政略結婚だった。親同士が決めた結婚。

そこに愛などなく、ただ形だけの夫を見送る毎日だった。結婚してからもうすぐ2年が経つ。「いってらっしゃい」「おかえりなさい」私はそれを言うだけの女だ。抱きしめられたこともない、キスをされたこともない、そもそも手を繋いだことすらない。お義母様に「子供はまだできないの?」と急かされたりもするが、そもそも無理なんだ。だって、子作りなんてしたことがないから。
不思議でしょ?彼が家で寝る日は必ず一緒のベッドで寝るのに。流石に彼は不能なんじゃないかと疑いもしたけど、どうやら違うらしい。だって数日前の夜中、夫は香水の匂いを纏って帰ってきたから。
甘ったるくてクラクラするような匂い。どんな可愛い女の子を抱いてきたんだろう。シャワーも浴びずにベッドに潜り込んできたものだから、不快で仕方がなかった。必死で寝たふりをして、朝になるのを待った。

まあ、それがきっかけで決心がついた。決心というか、何かが吹っ切れた感じ。心は晴れ晴れとしている。分厚い灰色の雲に一筋の光が差し込んだようだ。

「ちょっと散歩に行ってきます」
「それでは、わたくし共もお供致します」
「いえ、結構です。1人になりたいので」

それだけ言えば、執事さんは黙り込んで私の後をついてくることはなかった。気を使ってくれたのだろう。
私の噂が彼らの間で流れているのは知っている。子供ができない身体だとか、肩身の狭い思いをしているだとか、後者に関してはあながち間違いじゃないけどね。

向かうは庭ではなく試しの門。そこら中にいる執事さんの目をするするとすり抜けて、大きな犬の前を抜けて門を開く。ああ、なんて空気の爽やかなこと。足取り軽く山を降りる。

「さよなら、旦那様」

親に縛られて生きるのはもうやめよう。
詳細は部屋の机の上にある手紙を見てください。

***

念には念を入れて空港や駅のあちこちに痕跡を残してきた。実際に住むことにしたのはどこかの遠方の地ではなく、パドキア共和国の端っこ。町外れの方で1人暮らしを満喫している。灯台下暗しというやつだ。
ただお決まりの台詞を言うだけの毎日じゃない。起きて、働いて、食べて、遊んで、寝て、1日があっという間に過ぎてゆく。こんなに充実した生活を送るなんて、いつぶりだろうか。

そんな風に順風満帆な生活は半年続いた。続いた……そう、過去形だ。だっていつも通り起きたら、黒い目が私の顔を穴が空くほど見ていたから。叫ばなかった私を誰か褒めて。

「……」
「……は?」

何事?
寝起きの頭でこの状況を理解するのは厳しい。私をここまで混乱に追いやっている本人はしれっと涼しい顔。とりあえず、身体を起こして不法侵入者もとい、元夫と向かい合う。彼はずっと無言だ。きっと私が何か喋るまで話さないつもりだろう。冷静な対応を心がけなくてはならない。

「……色々と言いたいことはありますが、まずはこれを聞くべきだと判断します。なぜここへ?」
「自分の嫁を連れ戻すのに理由がいるの?」
「手紙に書いておいたはずですが?あなたと離婚する、と」
「離婚って双方の同意があって初めて成立するものだってこと知ってる?バカなことやってないで早く帰るよ。母さんもナマエの両親も煩いし」

ダメだ。結婚した初日、少しだけこの人と言葉を交わしたことがある。その時から思っていた。彼と真っ向に会話をすれば喧嘩になるだろうな、と。だから冷静な対応を心がけていたのに、ここまで自分勝手な意見を通されると、さすがにちょっと……ね。
2年間、言いたいことを全て飲み込んで、面と向かって会話するとこれだもの。

黙り込んだ私に痺れを切らしたのか、彼が私の手首を掴む。初めて触れた元夫の手は、思ったよりも骨ばっていて硬くて、私の手首くらいすっぽり覆ってしまえるくらい大きくて、そして暖かかった。
その暖かい手を、思いっきり払った。だって、違うの。こんな風に、こんな状況で触れて欲しかったんじゃない。

「ぜんぶ、書いていたでしょう?手紙に。両親たちが煩いなら、妹と結婚すればいいんです。あの子は出来た子です、私よりずっと」

手紙に書いたのは離婚の願い。それと両親が煩くなるだろうと見越して、私の後釜について書いておいた。
この結婚は、両家の交友を深めるための結婚。要は私じゃなくてもいい。妹でもよかったはず。あの子はお金があれば満足できる子だ。ゾルディックに嫁入りできると知ればきっと喜ぶ。現に、私が嫁入りする際にとても羨ましがっていたから。私より立派に、この人の妻になれるはず。
するとどうだ。彼は苛立ったようにため息をつく。

