大きな溜め息をひとつ吐くと、男は空を仰いだ。
男は、世界に名を轟かせるような大企業の社長ではなかった。だが職どころか帰る家すらない社会の溢れ者でもなかった。一般企業に勤め働く、至極普通の人間である。仕事は真面目にこなし、料理の美味い妻がいて、器量の良い一人娘も、先日ついに想い人と生涯を共に誓ったばかりだった。
だがしかし、男は最近どうも仕事が上手くいかない事に不安を抱いていた。会議でもぼーっとする事が多くなり、書類を忘れる事も稀でなくなった。上司に怒られっぱなしの毎日なのである。あまり景気の宜しくないこの御時世、このままでクビにならない保証はどこにもないのだ。どうにかしなければならないと焦る反面、男は半ば諦めかけてもいた。
(もう歳なのだ、仕方がない)
確かに最近白髪が増えた。体力も落ち、目も悪くなってきている。かつての若々しい自分はいない。なら仕方ないじゃないか。老いなど自力でどうこう出来るものではないのだ。ああだがもし昔の若い頃に戻れるならば、
そこまで考えて、男は再び溜め息を吐き、大きく伸びをした。馬鹿な事を考えるのは止そう。どうにもならないのなら諦めるしかない。家に帰れば美味い飯が待っている。今日はしっかり眠って明日に備えるべきだ、そうだそうしよう。小さなくしゃみを二度かまし、寒さに身を縮めながら男は家路を急いだ。


その日男は妙な夢を見た。ふと気が付くと部屋に居るのだが、自分の部屋ではない。床も壁も天井も真っ白のドアも窓もない部屋で、ただ一つ丸い時計が壁に掛かっているだけである。大して広くもないその奇妙な部屋で、男はその時計に近付いた。時計にはカバーが付いておらず、そしてやけにゆっくりと動いている。それを眺めている内に、男はふとこの時計が自分の人生の長さを示しているかのように見えてきた。時刻を見ると、七時を三十分ほど過ぎている。一生を十二時間として計算してみると、成程八十過ぎまでは生きられるようだった。となるとこの時計の短針が十二を指したとき自分は死ぬのか、そう思った男は思わず六を指していた長針を指で十二の所までぐるりと反時計回りに押し戻した。針はすんなりと移動し、そしてまたゆっくりと時を刻み始める。もしこの時計が本当に自分の寿命に繋がっているとしたら、針を戻せば自分も若返るに違いない、そう男は考えたが数分経っても自分の体に変化は見られない。
(ああやはり願望に過ぎないのか)
儚い希望も消え去り落胆し何度目か知れぬ溜め息を吐いた所で、
男の意識は飛んだ。


どこか妙だった。目覚めがいつもより良い。顔を洗おうと洗面台の鏡を覗いてみても、白髪が減った気がする。それこそ丁度四、五年前の頃のようだ。妻もなんだか今日は肌艶が良く見えるわ、と言ってくる。まあ別段悪いことではないので男は大して気にもせず勤め先へと向かうことにした。
その日男は珍しく上司に怒られず仕事のミスもなかった。同じ部署の仲間にも「なんだか今日は活き活きしてますね」などと言われた。
「まるで数年前に戻ったみたいだ」
その言葉で男は確信した。本当に自分は若返ったのだ、と。恐らくはあの夢で出てきた時計が原因だ。男は針を三十分だけ巻き戻し、計算が合っているならば確かに四年ほど若返ることになる。これは幸運だ、男は思いがけない現象に笑みを零した。これなら今までの失敗を取り戻す事が出来る。
だがどうやら世の中はそう上手くいくようには出来ていないようだった。数日も経つと、男は再び仕事が上手くいかなくなってきた。会議ではぼーっとし、書類も忘れ上司に怒鳴られる。白髪も増えて元に戻ってしまった。若返りの効果は日しかもたないらしい。だが男がそんな日々に溜め息を吐いて眠りにつくと、またあの夢を見るのだ。しばらくはそんな日々を繰り返していた。夢で針を戻しては若返り、効果が切れればまた夢を見る。何故だか若返っている間はその夢を見ることはなかった。


ある夜、男は何時ものように夢を見た。真っ白な密閉空間に、時計と自分だけのある夢だ。
そして男はやはり何時ものように針を戻し、そうして数年分若返る、筈だった。だがほんの悪戯心から、男は少し多めに針を戻してみた。幸い会社は休暇で暫く休みであったし、妻も友達と旅行に行っている。多少若返りすぎても怪しまれる事はないのでどうせならもっと若い頃を楽しみたいと思ったのだ。ぐるりと長針を一周戻し、男は手を離した。
だが、
針は止まらなかった。反時計回りにゆっくりと回り続けているのだ。それに気付いた男は慌てて針を止めようと指を掛けた。だが針は止まらない。それどころか、男の指を切り落とした。驚いた男は目を見開いて指の切り落とされた手を見つめた。血で赤く染まった丸い断面の中で、やはり丸い骨が白く覗いている。
男の指を切り落とした針は尚も逆回転し続け、遂には夢の中では変わらなかった筈の男の外見にまでも影響を及ぼし始めた。どんどん若返りが進み、気付けば男は大学生の頃まで戻ってしまっている。この後どうなるかをを察した男は、指を切られた痛みも忘れ半狂乱の状態で叫びながら時計を止めようとした。やめてくれ俺が何をしたちょっといつもより多めに針を戻しただけじゃないか嫌だやめてくれ。だが殴ろうが蹴ろうが時計は止まることなく、男の目線は時計と並び、そして下になった。必死に腕を伸ばしても時計の縁にすら届かない。今や少年と呼ぶほうが相応しくなった男はそれでも時計を止めようとした。喚き叫び泣き言い知れぬ恐怖に怯えながら指のない腕を伸ばす、だが遂に男はただ訳も分からず泣き喚く赤子になり、そうして本来起こりうる細胞分裂を巻き戻す形で小さくなっていき、
ぶつり
止まった時計の針は十二を指していた。


男が見つかることはない。



09冬/部誌掲載/まる



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