静かな教室に携帯電話の着信音が響き渡った。よりによって、鬼のように厳しいと恐れられている生徒指導担当教師の数学の時間に。 たいして広くない教室の中だ。どの辺りから音が鳴っているかなんて、誰もが見当をつけることができる。 教師がチョークを持つ手を止めた。生徒たちが我慢しきれず周囲を見渡し始める。 多くの生徒が目を留めた、廊下側の前列。否が応でも、顔を真っ赤にして下を向く女子生徒が目に入る。 ああ、可哀想に。誰もがそう思ったその瞬間、席を立ちあがったのは、思いもよらない人物だった。 「すみません。俺の携帯です。」 教師は表情一つ変えないまま、自己申告した男子生徒を疑り深く見つめた。 「没収。放課後、職員室に取りに来なさい」 真っ直ぐに自分を見つめ返してきた瞳に、とりあえず教師は疑うことをやめたようだ。しんとした教室に響く足音が、大木立道の席の前で止まった。 「すみませんでした」 立道の隣の席、江藤恵の顔色は、先程と打って変わって、絶望的に血の気を失っていた。自分のすぐ隣で、自分の罪を被ってくれた男子の携帯が没収されている。なんてことだ。どうしよう。 今にも倒れ込んでしまいそうな心境だったが、生憎今は着席中である。ただただ、うつむくことしかできなかった。 + どうしよう。どうしよう。 それしか頭に浮かばなかった。授業の内容なんて、ひとつも頭に入らない。 どうしよう。どうしよう。 大木くんに何て言ったらいいんだろう。ありがとう、って言ったらいいのかな?でも、それって変かな? ああ、授業が終わってしまった。 どうしよう。どうしよう。 何か言わなきゃダメだよね?でも、何て言ったらいいのかわからないよ。 大体、大木くんとあんまりしゃべったことがあるわけじゃないし、ていうか、必要最低限しか話したことない。ていうか、そもそも、男子とそんなに話す方じゃないし。 「おめー、何してんだよ」 ひとりぐるぐる考えていたけれど、右側から聞こえる威勢のいい声に我に返った。 しまった。声を掛けるタイミングを失った。休み時間に入って早々、大木くんの席には新井田くんがやってきて、大木くんを嬉しそうにからかう。見慣れた光景なのに、今の私にとっては近くで見るのがとても辛い。 「やー、マナーモードにすんの忘れてて。こういうときに限って鳴るんだもんなー」 違う。そうじゃない。大木くんは何も悪くないのに。 「にしても、よりによって数学のときに鳴るとはな!放課後、ガンバレよお」 新井田くん、違うの。 本当は、職員室に行かなきゃいけないのは、私なの。 ごめんなさい。ごめんなさい。 そうだ、大木くんに言えばいいんだ。 ごめんなさいって、言えばいいんだ。 + 帰りのホームルームが終わり、生徒が一斉に教室を飛び出す。生徒の波に紛れていつもと変わらない様子で教室を出た立道を、恵は小走りで追った。 「大木くん、あの、」 ざわついた廊下の真ん中でも、立道には恵の声がはっきり聞こえた。だって、ずっと背中に視線を感じていたから。本当は、今か今かと話しかけられるのを待っていたから。 だけど、よく聞こえなかった振りをする。あれ、誰か呼んだ?誰にもわからない演技をして、少しだけ歩調を緩める。すぐに制服の裾を引っ張られた。 「大木くん」 ゆっくりと振り返る。当然、そこにいたのは、クラスメイトで席が隣の江藤恵。今日の5時限目に携帯を鳴らしてしまったところを立道がかばった相手。 「お、どーした」 立道がこちらを向くやいなや、恵はすぐに制服にかけた手をぱっと離す。立道の顔に、少しだけ苦笑いが浮かんだ。 「あ、あの、さっきは、ごめんなさい」 恵は自分の目を見てくれない。俯いたまま、必死に謝られてしまった。うーん。別に、こんな顔させたくてやったわけじゃないんだけどな。 「携帯のこと?別にいーよ。俺が勝手に出しゃばったんだし」 ついつい突き放した態度になってしまったことに自分でも気づいたけど、こればっかりはもうどうしようもない。ここで爽やかな笑顔で言葉を返せるほど器用ではないのだ。そう、例えばあの、七原秋也みたいに。 「でも、あの、本当は私が」 「そんな下向かないで。顔あげてって」 その言葉でやっと立道の顔を見た恵の目には、うっすら涙が浮かんでいた。 まずいなあ。ほんと。こんなはずじゃあなかったのに。思わず漫画みたいに頭をポリポリとかいてしまう。 「どーせならさ、ありがとうって言ってよ」 恵の口がぽかんと開く。よっぽど予想外だったようだ。別に変なこと言ってないと思うんだけどな。ちょっとこの子、いろいろ気にしすぎるんだろうな。そういうとこ、俺はいいと思うけど。 「え、と」 「あー、ごめん。俺なんかにかばわれてもな。どうせなら、七原とかの方がいいよな。はは」 戸惑う恵の様子に焦って、ついつい言わなくてもいいことまで口からぺらぺらと出てきてしまう。特に七原は禁句だった。やばい。恵の顔がみるみる赤くなる。ああ、やっぱし図星だったんだ。 「なんで。七原くんは、関係ない」 「やー。だから、例えばだよ、例えば」 知ってたんだ。七原のこといつも見てるから。もしかしてこの子は、仲の良い友達にも言ってないのかもしれないけど、きっと、七原のこと好きなんだろうなって、俺は気づいてた。けど、それを本人の前で言っちゃうなんて無神経そのものだよな。 「例えばでも、そんなこと言わないでよ」 あー、怒らせた。最悪。 「ご、ごめん」 「私は、他の人だったらよかったなんて思わなかったよ。大木くんでよかったよ」 今までにないような強い主張が、瞳に宿っているのを感じた。なんだよ。ドキッとすんじゃねえか。 「ま、まじでか」 「え、いや、別に、変な意味じゃなくてっ」 さっきまでとは別人みたいに、恵はまた顔を赤くして慌てふためく。そこまで否定しなくても。少しだけ、残念に思ったりして。 「ま、そー言ってもらえるなら嬉しいよ」 「う…」 ああ、いつまでもこうしてはいられないんだった。なんたって、俺は今からアイツの待つ職員室に行く途中だったんだからね。 それじゃ、と軽く手を挙げて背中を向けると、またさっきみたいに制服の背中が引っ張られた。 「大木くん、ありがとう」 なんだよ、せっぱつまった顔しちゃって。 唇を噛みしめて見上げてくる瞳を、可愛いと思ってしまったじゃないか。 「へへ、んじゃー、いってくるよ」 「い、いってらっしゃい…?」 これから説教されに行くっていうのに、こんな風に送り出されただけで、ちょっと気持ちが軽くなってしまったじゃないか。 END. (20100330/20110507) ←もどる |