「なに、自分のために妹を差し出すわけ?ナマエが素直に戻ってこれば、それで全部済むのに」

真っ直ぐな瞳だ。なにも間違ったことは言っていないと言わんばかりの目。駄々をこねるなと言われているようで、苦痛で、悲しくて、仕方なかった。

「あなたや、みんなの為なら、私はどうなってもいいんですか?」
「え、今までに何か不満でもあった?不自由はさせてなかったつもりだけど」

プッツーンと、何か切れた。堰を切ったように言葉が溢れてくる。止められない。止める気もないけど。

「ありまくりだわっ!え?気紛れで離婚を申し込むなんて本気で思ってるわけ?どんだけおめでたい頭なの!?この際、言わせてもらうわ。この2年、夫婦らしい会話もなく、触れ合いもなく、お義母様にはネチネチと子供はまだかと急かされ、浮気もされて。不満なしでいられるとでも!?
私だって、あなたに愛してもらおうと努力したときもあったけど、もう無理。浮気までされて愛してもらおうとは思わない!」

言った、言い切った。息が切れてしんどい。寝起きにするような会話じゃないな、これ。でも不満を吐ききったからか、胸はスッとしている。
さあどうだ、と彼の顔を見れば奴は首をコテンと傾げている。え、何その反応。

「浮気って何?」
「え?」
「オレ、ナマエと結婚してから別の女と寝たことなんてないよ」
「しらばっくれないで。少し前、夜中に甘い香水の匂いを纏って帰ってきたじゃない」
「香水……ああ、あれか。女に変装してたからね。ターゲット好みの香りをつけてっただけ」
「……うそ」
「ほんと」

じゃあ、何。私の勘違い?いや、でもまだ問題点は色々と……。

「あとは何だっけ?子供に関しては元々、そんなに急がなくてもいいかなーって思ってたしね。母さんは早くって言うけど結局育てるのはオレたちなんだし」
「あの、避妊して行為に及ぶという選択肢は、なかったの?」
「避妊?」

まさか、避妊を知らない?とぼけている様子もない。お義父様、息子さんにどういった教育をなさっていたので?
今までの行為はどうしていたのかと聞けば、するだけして相手の女の子は全員亡き者にしてきたという。隠し子疑惑は消えたわけだが、なんて物騒な。

「それと、夫婦らしい会話?してたよ」
「……いつ」
「オレが仕事に行く時と帰ってきた時」
「日常会話すぎるでしょ」

いってらっしゃい、おかえりなさい。これが夫婦らしい会話だとすれば世の中の大半の家族は夫婦らしい会話をしていることになる。
しかし彼は小さく首を横に振り「違う」と呟いた。

「1人で仕事を受けるようになって、家を出る時間も帰る時間も不定期になって……それから執事以外に迎えてもらうのは、ナマエがうちに来るまで滅多にないことだった」
「……」
「ね、母さんにはオレから静かにするよう言っておく。だから大人しく戻ってきなよ」

この人にとって、私はどうでもいい存在だと思っていた。親に決められた結婚、別に妹でもいいはず。それなのに何で

「どうしてそこまで、私なんかを」
「……さあ?」

再びコテリと傾げられる首。どうせ、一緒にいて楽だとか、そんな理由だろう。でも、彼がここまで探しにきてくれたことが嬉しくて、もしかしてこの半年間ずっと探してくれてたんじゃないかって想像してしまって、つい絆されてしまったのだ。もう一度だけやり直してみてもいいかなって。

「分かりました、もう一度だけあなたの妻をやらせていただきます」
「そ、よかった……あと話し方、素でいい。呼び方も。夫婦ってそんな畏まらなくてもいいものだと思うんだよねー。まあ母さんみたいになられても困るんだけど」

お義母様みたいになるお嫁さんはかなりレアなケースなのでは?

「そう……じゃあ、イルミさん?」
「なに」

表情も声のトーンも変わらない。けれど彼……イルミさんの纏う空気がほんの少しだけ和らぐ。心なしか饒舌になったような気もする。
ほぼ初めてのまともな会話。胸がキューンと締め付けられる。ああもう!チョロい女。

「……朝食はいる?戻るにしても、朝食を食べてからにしたいから」
「ウインナーは?」
「ぇ、あるけど」
「タコ型、できる?」
「できるよ。他にご要望は?」
「リンゴ。ウサギ型で」

不意打ちの可愛いリクエストに思わず笑みが溢れる。相変わらず私を捉えて離さないその瞳も、ほんの少し笑った気がした。
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