信じられないといったように、男の人の瞳が揺れた。
しかし、信じられないのは私も同じだった。

……今の、私が言ったの?
白哉?
それってこの人の名前……?

男の人、白哉は少しの間、私を食い入るように見つめて静かに目を伏せた。
次に開かれたのは、さっきまでとは違う、拒絶するかのような冷たい瞳。
その迫力に肩が震え、涙が溢れる。



「…何故、私の名を知っている」



そう尋ねる声も、心なしか鋭くて冷たい。

私がなにをしたというのだろう…。
むしろ不審者のごとく迫ってきたそっちの方に非はあるのではないか……。

小さく首をふるのがやっとだった。
心のどこかでこの人が私を傷つけることはないとなぜか思っていたけど、突き刺さる視線の威圧感とか緊張感やらで気圧されてしまう。

すると、白哉の手が顔へ伸びてきた。
少しだけ身じろぎするけど、それに構わず白哉は私の頬の涙をなぞり始める。
ひやりとした白哉の体温が頬から伝わってきた。

…なんて、悲しそうな顔をしているのだろう。
辛そうで、悲しそうで、なにかに耐えるような白哉の表情。
そんな顔を見ていると私の方まで悲しくなってくる。
それはただの感情移入なのか、それとも別の理由からか、私自身のことなのにまったくわからない。



「…済まぬ」



白哉がそう言った瞬間、手の中から黄色くて暖かい光が溢れだした。

…ああ、そうか。
これは夢だ。
なんかものすごいリアルだけどこれは夢なんだ。
じゃなきゃこんなこと起こるわけない。

私は夢を断ち切ろうとぎゅっと目をつぶった。
そしてゆっくり、ゆっくりと目を開ける。

さあ現実だ。
今度は遅刻しないように早くし―……あ?
あれ、おかしいな。
またあの人が見えたよ。

また目を閉じて開ける。
…変わらない。
夢じゃない!?

なんで、と思う半面、やっぱり、という確信があった。
1つだけ違ったのは、白哉の手が頬から離れていたことだった。



「今一度問おう、何故兄は私の名を知っている」



兄という言葉がわからず、首をひねっていると、どうやら私のことらしく、ますますこの白哉って人が何者なのかわからなくなってきた。
古風な言葉づかいとその服装、まるで時代劇から飛び出してきたよう。
それなのに、逃げださない私はどうしたのだろうか。
不測の事態に危機管理能力がマヒしてしまったのか。
たしかに逃げなきゃとは思うけれど、逃げちゃいけないと思う自分がいる。
逃げたら絶対に後悔するぞと、本能かなにかが叫んでいるんだ。



「…わかんないです……」



本当にわからない。
口が勝手に動いたんだ、逆に私の方が知りたいくらい。
それを聞いた白哉は落胆したような、安堵したような微妙な表情をした。



「…そうか」



目を伏せる。
そして興味が失せたのか、静かに立ち上がり、私に背を向けて歩きだした。
遠ざかる白い背中に、気づいたら私は白哉を呼び止めていた。
私を視界に入れたくないというように、振り向くこともせず、だけどしっかりとした返事を返してくれる白哉。



「…なんだ」

「あなたは、誰なんですか……?」



その格好、その言葉づかい、その腰にある刀。
そしてあの記憶の映像……。
私に向けた瞳は悲しげで、冷たくて、でもどこか優しい―…。
どうも赤の他人とは思えなかった。



「…兄の知るべきことではない」



突き放すように答え、そして目の前から文字通り、消えた。
残ったのはわずかな土煙と、へたりこんだ私だけ。



「…え、え?」



困惑しつつも、ふと、白哉に触れられた頬に指を置く。
――傷がなくなっていた。



「本当に……誰?」



そこにはもう桜の花びらはなく、混乱する私と、何事もなくただずむ桜の木があった。
ざわざわと揺れる枝が私の心も揺らしていく。

この時の私は、わずかに高揚する心が、非・日常を喜んでいるのか、それとも別のなにかか、判断することができなかった。
ただできたのは、この先なにかが起こるという予感と、少しの恐怖、そしてそれよりも大きな期待で胸の内を彩ることだけだった。



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