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朝、俺を憂鬱にするもの。
それはセット時間を間違えて焦げてしまった朝食のパンでも最下位だった占いでもない。
これでもかと四角い箱の中に詰め込まれた人と密集した空間――つまり朝の満員電車こそが俺の憂鬱の原因なのである。
それこそジリリリとウルさい目覚ましに起こされてから家を出るまでの数十分で最低5回は満員電車を理由に自主休講を考える程だ。
……かれこれ大学へ入学と同時に“満員電車デビュー”もして1年は経つというのに、慣れる気配は全くないどころか嫌々が進行している気さえする。
ならなんで電車通学にしたんだよ?
とは、あまりにも嫌だ嫌だとごねる俺に友人が投げ掛けた問いである。
だって、知らなかったんだもん…!!
小中高、自転車ばかりで電車なんかちっとも乗らなかった俺が、たま〜に遊びへ行くのに利用するガラガラの電車が朝は鮨詰め状態だなんて想像できるはずもない。
『ざぁんねぇん今日最も悪い運勢の人は――座のあなた。分厚い壁に阻まれて思うように前へ進めずイライラ。でも大丈夫! そんなあなたのラッキーパーソンは“時間に正確な人”です!』
それでは今日も元気に行ってらっしゃ〜い!
と、ここまで聞いてからテレビを切り家を出るのが俺の日課。
占いの結果は最下位だったけれど、どうでもいい。仮に1位だって憂鬱が晴れるわけじゃないから。
ただ、占いを見て家を出た方が時間的に丁度いいのだ。
――とか思っていたけれど、今日ばっかりは占いが当たったかも知れない。
『…〜分厚い壁に阻まれて』
ここ最近、新しく電車を利用する人が増える時期だからか、少し前より電車が混むなとは思っていたけど今日は特に酷い!!
正に人でできた分厚い壁に阻まれている!!
『前に進めずイライラ』
肩を突き出し、ぐっぐっと押し込んでみるもポーンっと弾き出され、今度は背中から寄り掛かるように力を込めて……またまたポポポポーンっと弾かれ車外へ。
ま、前に進めない……!!
乗ろうとして弾かれ、乗ろうとして弾かれ。
何度か頑張ってみるも一向に乗り込めそうにないと悟った俺はフラフラと後ろに蹌踉めきながら遅刻を覚悟した。
頑張った。頑張ったよ、俺。
嫌いな満員電車へ果敢にも挑んだのだ。
――今日はもう、ゆっくり登校しよう。
そう思った時だった。
グイッと強い力で腕を引っ張られたのは。
「うぐぅっ!?」
「っご、ごめんなさい! ちょっと強く引きすぎました!」
ドンッ、と突然おとずれた鼻への衝撃。
驚きに目を瞬かせていると心配そうにこちらを窺うイケメンが“にゅ”と視界に現れた。
眉をハの字にして、少しタレ目気味の優しそうなイケメン。
女相手だったら大抵の事は許してもらえそうな雰囲気を持っている。
「あの、本当にごめんなさい……思いっきり俺の胸に打ちつけちゃいましたけど、その、大丈夫ですか?」
「え、はっ、はい! ……大丈夫、です?」
「鼻、痛くないですか?」
「い、痛くはないです。……驚いただけで」
「ごめんなさい……あなたが電車に乗れずに困っていたから助けようとしたんですけど、突然引っ張ったらそりゃあ驚きますよね……反省しています」
「いやぁ……えっとぉ……」
いまいち状況が掴めないが、このイケメンは俺が電車に乗れるよう手を貸してくれた……らしい。
それなのに俺が鼻を打ちつけるわ、情けない返事しかしないわで、しゅんっと落ち込み、謝りモード。
こ、これは何だか申し訳ない事をした。
もしかしたら性別関係なく、彼のハの字眉は絶大な力を発揮するのかもしれない。
「……えと、いつもこの電車ですよね?」
