みっともなくていい、それがいい
早森





しゃかしゃかと聴こえるのは、耳に付けたヘッドフォンから流れる陳腐な音楽。見上げた夜空には星が数多に瞬いていて、あの日もそうだったと思い出す。ただひとつ違うのは、隣にはあの大きな背中がなかった。触れれば、あれは子供体温というのだろうか。とてもぬくぬくとした暖かさが優しくて大好きだった。はにかむように白い歯を見せて笑う笑顔もきっと何より愛しかった。

それでも、あの日。俺はあいつを失った。それは間違いなく俺が馬鹿だったのがいけなかった。原因は明白だった。見えてるものを見ようとしないで、その優しさに甘えて俺は見えないものばかりを必死に探していたからだ。あのときだって、今だって、俺はずっとそうだ。馬鹿みたいに優しいあいつの愛に甘えて、いつでもあいつは俺を見ていてくれるだなんて自意識過剰にも程があった。

あいつは神様じゃない、ちゃんとひとりの人間だった。俺だけを見ていてくれるあいつを俺は見ようともしないで、手に入りもしないと初めから分かっているてふてふたちを運命だなんだと馬鹿みたいに空虚な言葉を羅列して捕まえようとしていた。なんて愚かなんだろうか。てふてふたちが俺を見ないことは分かっていた。そんなのは簡単、俺も彼女たちに本当の愛を向けていたわけじゃないから。性癖というか、言わずにはいられなくてつい追いかけてしまう。

どんなに馬鹿でどんなにあいつを俺が見ようとしなくても、あいつは俺を見ていた。ただ笑っていた。幸せそうに、慈しむように俺の背中を見つめていた。俺は女の子が好きだった。あいつは俺が好きだった。だから俺を見ていたのだと言ってしまえばそれは明瞭で酷く淡白な解答だけど、それだけじゃない。あいつはどんなに俺がどうしようもない人間でも、いつだってどんなときだって、ただ信じて笑っていた。おえは待ってうっすと言って報われない自分を嘆こうともしなかった。俺は馬鹿だったけどあいつは馬鹿みたいに素直だった。そう。何もかも許されるのが俺を好きだからという一言で片付けるには、あいつの愛はあまりにも真っ直ぐで深すぎた。

けれど、あいつが降り注ぐ雨のように与えてくれた愛にもやっぱり限界はあった。それは人間だから。俺たちは神様なんかじゃない。天が降らす自然の雨には際限がないけれど、あいつが俺に降らせる愛にはちゃんと限度があった。それが、あの日だっただけの話だ。





『』

踊ったような文字。初めにメールを見たとき、そう思った。嬉しさが全身から滲んだそのメールに了解とたった一言を返して俺は小さな双眼鏡を首に下げて家を出た。暗い夜道を歩いて、通学路にあるフミキリまで行くと、後ろから近所迷惑なくらいのでかい声がした。馬鹿、うっさい。と諌める俺にあいつは、にぱぁっと笑ってちっともボリュームの下がっていない大きな声ですみませんと言った。

無駄に山盛りのリュックサックを抱えたあいつが、来てくえたんですねなんて他人事みたいに言うから、お前が呼んだくせに何を今さらと俺は思った。だけど、その日は天気が良くて、星が綺麗で、少しだけ気分が良かったから仕方なくヨシにしてやった。

「その荷物、なに」

「お菓子っす」

「この時間に菓子とか、俺ににきびだらけになれと?」

「えっ、あ、違うっす!あ、でももいやまさんとお菓子食べたいかあ違わなくもなくて!」

「分かったから、もういいって。それより声」

どんどん大きくなっていく声をしぃっと制すれば反射的にあいつは両手を口元に持っていって、自分の口を塞いだ。馬鹿だろ。どうせ俺が話掛ければすぐにまた忘れて、でっかい声で喋り出すくせに。そう思いながらも俺は意地が悪いから、ちょっとだけ黙って歩いた。あいつも何も言わない。怒られた、と言っても大した程度じゃなかったけどさすがに直後に話掛けてくるほど馬鹿でもないらしかった。

