ピリオド

  • since 12/06/19
 見上げた僅かな隙間から、光が零れていた。手を伸ばす。羽をだし、光を追いかける。地響き。轟音。体が、心が震える。這い上がる。這い上がれ! 早く、早く、早く! 閉じる前に!
 はっはっと、忙しない呼吸を繰り返しながら両手を見る。振り向く。眩しさが目に染みて、痛くて、眦から涙が零れた。
 こうして、サンダルフォンは二千年の幽閉から抜け出して、自由を手にした。



 空の民が行き交う市場を、サンダルフォンは、冷やかし交じりに、店を覗き込みながら歩いていた。パンデモニウムを抜け出して以来、ひっそりと、旅を続けている。ルシフェルに対する憎しみが消える事は無い。これから、何をしてやろうと思いながら情報収集を続けていくなかで、はじめて、自由を手に入れていた。研究所とパンデモニウム以外を知らないサンダルフォンにとって、空の世界は未知に溢れている。書物でしか見た事の無い、あるいは時折訪ねてきたルシフェルからの言葉でしか知らされることのなかったものが目の前に広がっていた。初めて目にしては、手に触れては、静かに、独り、感動を覚える。
 不意に、人込みに気付いた。人ごみ、というよりも人だかりというべきか。大道芸か何かだろうか。のんきに、すっかり観光客気分に、野次馬根性交じり、ひょいと人垣の隙間から覗き見る。
「おや、」
 蒼い瞳が、サンダルフォンを映し出す。サンダルフォンは、顔を青褪めさせて、よたりと後ずさり、逃げ出していた。何すんだ、馬鹿野郎! 人にぶつかりながらも、その怒声は、サンダルフォンには聞こえない。ただ、あの瞳から逃げることしか考えていなかった。その後ろ姿に、何を思ったのか、失礼しますねと取り囲む婦人たちの引き留める声も聴かずに、追いかける。
 悪手だ。
 サンダルフォンは、人の少ない道ばかりを選んでいた。いっそ、人込みの中を突っ切って、追い払ってしまえばいいのにと、掴んだ手を引き寄せて思う。
「逃げることはありませんよ」
 真っ青を通り越して、蒼白になった顔。震える唇が、恐々と名を呼ぶ。
「ルシフェル、さま」
「ルシフェル?」
 男は首を傾げる。
「いえ、私はルシフェルではありませんが……」
 そう言いながら、男は考え込む。優雅に、ゆったりとした男の様子に、段々とサンダルフォンも冷静さを取り戻していた。おかしな話だ。二千年が経っているとはいえ、天司が街中に、人込みの中に溶け込むだなんて。自分のことをすっかり棚に上げて混乱していた自分を恥じた。
「あなたはルシフェルという者から逃げているのですか?」
「……あぁ、」
 しかし、逃げているというのはやや語弊があるか。サンダルフォンは付け加える。
「あの人が、俺を追いかけるだなんて、在り得ないだろうけれど」
 パンデモニウムに幽閉された二千年間。ルシフェルからは何のアクションもなかった。脱走したサンダルフォンに、気付かないはずがないのに、ルシフェルがアクションを起こす事は無かった。もう、ルシフェルのなかで、サンダルフォンという存在は忘れ去られている。サンダルフォンの叛乱なんて、脱走なんて、ルシフェルの気を引くまでもない些事でしかないのだと思い、自嘲するように、歪に笑ったサンダルフォンを静かに、男は見つめる。
「ふむ……なら、これではどうでしょう?」
 パチン
 男が、指を鳴らした。
「なにが……ん!? なにを、なにをした!?」
 誰の声だろうと、思った。自分の発しようとした言葉を、聞き覚えの無い女の声が発している。そして、その女の声が自分の喉を震わせていることに気付いた。まさかと思いながら喉に触れれば、喉仏といわれる部位はなだらかな曲線を描いているだけ、ぺたぺたと自分の身体に触れれば男性体の特徴が無くなっている。骨格も、手足も華奢に、細くなっている。造られた時からあった肉体が、変化をしている。
「これなら見つかりませんよ」
 と自信満々に言う男に、サンダルフォンは茫然とする。
「見つからないって、きみ、どうやったんだ」
 得体がしれない。天司長が作った体だ。それを、容易く、塗り替えられた。否、上書きではない。サンダルフォンは自分のコアを確認して、理解をしている。根本から書き換えられている。それほどの技術を、なぜ、この男が持っているのか。
「あまりにも、あなたが可哀想なほどに怯えていたので」
 真意は、わからない。
「ところで、これからどうなさるおつもりで?」