『俺も毎日、同じ電車に乗っているんです』と若干、気まずい空気が漂う中、控えめな声でイケメンが言った。
視線が少しだけソワソワしている。
「だから、この電車に乗らないと多分、遅刻しちゃうんじゃないかって……すみません」
「……!! い、いえ、謝らないで下さい。実際、遅刻を覚悟しましたし、助けて『間もなくドアが閉まります。お荷物お身体を強く内側へお引き下さい』
『助けてもらえて良かったです』そう彼へ伝えようとした時、タイミング悪くアナウンスが入り言葉が途切れてしまった。
俺の背後では、プシューと扉が閉まりかけては開き、閉まりかけては開きをしている。
その度に俺の右足も外に出たり引っ込んだりと気が気じゃない。
「ちょっとだけ失礼します」
「おわっ?!」
二の腕辺りを掴んでいたイケメンの両腕が腰に回され、グイッと力を込められた瞬間、少しだけ俺の足が浮いた。
プシューゥっと、扉の閉まる音がする。
俺の踵が原因だったのかは知らないが、こうしてようやっと電車の発進準備が整った。
***
ガタンゴトン、ガタンゴトン
「……腕、痛くないですか?」
「全然、痛くないですよ」
「……重くないですか?」
「少しも重くないです!」
ガタンゴトン、ガタンゴトン、イケメンに抱かれたまま電車は進む。
ギリギリまで詰め込まれた車内では、簡単に体勢を変える事はできない。
「それより、あなたは痛くないですか?」
「……あなたの腕がクッションになってるんで平気です」
「それは良かった。あ、でも苦しくないですか? 俺が圧迫してるから……」
「……これくらい満員電車じゃ普通です」
「ははは、それもそうですね」
「…………………………」
「…………………………」
ポツポツ言葉も交わしてみたけれど、こんな状況じゃ、あまり会話は弾まない。
自然と言葉は途切れ、ただ無言で向き合う。
電車は快速なので止まる駅が少ないし、反対のドアばかり開いて、こちら側は俺が降りる駅まで開く事がない。
まだ暫くは、このまんまか……
はぁ、と思わず溜め息をもらした時、トクントクンと電車の走行音とは違う音が聞こえてきた。
……これは、心音?
トクントクン、トクントクン、普通より少しだけ早いような気もするスピードで、だけど落ち着く音。
気づけば身体の力も抜け、しまいには目蓋も落ちたり開いたり……正直、寝ちゃいそう。
***
ガタンゴトン、トクントクン――
電車に揺られ、心臓の音に癒されながら、目蓋も落ちている時間の方が長くなってきた頃ようやく『次は――駅』と俺が降りる駅に着く時がやって来た。
そろそろ、しっかり目を開けなきゃ。
んーーと呻いてモゾモゾ動く俺に、ふふっと笑った彼はポンポンと優しく背を叩いた。
まるで愚図る赤ちゃんをあやすみたいだ。
「ね、ほら、次の駅で降りるでしょう?」
「……わかってますよ」
ふわふわ優しく声をかけられて、一連のやり取りが恥ずかしく思う。
俺は少しだけ不貞腐れた風に返してしまったけれど、これは半分、照れ隠し。
間もなく、電車は駅に到着した。
プシューウっと背後で扉が開き、下車する人達に流されるまま、俺も電車を降りる。
だけどまだ、彼にお礼を言えていない。
フラフラ覚束ない足取りで人の波をなんとか避けてホームに留まる。
助けてくれた彼と真っ正面から向きあった。
「いってらっしゃい」
ふにゃっとハニカミながら笑った彼が、ひらりと小さく手を振った。
俺はその笑顔に目が釘付けになって、釣られたように上げた右手が精一杯、最後の挨拶になってしまった。
――ガタンゴトンガタンゴトン
電車が走り去った頃、ぼんやり上げたままの右手を何気なく自分の胸に当ててみた。
そうしたら彼の心音と同じか、それより少し早いトクトクという響きがした。
END
15.05.31