地球よ止まれ | ナノ

Tuiki


haiho

◎そんな感じなので、私はいつも11月は死んでいった人たちのことを考えます。以前、「空の器」という中編を書いたんだけれど、その話の中で最終的に主人公の父親が自殺しています。実はこの父親にはモデルがいて、それは私の叔父さんでした。あの中編を書いたのは去年だったけど、実際叔父さんが死んだのはその前年の春でした。話の中では主人公は娘だったけど、当時、私は姪という立場で叔父さんの失踪から葬式までの出来事を経験することになりました。

◎結果的に「空の器」の主人公がどこか他人事のような距離感で父親の自殺を見つめていたのは、私が娘ではなく姪として自分の考えたこと、感じたことをそのまま話にしたために生じた違いだと思っています。もしも本当の娘だったらもっと強烈に叔父さんを恨んでいただろうと思う。これは想像の話ですが。

◎失踪とか蒸発っていう言葉を現実に体験したことがなかったので、叔父さんがいなくなったと聞いた時は「はあ…?」と思ったんだけど、一週間ほど経って母から伯父さんが見つかったと言われた時、どういうわけか瞬時にその意味を理解しました。失踪と言われた時点で気づいても良かったと今となっては思いますが。叔父さんは「空の器」の中で書いた父親のようにとても不安定な人で、息子たち(私の従兄弟)との仲もあまり良くありませんでした。妻である伯母さんは私の母の姉に当たる人ですが、15年以上前に病気で亡くなっています。そしてその後すぐに他の女と住み始めたというのも話のまんまです。もちろん母方の親族からは非難囂々で、それまで行き来していた関係がなくなりました。そして従兄弟ともかなり歳が離れていたのでそれっきり疎遠になってしまいまいた。

◎会うのは冠婚葬祭の時だけで、それも叔父さんは気まずそうに端っこに座っているだけ。大人になってから叔父さんを見た印象は、淋しそうな人だなあ、ということ。でもまさか自殺するなんて思ってもいませんでした。叔父さんが死んで、すぐにお通夜と葬式の話が来ました。遺体を見たのは息子(弟)だけだったそうです。そして、自殺現場に親族が連れて行ってもらえないというのも、遺体が傷んでいたために葬式に出せなかったというのもどちらも現実のことです。それまでにも何度かお葬式に出席したことはあったけど、私には遺体のない葬式というのはどこか異様なものに感じられました。故人の冥福を祈り、と言いながらそこに故人がいない。お別れをするにも別れを告げる対象がない。もちろん遺体はある意味で「抜け殻」ですから、祈りにも別れにも本体が必ず必要というわけではないでしょうが、仏教葬式においては私の知る限りのことと照らし合わせると、そのことに歪な違和感が感じられました。

◎参列者はごく身内だけでしたが、直近の親族以外は死因を知りませんでした。それでも誰も遺体が無い訳を聞かないし、話したりもしない。自殺は「隠さなきゃいけないこと」のようでした。喪主である従兄弟(兄)が、叔父さんの笑顔の遺影を見ながら「自分らにはこんな風に笑ってくれる親父ではなかった」と第一声に言ったことが忘れられません。従兄弟は昔から叔父さんと違ってひょうきんなタイプで、歳の離れた私たちとも気兼ねなく接してくれる人でした(ほんと、小さい頃私たちはこの兄ちゃんのすね毛を毟って遊んでいた。すげー痛がってた)。そんな人が父親という存在をどう思っていたかということを考えると胸が痛みました。それでも従兄弟は気丈にも「親父が嫌がるだろうと思って会場をピンク系の花で飾ってもらいました」と笑いを誘うような台詞で挨拶を締め括っていたけれど、それでも従兄弟の言葉の節々に怒りと悔しさと哀しみと、いろんな感情が綯い交ぜになったものがあるのをひしひしと感じました。

◎叔父の自殺に一番憤っていたのは母方の叔母さんで、母のもう一人の姉なのですが、この人が甥っ子たちを心配して最近までずっと定期的に家に訪ねていたようでした。叔母さんは本当に悔しげに「息子がいるのにどうして」と言っていました。遺書には「孤独だ」と書かれていたそうです。病気を患って、生きていても人に迷惑をかけるだけだ、と。叔父さんは自分と直接血が繋がっている親族とも疎遠だったそうです。それでも息子のうちの一人(弟)はそんな父親を心配してか、同じ家ではなくても近くに住んでいて度々会いに行っていたそうです。それを聞いて、もし自分だったら?と強く思いました。もしも私が近くにいるのに父に死なれたら、きっと「裏切られた」と思うに違いないと。従兄弟(弟)の方はおとなしい人で、そういう感情を一切表に出さなかったけど…。

