それは全くの偶然だった。 俺がここに訪れた理由、それはただ外の空気を吸いたいだけで。 「………」 彼女がここにいることは全くの予想外だった。 屋上のドアを開けるとすぐに、彼女と目が合った。そしてしばし時が止まる。 彼女は手首に幾重もの赤い線をカッターで刻んでいる真っ最中だった。 「……邪魔、するぞ」 驚いて目を丸くして俺をじっと見る彼女に、俺は一言だけ告げて、少し離れたフェンスに手を掛ける。 空や景色を眺めるにはフェンスが邪魔だが、ここは他と違って人がいないため一番落ち着ける。 「………何も聞かないんだね、日吉くん」 ぼうっと景色を眺め始めた俺に、彼女は滴り落ちる血を拭いもせずに告げる。 ただ、ヂキヂキとカッターの刃は収めた。何度も繰り返し使っているからか、血がこびりついてしまい途中変な音もしていた。 「お前がそういうことをしてるのは知ってるし、聞かれても困るだろ」 俺は正直に言う。彼女が自傷行為をしていることは、俺だけでなく他の人物も知っている。 彼女はいわゆるいじめられっ子≠セからだ。元来の気の弱さからか、抵抗もできずにずるずると虐められ続けている。 今は別のクラスだが、去年は同じクラスのため少しだが面識がある。その時から無視や仲間外れといった、女子特有の陰湿な虐めをされていた。暴力や物を隠されれるなど、物理的危害は加えられていなかった。だが、最近こういうことをするようになったということは、例の虐めはエスカレートしているんだろう。 「抵抗、しないのか」 「………うまく、言葉が出てこなくて」 しばらくして手首の血を思い出したのか、ハンカチで拭おうとしたがすでに固まっていて、綺麗にに血の色が落ちることはなかった。 それを見て彼女は仕方なさそうに、目線を俺に戻した。 「それに……もう、慣れたというか………疲れ、ちゃって……」 自嘲しながら言う彼女の表情は、どうにも生気というものが感じられなかった。 今のこの現状を諦めているようにも思える。 俺は少しだけ、そんな表情をする彼女に見とれた。人形のような目に吸い込まれそうになった。 そして思った。 ああ、彼女はきっとこの状況を打開することはできないのだろう。 生きようともがくことはしないのだろう。 このまま、壊れてしまうのを待つだけなのだろうと。 「日吉くん……お願いが、あるんだけど」 小さく閉じられていた口から、乾いた声が漏れる。 蚊の鳴くような声に、俺の耳はぴくりと動いた。 「私を……………壊してほしいの」 そして告げられたのは、およそ信じ難い言葉だった。 「もうだめなの。私、もう……このまま、じゃ」 彼女も、自分の限界に気付いていた。自分があと少しで壊れてしまうことを。 「どうせ壊されるなら……あいつらじゃなくて、」 彼女は俺の目をしっかりと見て、うまく表情筋を使えてない、不器用な笑みを浮かべた。 「………日吉くんがいいの」 俺も彼女の表情をじっと見つめた。 空虚な瞳。青白い頬。荒れた唇。ひくつく口角。 壊れる一歩手前の彼女の表情。なぜか、綺麗に思えた。 あと一押しすれば彼女が完全に壊れてしまうのは目に見えている。 唯一、壊される相手を選ぼうとする……それも、なんとも彼女らしい。 「………わかった」 俺としても、考えて返事をしたつもりだった。 だが、時間に換算すると、それは早い答えと言えるだろう。それに彼女は驚くこともなく、むしろ予想通りと思っているような表情をした。 「ありがとう」 彼女はまた不器用に笑った。 それは取り繕いではなく、心からそう思っているような、清々しくも思える笑み。 今から壊されるのだというのに。 まるで解放されるかのような笑みだ。 そして彼女はすぐに靴を脱いでフェンスの手前に丁寧に揃えた。 俺もその行動の意味を理解し、何も言わずに彼女の一挙一動を見つめる。 フェンスの向こう側に立った彼女は、フェンスに手をかけ、俺を見た。 「日吉くんは、優しいね」 フェンス越しに見ても彼女の表情は変わらない。恐怖も何もなく、でも少し穏やかになった気がする。 そして放たれた言葉に、俺は少しだけ心臓を針で刺されたような痛みを感じた。 優しい?俺が?……ああ、全く、彼女は狂ったことを言う。 今からお前を突き飛ばそうとする俺が、優しいわけないだろうが。 フェンス越しに彼女の手を合わせる。触れた指先が、妙に冷たくてリアルだった。 俺は、卑怯だったな。ずっとずっと卑怯だったな。 「………ごめんな」 別れの言葉を言うでもなく。 俺はただ一言そう告げた。 そしてゆっくり、合わせていた手を向こう側に押した。バネの効いたフェンスは簡単に彼女の身体を弾く。 そして俺は、彼女が壊れていく姿を見た。満足そうに落ちていく彼女の姿を、しっかりと目を逸らさずに最後まで見送った。 ごめんな。 俺には、お前を壊すことはできても、愛することはできなかったよ。 俺が彼女を壊した理由。 彼女の一番の望みを叶えてあげられなかったから、せめて二番目に彼女が望むことは叶えてやりたかったんだ。 |