていた若が話に区切りをつけたのか言葉を挟んだ。
そして気を利かせたのか空気を読んだのか、跡部部長が言う。
電話越しに、若の手元に携帯が戻った事が分かった。


『夏姫、今から部室出る。もう少しだけ待ってろ』


どうやら皆が話している間に身支度を終えたのか、私にそう言いながら部室を出ようとする足音が聞こえた。
遠くで、『また電話してね』と長太郎くんの声が聞こえた。
私はそのことに少し嬉しさを覚えながら、若が落ち着いて再び口を開いてくれるのを待った。


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