◎母が葬式の準備等の手伝いで従兄弟に会ったり叔父さんの家に行ったりしていて持ち帰ったものの中に、子供がチラシの裏に描いた絵がありました。最初は従姉妹の子供が描いた絵かな、と思いましたが、どうもそれに見覚えがあったので尋ねたら、私と姉が小さい頃に叔父さんの家に遊びに行った時に描いたものでした。叔父さんはそれを捨てずにずっと取っておいてくれたんです。本当に冷たい人がそんなことをするだろうか。そういう気持ちがあるのなら、息子たちにこそその愛情を素直に向けてあげれば良かったのに。大切な人が側にいてくれる時に大切にしないと後で手遅れになるんだと、離れていってしまった後では遅いんだと、そう思いました。

◎この出来事を通して私が感じたのは、「空の器」の中で書いたとおりです。近親者の自殺は、哀しみよりも先に悔しさや怒りがやってくる。自分の子供の自殺だったらまた話は別だと思いますが、父・母・兄弟が「私は孤独だ」と言って死んでいったらどう思うか。ましてや従兄弟(弟)のように自立してからも気遣ってそばに居続けたのなら、その行為はれっきとした裏切りだとは思いませんか。私自身も叔父さんに対して怒りを感じました。疎遠になって長く、血も繋がっていない人だったのにも関わらず。従兄弟たちはどうなるんだろう。あの人たちは、これからずっと先、「父は自殺した」という事実から逃げられない。一生それとつきあっていかなければならない。二人ともまだ独身だし、結婚の足かせにもなりかねない。そういうことを叔父さんは一瞬でも考えたんだろうか。考えて尚、自分が楽になることを選んだんだろうか。そんなことを考えて、苦しいような哀しいような気持ちになってその後処理をできないままでいた時に、それなら不謹慎かもしれないけどこのことを物語にして自分の中で昇華したらどうかと思い立ち、「空の器」を書き始めたのでした。

◎心の中の整理という名目で書き始めたけれど、結局はあの話を書いても答えはわからず、主人公の気持ちも宙ぶらりんなままでした。でも「後追い自殺はしない」「私は父と同じではない」と最後の方で主人公がはっきりと主張していて、私は結末を最初から考えて書き始めるタイプではないので、なんとなく「そうか」という気持ちにはなりました。「そうだよな」と。私は自分の性質として、親との繋がりを結構意識するタイプなので、「親がしたことは子供もするかもしれない」と無意識に考えていたんだろうと思います。でもやはり、親と子は繋がりこそあれ別々の個体であって別々の人格であるのだから、全く同じであるわけがないんですよね。私はゾルディック家のカルトちゃんにもこの気がありそうだと勝手ながら思っていて、そのために「毒」という短編を書きました。親と子は同じではない。当然のことながらそれを認めない親もいるし、私のように意識しすぎる子供もいる。だから文章にしてその都度確かめなくてはならない。

◎話が大きくそれましたが、「空の器」を書いている傍らで私の恩師にこの話をしたら、教会では毎年11月に「自死者のための追悼ミサ」というものをやると教えてくれました。本来、キリスト教は自殺をタブー視します。その教会で「自死者を弔うためにミサ」をやると言うんだから意外な話です。興味本位で行ってみることにして、それに母を誘おうと思いました。母もまた、これから甥っ子たちがどうなるのか…ということに気をもんでいたし、叔父さんの死をどう受け入れれば良いのか決めかねているようだったので。実際行ってみると、参列者はやはり自死で身近な人を亡くした人たちばかりのようでした。1時間くらいのミサで、ずっと啜り泣きが聞こえてきます。終盤になると抑えきれない嗚咽さえも聞こえてきました。この人たちもまた、父を、母を、子供を、友達を亡くしたのだと思うとやりきれませんでした。先に言ったとおり、自殺は世間には「隠さなきゃいけないこと」なんです。人に気軽には話せないこと。自分の心に留め置かなくてはいけないこと。それがどんなに重くても、苦しくても。でもあのミサでは「自死者のため」と銘打っているから、哀しみと苦しみの中で死んでいった人たちを思って泣くことが許される。そんな感じがしました。