そのまま暫く無言で歩いたときだった。ぽつり、ぽつり、と頭に何かが当たった。そう感じたときには既に遅かった。バケツどころかタライをひっくり返したみたいなどしゃ降りの雨。何も今日じゃなくても良かったのに。約束していた天体観測はすっかりぱあになった。流星群なんて、女の子と見たらなんてロマンチックだったろうに見るのがこいつと一緒かぁと多少不服はあったものの、少なくとも俺だって今日を楽しみにしていた。だからあいつの凹みようはきっと俺の倍、いやそれ以上だったのかもしれない。

雨の水で濡れたリュックや双眼鏡。水分を含んだリュックは重そうで、それでもあいつは何も言わずにすみませんとだけ言って歩いた。俺も何と声を掛けたらいいか分からなくて、ただ『なんだ、これじゃ星見れねーじゃん』と一言呟いた。

そのとき弾かれたように上げたあいつの顔を、俺は今でも忘れられない。俺にとっては軽い言葉だった。だけど、あいつにとっては積もりに積もりすぎた負の感情が許容量を超えて、きっと心の中のタンクが決壊してしまったんだろう。すみません、と再度圧し殺したように呟いたあいつの手はどうしようもないほどに震えていた。怒りか、悲しみか。いや、そのどれでもなかったんだと思う。あいつは俺を責めたんじゃなく、予報外れの天気予報を責めたわけでもなく、俺を喜ばせるつもりが逆に雨に打たれさせて仇にしてしまった自分を責めていたんだろう。

あいつは、そういう人間だった。優しい、人間だった。あのときの俺は馬鹿だったから震えるあいつの手を握ることも、そのすみませんの意味をちゃんと考えようともしなかった。俺がすみませんの言葉とあの表情がそういう意味だったんだろうと気がついたときには、既にあいつは隣に居なかった。自分で自分を責めて、勝手にいつの間にか居なくなっていた。それでも俺は女の子を追い掛けるのに必死で、あいつを追おうともしないままに刻ばかりが過ぎた。





同じように辿り着いたのはあの日のフミキリの前。あいつが俺から離れたのが、あいつ自身の力不足だと言うのならそれは間違いだ。俺は駄目だった。あいつを失ってから、初めてあの笑顔が大切だったことを知った。失恋だなんだとほざいて凹んでいたのはただの恋の真似事で、あいつが居なくなってから初めてあいつが必要だった自分に気がついた。

もしもあいつが俺から去ったのがあの日は雨だと予測出来なかったことだとするのなら、俺はそれを許そうと思う。だって、俺は怒ったつもりも悲しんだつもりもなかったから。ただ、何の気なしに無意識に、そして無遠慮に呟いただけだった。だから、ごめんと謝るべきだったのは俺だ。俺はお前を許すから、もしも俺から去った理由がそれだと言うのならあの日の俺を許して欲しい。あの日俺が嫌いでその場を去ったのではないのなら、まだお前は俺を好きでいてくれると思っても俺は赦されるだろうか。

首から下げた双眼鏡は、今は手の中にきつく握り込んだ望遠鏡に姿を変えている。防水性のレンズは馬鹿みたいに高くて、でもこのレンズ代を稼げるぐらいに俺は成長した。あの日、見えてるものを見ようともしないで、見えないものを見ようと覗いてばかりだった自分。

今日は清々しい夜空が広がっている。頬を撫でる冷たい風。相変わらず隣に立つ大きな背中はなくて肌寒い。それでも天にはオリオンと、こいぬとそれからおおいぬ。牡牛も耀いている。この、ちゃんと見えている世界を覗くために俺は望遠鏡を買ったんだ。そして願わくは、と祈りを込めて望遠鏡の小さな覗き口にそぅっと片目を宛う。

今度こそ、ちゃんとお前を見るから。その震えた手を取って、また来年見に来ればいいだろと言って笑ってやるから。だから、もう一度俺に会って、また俺を好きだと言って欲しい。