 ルシオという、ルシフェルとよく似た男との旅路は一見すればルシオにしかメリットが無い。浮世離れしているルシオを引っ張り、空の民らしい生活をする。サンダルフォンがいなければ、ルシオはいつまで経っても人垣から抜け出せず、また争いの火種になってばかりいた。それも、サンダルフォンがいることで頻度は減った。代わりにより激しいものになったのだが。
「……なぜ、主は私を美しく造ったのか…………」
「きみいい加減にしろよ」
 今日も今日とて、女性に囲まれたルシオを引っ張りだしたサンダルフォンは、あなたは何なのよ! というヒステリックに難癖をつけられた。女性に苛立つ事は無いにしても、まるで無関係ですと言わんばかりのルシオに対しては殴ってやろうかと細くなった指を拳にしてぎゅっと耐えた。
 毎日がこんなことの繰り返しで、サンダルフォンは何だか復讐なんて馬鹿らしくなってしまう。ルシフェルにとってサンダルフォンが、もう忘れされれているのなら、もう新しい人生、として生き直そうかな、なんて考えてしまったのだ。



 フードを目深に被ったサンダルフォンは、きょろきょろと周囲を見渡して、ルシオを探していた。人目を集める癖に、忽然と姿を消す男だ。サンダルフォンが店先に出ていた珍しい珈琲豆にちょっと気を取られた、一瞬のうちに、姿をくらませていた。
「どこに行ったんだか」
 きょときょとと見渡す。人だかりが出来ていれば、十中八九、あの男がその中心にいるのだ。けれど、生憎と、小さな祭りが開かれていた。どこもかしこもに、人の群れが出来ている。サンダルフォンは、もう、宿に帰ってしまおうかな、なんて考えてしまう。ルシオが聞けば私を見捨てるのですね、なんて被害者ぶるから最終手段だ。それでなくても、サンダルフォンは責任感が強い。今だって、ルシオを野放しにしてしまったことに責任を感じているのだ。野放しにした結果、あの男のいう所の、美しさの所為で争いが起きてしまうのだから、一概に馬鹿に出来ない。
「サンダルフォン」
 世界が止まったのではないかと、思った。その声だけが、耳朶を打つ。喧騒が消えた。鮮やかなバルーンが色を失う。あちこちから立ち込める芳ばしい香りも、消え失せる。サンダルフォンは、振り向くことが出来ない。振り向いては、いけないと警鐘が鳴る。
「ここにいたのか」
「……、私のことですか?」
 心臓が、口から飛び出しそうだった。サンダルフォンは、何も知らないというように振り向いて、言葉を発した。思った通り、描いた通りの人が、困惑を浮かべて、サンダルフォンを見下ろしている。サンダルフォンは困ったように、申しわけなさそうな顔で、
「ごめんなさい、急いでいるの」
「何を言っている? サンダルフォン」
「人違いじゃないかしら」
「私が、サンダルフォンを間違えるとでも?」
「そんなことを言われても、困るわ。私、あなたのことを知らないもの」
 冷や汗が背を伝う。サンダルフォンは、申しわけない顔をしながら、内心で、泣きたくなっていた。恐ろしくて仕方がないし、こんな口調で、こんな姿で、ルシフェルの前でシラを切った手前、弁解が出来ない。違うと、言い続けるしかないのに、誤魔化しなんて、効く相手ではない。蒼穹の目が不審を浮かべて、手が伸ばされる。

「妻に、何か御用でしょうか?」
「ルシオ!」
 サンダルフォンの、明らかなほっとした声に、喜色を含ませた呼びかけに、ルシフェルが眉をひそめた。ルシオに駆け寄ったサンダルフォンには、見えない表情。その表情を認識したのは、ルシオだけだった。
「妻?」
「ええ、妻です」
 おい、ルシオ。サンダルフォンがルシオの背から小さく抗議するも、ルシオはまあまあと言うだけだった。サンダルフォンは、ルシオの背に隠れながら、様子を伺うしかない。ピリピリと肌がざわめく。殺気が向けられているのだと気付いてしまう。怒らせてしまった。かつて、叛乱をおこした時ですら、一度として、向けられた事の無かった負の感情に、戸惑いを覚える。その感情は、ルシオに向けられたものなのだが、サンダルフォンには分からないし、ルシオも態々口にする事は無い。

