地球よ止まれ | ナノ

Tuiki


薄暗い

◎切支丹禁制が徐々に日本全国に広まりつつある中で、メキシコとの貿易航路を得る代わりに、宣教師を受け入れるという内容の親書を運ぶ使者団としての使命を与えられた侍が、メキシコ、スペイン、果てはイタリアローマを旅をするというあらすじ。現代とは違って、一つの海を越えるのに何ヶ月もかかり、嵐に遭えば死人も出る過酷な旅。想像を絶する、としか言えない…。

◎不幸なのは、長い旅の間に日本では家康が天下を取り、本格的な禁教令が出され、メキシコとの貿易どころか鎖国に踏み切ってしまったということ。侍とその他の使者団は、迷いの末に「使命を果たすための利となるのなら」と考え、切支丹になるための洗礼を受ける。洗礼を受けることはあらすじを読んで予め知っていたんだけど、ここに踏み切るまでの迷い恐れ、苦しみ、哀しみの書き方がまさに日本人。日本人の文化、いっそ命よりも大切にしてきたもの、外国人にはもしかすると永遠にわからないこと、そういうことを繊細に慎重に書き連ねている。だから時間がかかる。物語の後半を悠に超えて、終盤に入った頃にようやく「お役目のため」と皆で決心して、洗礼を受けた。決してキリストを受け入れたわけではないと心では思いながら。

◎彼らの迷いを見ていると、私自身もどうしようもなく「日本人」なんだと思った。両親、祖父母、先祖が守ってきたものを捨てられないという苦しみ、裏切りのような感覚。代々守られてきたものが正しいか、間違いか、ということはこの際重要な問題じゃない。作品中でも外国人の視点から語られていた通り、日本人は一族の繋がりが非常に強い、というのは今もまだ残っている風潮なのだと思う。私のような何の家督もない、ごくごく普通の(いっそ下の中くらいの)家庭に産まれてもそんな感覚があるんだから。こういう苦しみは、現代でも、他の人の中にもやっぱりあるんだろうか。という素朴な疑問。

◎私はてっきり、もっと早くに侍たちはキリストを受け入れるのかと思ってた。沈黙の農民たちのように、素朴で純粋な信仰に目覚めるのかな、と甘い考えを抱いていた(もしそうだったら文学として面白いとは思わなかったかも)。でも侍たちは、さすがに侍だった。従うべき主君と、守るべき家、日本人としての捨てられない誇りを持っていた。それは素晴らしいことだと思う。だからこそ、それらを信じて長い旅に堪えてきた彼らが主君から裏切られた時、世情の移ろいやすさを知った時、どれほど深く傷ついたろうと思う。諸行無常とはこのことだなあ。

◎使節団に同行した宣教師のベラスコが、初めのうちは傲慢で日本人を馬鹿にしてさえいたんだけど、目的を果たせないと分かった時にようやく日本人たちと歩み寄り始めるというのも、物語の進行上おもしろいところだなあと思う。吊り橋効果っていったらロマンがなさ過ぎるけど、希望が潰えたと悟った時、初めて自分たち全員が窮地に立たされたことに気づいて、心から手を取り合えるということは往々にしてあり得るよね。情熱の強さが、時に傲慢となって表現されてしまうことがある。彼はその典型のように思えた。情熱があることは素晴らしいけど、それによって他者を貶め、傷つけていることに気づかないのは、やっぱり罪なんじゃないかと思う。

◎貿易権を得るための(同時に宣教師の新たな派遣を約束するための)スペインにおける討論で、一瞬ベラスコが優勢になったかと思いきや、その場面で日本の現在の情勢(鎖国した)を伝える手紙が届くのも、いやはやおもしろい展開だなあと思った。彼らが使命を全うする希望はこの時点で潰えて、それでも諦められないからローマのパパ様に直訴しに行く彼らの足掻きは、哀しいけれど、何か美しくさえあった。傲慢でプライドが高かったベラスコがパパ様の前に枢機卿に会うシーンで、今までのような狡猾な打算とは違う意味合いで、あえて旅路で汚れたボロボロの服で面会に臨むところも良かったな。彼にとってそれは、ぼろ服を着て旅路の過酷さ訴えるという見え透いたアピールをすることをもう恥とは思わない、一縷でも望みがあるのなら日本人たちのためにも自分アー最後まで足掻かなければならない、という決意なんだよね。