「もいやま、さん?」

小さく、響いた声だった。ヘッドフォンをしていても不思議とその声は耳に届いてきた。近所中に響き渡るような大きな声じゃなくて、遠慮がちに落とされた呟き声。それでも、相も変わらずラ行が言えていないその声、それは紛れもなくあの日からずっと焦がれていたあいつの声だった。夢だろうか、錯覚?いや、幻聴?もし、この耳に掛けたヘッドフォンを取り去って、覗いているこの望遠鏡から目をそちらに向けたら誰も居なかったら、むごすぎる結末だ。それでも、俺は信じていいんだろうか。そこに、俺の背中に立っているのが、早川だと。

「…はや、かわ」

絞り出した声はからっからだった。掠れた声はどうしようもなく震えていた無様でかっこ悪かった。昔の俺なら、こんなの俺じゃないと憤慨しただろう。でも、今の俺にはとても手一杯でそんなことを考える余裕はこれっぽっちもなかった。漸く、望遠鏡を下ろして振り返る。視界には、あの日と同じぱぁっと花開く笑顔。それから、少しだけ伸びた身長と前髪。

ああ、早川だ。そう認識した途端、俺は往来も気にせず早川を抱き締めた。こんな時間だから人はいない。せいぜい見られても顔なんか分かりゃしない。数年間ずっと待っていたのだ。やっと勇気が出て、もう一度会いたいと願って、こうしてここに来たらお前がいたんだ。だから、思わず何を言うよりも先に抱き締めてしまった俺を許せ。

早川は少し驚いたように身体を強張らせたけれど、すぐにあやすように背中をとんとんと叩いてくれた。感じる体温は子供体温のままですごくすごく、ぬくとい。安心したのと嬉しいのと申し訳ないのと焦る気持ちとがぐちゃぐちゃに混ざって声が出ない。でもあの日のように何も言わずにこのまま早川を離すわけにはいかない。やっと捕まえたのだから。俺は怒ってないからと伝えて許してもらって、そして俺も勝手に俺が怒ったと勘違いして去ってしまったお前を許したい。与えられるばかりではなくてきちんと、俺も好きだと言いたい。

「すみません」

凛、と静寂にこだまする早川の声音。それはどういう意味だと聞き返すより先に、早川に狂おしいほどに抱き締め返されて目を剥く。

「あのときはもいやまさんにきあわえたと思って、でもずっと、もいやまさんに会いたくて、あきあめあえなくて、毎年ここに来てたんです。でも、今年でおえも成人だかあ、今日いなかったあ、あきあめようと思ってました」

嘘。嘘だ。本当なはずがない。こんな馬鹿なやつ、もう一度好きになるどころかずっと好きでいてくれたなんて。そう思うのに、俺の口も身体も脳も、もう持ち主の意思通りにまともには動かなくて微かに出た声は、嫌ってなんかない、と斜め上な返事だった。

それでも、早川は笑ってくれた。そえだけでおえは満足ですと言わんばかりに。その早川の頭に一筋、きらりとなにかが光った。それをかわぎりに、続いて二つも三つも四つも数え切れないほどの星が流れる。あの日見れなかった、流星群。ああ、そうだ。視界いっぱいに降り注ぐこの星は、きっと早川の愛なのだ。

「すきだよ」

今度は意外にもするりと声は出た。それに、今年だけじゃなくてまた来年もそのまた次も。飽きることなく、一緒に天体観測をしよう。雨が降ったら手を繋いで家に帰って、くだらないバラエティー番組でも見て笑おう。それでいい、隣にお前が居さえすれば。

な?と顔を上げて、今日初めての微笑みを見せれば、早川はあの日より僅かに大人びた表情でやっと、わあってくえましたね、と悪戯に笑んだ。ああ、俺はもう二度とこの温もりを離すことがないように、両手に抱えられるだけのこの幸せの結晶を大事にしようと思う。たとえそれがどんなに格好悪くても、みっともなくても、だ。

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20131005

  
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