春眠 | ナノ

求婚

「見事なもんだな、その壁掛けはあんたが作ったのか?」

瞬間、静謐さに満ちた空間が乱され、同時に心臓が凍り付いたような気がした。


その声に促されるように、勢いよく振り返る。
そこには―――

「久しぶりだな、抜け目のないフォルガルの姫さん」
「……貴方は」


部屋にできた影にから揺らぐように現れ出た、鍛え上げられた痩躯の男。
エウェルはその男を見据え、動揺に震える胸を手で押さえながら口を開いた。

「――どなたですか?」
「誰か、か…俺に一度も会ったことがないってか?」



男は立ちすくむ娘に歩み寄り、笑いながら、華奢な手を取り手のひらに口付けをおとす。
雲が晴れ、差し込んだ陽射しが男の顔を照らし、陰影を強めた。
そうして、その燃えるように紅い瞳を見た瞬間思い出した。


「…ええ、確かに先の宴でまみえはしたかもしれません。
ですが、家人の許可なしに家に上がるとは無礼ではありませんか」

男が握ったままの手を胸に引き戻しながら、エウェルは目を伏せる。

「どうして許可を得ていないと?」
「父がいないこの館に、姉さまが見知らぬ男を上げるとは思えませんもの」

視線をそらしていても、この身を刺し貫く様な熱い視線に、エウェルは座りが悪いような気持ちにさせられる。その視線に込められた理解できないほど、初心を装うつもりもない。このような視線を、今までも性差問わずに多く受けてきたのだから、今更というものである。だというのに、エウェルはひどく落ち着かない己に気付いた。かつてないほど跳ね上がった胸を、引き戻した手で押さえつける。


「ああ、そうだな。礼を欠いたことを許してほしい。人を探していたら迷ってしまってな」
「…では、探すよう家人に申し付けましょう」


そう、娘は目を伏せ、鋭い視線から逃げようとする。けれどそんな娘をクー・フーリンは追い立てるように歩みより、獲物を捕らえるがごとく壁に手を突いた。娘の逃げ道を檻のような腕に塞がれた。もはや逃げる場所など見つかるはずもなく、エウェルは拳を握りしめた。

「いや、その必要はない。もう、見つけたからな。……エウェル」

そうして、耳朶に己の名を呼ぶ焦げ付きそうなほどの熱さを孕んだ囁きを受けて、思わず顔を上げる。こちらを見つめるその瞳に身が焼き尽くされるかのように感じられ、呼吸が乱れた。まるで致死量の毒のような熱量に、くらくらと眩暈がする。
思考回路すら、鈍く錆びついて、ただ、その瞳を見つめ返すことしかできない。
そうして、硬直したように立つエウェルに、クー・フーリンは覗き込むように顔を近づけ

「どうか、俺の炉辺に来てほしい―――受け入れてもらえるだろうか」

紅色の強いまなざしで、縫いとめるように射すくめながら、そう言った。
あとから思えば、この時すでに、エウェルは捕らえられていたのだろう。



そう求婚するクー・フーリンに、エウェルは困惑を隠せないくらい戸惑った。
一生耳にするはずがないと思っていた言葉に、切り捨てなければならないはずの言葉に、何故か心が波立ち、動揺している自分に気付いたのだ。いままで遠ざけようとしていた、あるいは目をそらし続けてきたモノが、もうすぐそこまで迫っているように感じる。

「い、いいえ、そのお言葉をお受けすることはできません、そういったことは父を通していただかないと、道理が通りませんもの、それに」
「ならば、父君の許可を得、あんたを納得させるだけの勲を立てられれば、この手を取ってくれると?」

上ずった声で言葉を紡ぐごとに、纏う威圧はいや増してくる。その瞳の奥を過ぎる影に理解できない震えを覚える。

「…っ、ええ、そう、勿論です」


何故断り文句を知っているのかと言うことまでは、頭が回らない。
しかし、その返答は、父が承諾するはずがないと知ってのことだ。
だが、なぜだろうどうしてか、今放たれた言葉によって、己を取り巻く何かが、あるいは世界が深い重みが増した気がさえした
それに、エウェルは不意に恐ろしさを覚えた。目の前の男によってではない、何かもっと大きななにかによって自分がおおわれてしまうような気がしたのである。



後になって思えば、追いつこうとする運命の足音を、私はこの日初めて聞いたのだ。

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