◎そんな中で、私が専ら考えなければならなかったのは、「叔父さんが天国に入れたかどうか」ということでした。キリスト教では自殺は禁じられているけれど、全ての自殺者が絶対に地獄に堕ちるんだろうか。自ら死を選ぶしかないほど苦しんだ人たちでさえ、神様は天国の門前で彼らを追い返すんだろうか。くだらない考えだと思うでしょうか。でも私にとってこれははっきりさせなければならない問題でした。そして信頼できる神父様に聞いてみたら、「自殺者は、死を選び、実行する時には大半の人が正気ではなくなっている」という回答が返ってきました。彼らはその時点で心の病気になってしまっているんだと。だからその人たちに責任はない。しかし正気を失うほど苦しんだ人々をどうして神が見捨てられるだろうか、私たちは神の赦しの愛に大きな信頼を持って期待している。現代の教会の考えはこのようなもので、頭ごなしに自殺者は地獄に堕ちるなどとは言いません。それに、自殺の定義を「自ら死を選んだ人」とするならば、キリストもまた自殺者なのです(誤解を招く発言かもしれないけど教会の広報誌にも書いてあったことです)。更に言えば、自殺したユダでさえ彼が今どこにいるのか私たちに知る術はありません。聖書の中にはユダが自殺をしたとまでは書いてありますが、地獄に堕ちたとは書いていないんです。つまり、私たちに本当の意味での自殺の線引きはできないということなのだと思います。

◎結局叔父さんが今どこにいるのか、ということも私にはわからないのですが、それから毎年追悼ミサには行っていて、その日だけは母も一緒に教会に来てくれます。私がこうして“死”について考えることを母は不思議そうにしています。まだ若いのに、どうしてそんなことを考えるの?と。でも人間いつ死ぬかわからないじゃないですか、それなのにどうして“死”について考えないのか、私にとってはそっちのほうが不思議なんですが、やっぱりおかしいんでしょうか。わりと小さな頃から人の死に触れる機会があったので、そのためなのかなと自分では思っているのですが…(年齢に対して葬式に出てる回数はたぶん多い方かと)あとは、母親が昔事故で死にかけたことがたぶん一番大きな原因なのかなあ…と、今これを書きながら自己分析しているわけですが。たぶん子供の頃の最も大きなトラウマがそれで、母の死の予感を通して「あ、人って突然いなくなるんだ」「こんな風に突如終わることがあるんだ」と強く刷り込まれたような気がします。

◎私は自他共に認める捻くれ屋なのですが、こういう考えであることも手伝って、「ずっと一緒」とか「信じる」とかそういう言葉に違和感とか嫌悪感を抱くタイプの子供でした。これに応えられなくて、男の子が望むような返答をしてあげられずに傷つけたこともある(笑)普通逆だろがって感じですが。だからこそ、何故今ある人や物や感情がずっと自分のものであると思えるのか? ということが長らく不思議でたまらなかった。「いずれ世界は止まる」っていう昔書いた短編で、シャルナークにこの旨を吐き出させたことがありました。『死ね。今すぐにでも、死ねばいい。何もかも手に入れているだなんて、感違いも甚だしい。確実に掴んでいるものなんて何一つないクセに、一体何に満たされたつもりで大口を開けて笑っているんだろう。失うことに鈍感で傲慢を絵に描いたような人間。あんなの女じゃない、欲に塗れた豚だ。無闇に自分を着飾って、身の上も知らずに男に媚を売る。ああ、反吐が出る。反吐が出る。』←引用ママ。今読み直したらすごい毒づいてます。でも創作とはその名を借りて自分の溜め込んだ感情を昇華するものだと思っているので、これは当時の私の考えであり、その地続きに今の私がいるのです。

◎今でも他人を見ていてそんな気持ちになることがあります。刹那的なものに夢中になって、自分を実際のもの以上に着飾って(SNSなんかはその極みだと思ってる)、その後に一体何が残るんだろう。虚しくはないのか、もっと確実な、永遠に消えることのない絶対的なものを見つけたいとは思わないのか。私は自分の青春時代の多くをこの探求に注ぎ込んだ、そのことに一切の後悔がないのは幸せなことです。周囲から見たらリア充とは程遠いと思うけど(笑)毎日生きてて楽しいですよ。

◎結論としては、どうかどうか自殺だけはしないで、ということかな…。死んで楽になれるなんてことはない。それしか考えられなくなる前にたくさんの人に助けを求めて、そしたらきっと誰か一人は手を差し伸べてくれるはず。一人、二人に当たって駄目だったからとくじけないで、死んでしまう前にプライドなんか捨てて、誰かに泣き縋る勇気を持ってほしい。偉そうな物言いだけれど、死んで終わる話ではないから切実にそう思います。

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