旅路の途中
―――ギルガメシュよ、決してそこに入る術はない。
いにしえより、誰もその海を渡らなかった。その海を渡るのは英雄シャマシュのみだ。
荒れた大地に熱気を含んだ乾いた風が吹き付ける。
もう少しすれば焼けつくような大地の地平に向かって、太陽は降り立つだろう。
そんな遮るものもない大地に影が横たわっていた。
厳しい旅路の果てに果てたのであろうか。
その影に近寄っていく人影が一つ。
大地に夜の帳が下りはじめた―――――
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妙なる調べを奏でる琴の音が何処からか聞こえる。
だが、体はまだ眠っているのか、目を開くことはできない。
耳から聞こえるのは、自分の掛替えのない朋友に捧げられ、朋友を葬送するための七日の喪の間に聞いた竪琴の音。
それは自分に捧げられたものでこそなかったが、その悲しみに溢れた音色に、ただ押しては引いて返す波のように、半身を失った痛みと、くり返される激情と慟哭に打ちのめされていた我を慰められたものだ。
悲嘆と嘆きで荒れ狂った心が、安らかに鎮められていき、ささくれ立った心を慰撫するように、竪琴の音色が染み入る。
それは確かに、失ったものの大きさに打ちのめされていた自分にとって、まさに荒れ地で水を得たような救いだったのだろう。
そして気が付いた、ここは王宮ではない。
葬儀はとうの昔に終わったのだ。
そして王宮を飛び出たのであった。
ならば、いつ、気を失った
ここは、どこだ
琴の音が止んだ。
そして、ぱちぱちと
はじけるような炎の音がしていたことに気が付く。
────目が覚める。
重い瞼を持ち上げ、ゆっくりと瞳を開くと、空には雲一つなく、宝物庫の宝よりも眩い一面の星が目に入ってきた。
と、星を背景に、ほの白く浮かび上がる男が我の顔を覗き込んで
「ああ、目を覚ましたか
見付けた時は、てっきり死体かと思った」
などと、無礼なことをぬかした。
「王に向かってその言い草、無礼だろう」
その言葉に、頭を振りながら起き上り、疲れてあまり回らない頭で何も考えず反射で答える。
だが
「民も国も、挙句王の地位すら捨てて、旅に出た男が王を名乗るのか?」
皮袋に入った水をこちらに投げやりに渡しながら言われたその言葉に、鈍っていた頭が冴え渡った。
かつて王だった男は血のように紅い眼をまるで少年のように瞬かせ、次の瞬間何がおかしいかったのか、弾けるように哄笑した。
「違いない!ああ全く身軽になってしまったものだな。このような奴に諭されるとは―――この我も落ちぶれたものだ!」
皮袋の水を一気に飲み干す。
それを見たテトスが、む、と不快そうな顔をしたが、気にすまい。
手放したお前が悪い。
献上した時点で我の物だ。
「恩人に向かってその言い草
どこまで行っても、王は王ということか」
「ははは、当り前であろう
どこにいようと我は我だ」
ぬ、なぜ当然のことを言っただけで、そのように肩を落としてため息をつかれるのか理解不能だ、と王冠を捨てた王は首をかしげた。
***
月のない夜だった。
昼ごろまでには曇天だったはずの空はいつか雲を散らして、澄んだ夜空に星屑の川を浮かばせていた。
小さな炎以外には、星だけが我らを照らし、天と地の境目すら定かではない
だからそんな気になったのだろうか
テトスが炎を更におこすための枯れ木の組み方をぼうっと見る。
「なにか?」
そんな時、テトスから不意に投げかけられた問いに。
「…エルキドゥの手際に似ていたなと思ってな……いや、このような些事程度に何を言ったのだろうな。忘れよ」
ぼんやりと揺らめく炎をを見つめながら思わず呟いてしまったのだ。
瞬間に口を噤む。
思わず暴露してしまった胸の内、その己の迂闊さに、頭に血が上ぼる。
それが腹立たしくてたまらず、自分の愚かさに歯噛みしながら、炎から顔を背ける。
場が静寂に沈む。
その無音に滲む、大地を静かになめる風の音だけが妙に煩い。
ああ、この傷は決して癒えることのない傷であるが、そういった素振りを隠せる程度には立ち直ったつもりでいたのだが、思いのほか弱っていたのだろう。
正気なら決して言わないような失言をしてしまった。
このような奴の前で弱みをさらすとは、なんたる失態だ。
と臍をかんだその時
「……それを教えたのが私だからだろう」
テトスは、そう染み入るような声で答えた。
「一度教えれば何でもすぐにこなせる様になってな。あいつは……本当に教え甲斐のないやつだったよ」
淡い幸福が滲むような声色で、暖かな思い出を愛しげになぞるように言葉を続ける。
だから、言葉を返したのは、きっとそれにつられたからだろう。
「当り前であろう、我の唯一の朋友なのだその程度できてしかるべきであろうよ」
本来ならば、言葉を交わすことすらない身分の二人。
長老どもが知れば噴飯ものだろうが
ささやかな秘め事に興じた幼子のころを少し思い出す。
「しかし満足な装備も、挙句水もなしでこの地を踏破しようとは…
恐れを知らない勇者か、あるいはただ無謀なだけの愚者か
いずれにせよ、あまり早く地の下に赴けばエルキドゥの怒りを買うぞ」
「ふん、自らの行いを悔いて足を止めたところで現状が好転するわけでもあるまい。なればこそ我はこうして歩みを止めずにいるのだ
どうだ?効率的であろう」
「いや、だが、あなたはそうして野垂れ死んだ人間を嘲笑するだろう?」
そう思わず、テトスが突っ込んだ言葉に、目を瞬かせ
何度あたりまえなことをと言った風に、踏ん反り返る。
「当り前だ。
だが、我を哂うことは許さんぞ」
「…前から思っていたが、あなたは本当に気まぐれな性だな」
だが、この夜くらいは良いだろう。
我を助けた褒美だ、などと言い聞かせながら軽口を交わす。
きっと、思いのほか穏やかな気分だったからだろう。
小さな炎だけが我らを照らす命綱ともいえる。
空から見れば、この炎が反対に導に見えるのだろうか
取り留めもないことを思いながら、身を寄せ合い、在りし日の友の思い出を語り合う我らを星だけが見ていた。
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