 ルシオと呼ばれた男に駆け寄り、全幅の信頼を寄せる姿に、妬みを抱いた。本来、そこにいるのは、そこにいたのは私だと言葉にしかけて、その権利はない事を知った。頑なに、サンダルフォンではないと言い切り、あなたのことなんて知らないというサンダルフォン。女性体になっていたとしても、サンダルフォンではることに変わりはない。そして、肉体は変化していもその性質や、記憶に手が加えられていないことも、ルシフェルは察知している。あの男が、原因だろうか。ルシオという男。人ではない。かといって、星晶獣にも属していない。空の世界を遍く見続けてきたルシフェルにすら、範疇外の男。サンダルフォンに何をした。問い詰めようとした瞬間、ルシオは失礼しますねと笑顔で言って、その姿が掻き消える。気配を探ろうにも、どのような術を使ったのか、途絶えてしまう。柄にもない、舌を打ちそうになる。この所為で、サンダルフォンの気配が途絶えてしまった。



「それにしたって、どうして顕現されたのだろう」
 水滴の零れる黒髪を拭きとりながら、疑問を口にしたサンダルフォンの顔色はほんのりと色付いている。昼間の出来事からやっと回復をしたようだった。日が暮れてなお、祭りの夜とだけあって、まだまだ収まらない賑わいが宿からも感じ取れる。
「あなたがいたからでしょう?」
「それが、理解できないんだ」
 伸びた髪を一房つまんだサンダルフォンは、
「俺を連れ戻すなら、もっとスマートな方法が出来たはずだ。態々、人間態をとらずとも、あの御方なら、それこそ、指先一つで、俺なんてどうになって出来ただろう。なのに、それをしなかった」
 俺にその価値がない、っていうのも分かっているけどな。
 当たり前のように付け加えられた自虐に、さっぱり分かっていないサンダルフォンに、ルシオは憐れみの視線を向けてしまう。サンダルフォンにではない。ルシフェル、という天司長にだ。
 ルシオとて、人の心について聡いわけではない。それにしたって、ここまで伝わっていないとなると、もはや憐れんでしまう。サンダルフォンにとっては、ルシオのお蔭というべきか、ルシフェルにとってはルシオの所為というべき、突然見失ってしまったサンダルフォンの気配を探し続けてきた天司長がちっとも報われない。ルシフェルという男の妄執というべきその執着を、サンダルフォンは理解していないようだった。きっと、サンダルフォンを気遣ってなのだろうが、それでも気に取られることなく、サンダルフォンのことを見守り続けていたのだろう。
「まあ、今日はきみのお陰で助かった。礼を言う」
「……あなたがそれで、良いのなら」
「? 良いから礼を言っているんだ」



 ルシオが、騎空団に属することになったのは旅をしてから暫く経ってのことだった。旅の目的も、素性も互いに知らないが、相性は、特別に悪いわけではなかった。サンダルフォンにとって、ルシオは、友人、というべき、対等な存在だったから、別れが訪れたことに、寂しいと思った。今まで世話になったなと、告げるつもりでいたのに、どういう理由なのだか、サンダルフォンもセットとして、招かれていた。まだ設立して間もないという騎空団だった。団員は少ない。ルシオと、サンダルフォンという過去も素性も、目的も明かす事の無い言わば、不審者と変わらない人間ですらない二人を、よほどのお人好しなのか、人を疑うことを知らない団長に、歓迎されて、そのまま今に至る。
「ねえ、ルシフェ「知らない」あ、はい」
「サンダルフォンさん、ルシフェルさ「いま忙しい」あ、わかりました」
 団長と、蒼の少女はどういう訳か、ルシフェルに目を掛けられているらしい。彼らの前に姿を見せているようだった。サンダルフォンの前には現れない。清々した! と胸を撫で下ろすことは、サンダルフォンには出来なかった。むしろ、どういうつもりなのだろうと訝しみ、結局、自分はその程度の存在価値なのだろうと不貞腐れる。
「サンダルフォン、あのきらきらした兄ちゃんをどうにかしてくれよ〜」
 赤き竜、というよりも羽の生えたトカゲにしか見えないビィがサンダルフォンの背中に隠れながらぐいぐいとサンダルフォンの背中を押す。そんなビィを追いかけていたのはルシオだ。ビィがサンダルフォンを頼ったのが面白くないというように、むっとしている。サンダルフォンがしっしと手も添えて追い払うとぷりぷりしながら全くと、こっちが言いたい台詞を吐きながら去って行った。ほっとしたように安堵して、よじよじとサンダルフォンの頭に登るビィを片手で支えながら、
「これから珈琲を淹れるが、君も飲むか?」
「おう! 砂糖とミルクはたっぷりで頼むぜ!」
 了解した。もはら、本来の珈琲のうま味も何もない、カロリーの塊のようなカフェオレを思い出して、サンダルフォンは少しだけ、笑った。

2018/12/16
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