◎そして思わずほろりと来たのは、常に冷静で、感情を表に出すのを律することに重きを置いてきた侍たちが、民衆の前に現れたパパ様の道を阻んでまで涙ながらに直訴を求めたシーンだった。それなのに、具体的なことは何一つ言えず、「どうか直訴を」としか絞り出せなかった彼らの気持ちが分かる気がする。人様の前でみっともなく泣いて頭を下げて自分の求めに応じてくれるよう他者に頼むというのは、多くの日本人にとってはやっぱり恥に感じるのではないかと思う。ニュースを見ていても感じるように、外国人はもっと自由で、自分の要求を他者に訴えることに躊躇いを持たないように思える。そんな日本人が、ここまでした、ということ。それがどんなに特別なことであったか、ということ。言葉が通じないからパパ様は彼らに応えることができなかった。日本人たちも、民衆に取り押さえられて為す術はなくなってしまった。

◎何もかも徒労に終わって日本に帰る最中、使者団のうちの一人が自決する。君主の使命を果たすことができず、一族の期待に応えることもできなかったということを理由に、腹を切った。外国人勢はこれに対して、「馬鹿なことをした」と言う。日本人としては、どうだろう。死を美徳とするつもりはないけれど、切実に君主を思い、常に忠実であろうとし、使者として遣わされたことを誇りに思い、その報酬として一族が持っていた土地を返上してもらえるかもしれないという望みがかかっていた時、それら全てが叶わぬ夢とわかったら、おめおめ帰国できるだろうか。死を持って償う、けじめをつける、という文化。特異なはずなのに、自分の中で違和感が生まれないのはやはり私が日本人だからだろうか。哀しい最期。ベラスコは、自殺者を避ける同僚たちを尻目に自決した使者が天国に受け入れられるように祈る。誰よりも熱心に祈る。彼らの苦しみは、主よ、あなたが誰よりもよくご存知のはずです。

◎日本に帰った侍と残りの使者もまた本当に可哀想で、4年間の旅の中、使命を果たすことだけを考えて切支丹に帰依したのに、それを理由に粗末な扱いを受けるばかり。家督を取り上げられないだけ有り難く思えと言われる始末。かつて快くしてくれた重役は任務から離れ、代わりに反対派が上に立ったおかげで踏んだり蹴ったり。禁教はますます厳しくなり、侍たちは謹慎生活を余儀なくされた上に、最後には切支丹に帰依したことを理由に処刑されてしまう。彼らの悔しさはどうだったろう。最も若い使者衆の一人が、重役から「お前たちの旅は大変な苦労だっただろうが、もう必要のないことになった」とあっさり言われた時、同じ使者衆や付き人たちの死、色々な出来事が心によみがえって、思わず「私は切支丹に帰依いたした、すべて使命のためでありました」と言ってはならないことを叫んでしまう。その気持ちが痛いほど分かる。どんなに苦しく、悔しかったか、と思う。

◎最後の最後まで、主人公である侍は疑問を抱き続ける。この醜く惨めな十字架上の男(キリスト)を西洋の国々がこぞって崇める意味がわからない。美しい仏像には自然と頭が下がる思いがするが、俺にはこの醜い男を崇拝する気持ちにはどうしてもなれない。ところが、見知らぬ国外での人々との出会いを経て、信じていた君主に裏切られ、諸行無常を知った侍がふと悟る。「人間の心のどこかには、生涯、共にいてくれるもの、裏切らぬもの、離れぬものを 求める願いがあるのだな」そして、その相手がキリストなのだと。処刑のため、連れていかれる侍に対して、従者であった与蔵(旅を共にし、切支丹になった)が言った言葉が最も心に残っている。

◎“「ここからは・・・あの方がお供なされます。」突然、背後で与蔵の引きしぼるような声が聞えた。「ここからは・・・あの方が、お仕えなされます」侍はたちどまり、ふりかえって大きくうなずいた。”

◎彼の信仰の始まりが人生の最期であったことに改めて驚きと感動を覚える。あの方とは、十字架にかけられた惨めな犬のようにボロボロなイエスのことだ。侍が何も言わず、ただ「大きくうなずいた」という描写に、何より強い説得力を感じる。信仰とは、こういうものじゃなかろうか。何もかも不確かで、不安で、初めはおずおずと手を伸ばすものじゃないだろうか。「信仰とは99%の疑いと1%の希望」と言ったキリスト教作家がいる。ずっと安定した道を行く人はいない。不安を抱きながら、それでも主に信頼にして、決して目には見えないものを「はい、信じます」と言って歩いて行く。そうして最後に、共にいてくださった方の存在をはっきりと知らしめられるんだろう。

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