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冬休みのある晩、家を抜け出し俺は裏門坂に来ていた。坂の上には学校がある。距離は正門側の坂よりは短いが、角度はコッチの方がある。
裏門坂入口に、着てきたコートを置いた。
さすが真冬は冷える。ましてこんな遅い時間だ。
しかし、走らなければ、登らなければならない。見返さなければ、でないといつまでも強請される。
走れば温まるだろうと死に物狂いで登った。
何度往復しただろうか、ちょうど中腹で足をついてしまった。ぜえはあと呼吸がうるさい。こんなんじゃだめだ、登らなくては、と思うのに力が入らない。
それどころか目の前が揺れ頭がガンガンと痛み、立っていられずに俺はその場に崩れ落ちた。
呼吸をしているのにおぼれているかのような感覚に陥り手足がしびれ、視界もぼやけていよいよか、というときになにか暖かいものに体が包まれた。顔を上げたが、ぼやけて見えない。
「ゆっくり息を吐いて」
そう聞こえた気がして、従う。
そのうち、どくんどくん、という鼓動がはっきり聞こえるようになった。
右手を暖かい何かに包まれ、空いた左手は何かをつかんでいた。
だいぶ回復した、と自分で判断できるようになったので状況を判断するとどうやら俺は抱きしめられているらしかった。
聞こえる鼓動は相手のもので、右手は繋がれ、左手は相手の服を縋るようにつかんでいた。
「もう、平気っショ」
どうにか出した声はまだ震えていて、呼吸も思ったより落ち着いてはいなかった。
相手の顔を確認すると、見覚えのある女子だった。たしか同じクラスだったはずだ。
同じクラスの女子にこんな情けない姿を見せ、さらには抱きしめられていたなど恥ずかしいにもほどがある。
いたたまれなくなり、そういえば、と辺りを見回すと愛車が少し離れたところに倒れていた。
「…手…」
ロードレーサーを起こしに立ち上がろうとすると右手を引かれた。
「まだ動かない方がいいよ。自転車なら私が持ってくるから」
実際、まだクラクラしているのだからそうしてくれるのなら、と頼んだ。
彼女は俺の愛車を丁寧に起こすとこちらまで運んでくれた。
「悪い…ありがと…っショ。あとコート…」
立ち上がるとまだ少しめまいがした。
それから肩にかけてあった女物のコートを彼女に返そうとしたが、断られた。
急に体を冷やすとよくないよ、と案じてくれた。実際、麓に自分のコートを置いてきてしまっていたので寒いのは確かだ。どうせ今は二人っきりだし、彼女にはすでに情けない姿を見せてしまっているので下山するまでは、と思い借りることにした。
「なんかごめんね?私自転車のこと知らないのにうるさく言って」
下山する途中、彼女は申し訳なさそうに呟いた。
「いや、助かったっショ。…えっと、深谷…だっけ?」
「うん」
名前を呼べば、覚えててくれたんだ、と嬉しそうに笑った。
そんなに特徴が無い、ってわけではなかったのでなんとか名前だけは憶えてるって感じだがこんな風に笑うとは知らなかった。
「巻島くん、自主練してたの?」
「あー…、まあ…」
あいまいに返せば、深谷はすごいと言った。
彼女はもともと剣道をやっていたが既にやめてしまったらしい。
マネージャーとして続けても良かったのではないか、とさっきの行動を見て思ったがマネージャーはすでにいるらしく確かに居場所がなさそうだと思った。
どう返していいかわからずに、適当な相槌でごまかしたら深谷は沈黙してしまい、なんとも気まずい雰囲気になってしまう。
正直に、興味がなかったわけではない、申し訳ない、と謝ろうかと思っていると彼女の方から口を開いた。
「星、綺麗だね」
ふと見上げた空。冬の空は澄んでいて星が良く見える。
「あぁ…」
せっかく向こうが話を振ってくれたというのに、また会話が続かないような返事をしてしまう。
向こうにべらべら喋られて詮索されるよりは沈黙の方がマシだが、それでも今は何か話していないと余計なことをあれこれ考えそうで嫌だった。
「星、好きなのかヨ?」
勇気を出してコチラから話を振ってみる。
「普通だよ」
「…そう」
返ってきた言葉はあたりさわりのない単純なもので、また会話が途切れてしまった。
少し落ち込んだのが伝わってしまったのか、彼女はクスクスと笑い始めた。
「なに笑ってるっショ」
「ごめん、なんかしょんぼりしたのが可愛くて」
「はぁ?」
笑いながら謝る深谷に、変な奴、と言うと、なんで?と聞き返された。
「こんな遅い時間にこんなとこ歩いてるヤツいないっショ。しかも女子高生」
「巻島くんもこんな時間まで練習はやめた方がいいと思うよ。身体大事にしなきゃ」
「…確かに、深谷がいなかったら死んでたかもしれないっショ」
「過呼吸ぐらいじゃ死なないんじゃないかな?」
「そーなの?」
「最悪失神程度、って何かに書いてあったはず。過呼吸から心臓発作とかが誘発されたら死ぬかもだけど」
「へー、よく知ってんな」
「剣道部でもまれに過呼吸になるんだよ」
「ほー」
剣道というのは一瞬が勝負であり、こういった持久力的なものではないという印象があったが実際はそうではないのだろう。
「こういう症状ってはじめて?」
深谷と問いに、自然に頷いた。
「なにかストレスとかパニックとか、精神的に疲れてるとかない?」
「ないっショ」
「じゃあ運動の仕方がまずかったのかな…」
いざ自分がなると怖いな、と呟けば彼女は苦笑していた。
「やっぱり自転車競技って、なりやすい?」
「フルマラソンみたいなもんだからな」
「そっか、じゃあ対処法知ってた方がいいかもね」
「袋で呼吸っショ?」
「いや、それだと下手すると窒息しちゃうから…あまり息は吸わないで長く吐くのが一番いいと思う。常に袋持ってるわけじゃないだろうし」
「なるほど。…じゃあ、さっき抱きしめたのは?理由あるっショ?」
少し意地悪な質問をしても大丈夫だろうと判断し、からかってみることにした。
「ああ、落ち着かせるためかな。人間の心音って落ち着くから…私も前にパニックになりかけたときにああやってもらって安心したことあったから」
てっきり、彼女はこういう話に弱く顔を赤くするか怒るかすると思っていたが、予想に反し真面目に答えてくれた。
「やっぱ変な奴っショ、お前」
そこまでいうのならそうなのかも、と頷く深谷にもう一度変な奴と呟いた。
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