「サンダルフォン、」
珈琲を淹れてくれない? 疑問符をつけているくせに、その顔には断られるなんてちっとも思っていない、想像をしていない特異点がねだってくる。いつからか、ミルクも砂糖も必要としなくなった。特異点は、苦味に顔を歪めることなく、当たり前にブラックコーヒーを口にするようになっている。もう砂糖もミルクもいらないからね。そう言って、周りに自慢をするように宣言をすることもなくなってしまった。虚しさを、覚える。けれど、その虚しさも掻き消える。相変わらず、賑やかな騎空団だ。ルシファーの遺産を破壊しても、トラブルに巻き込まれ、トラブルを起こしている。平穏な日なんてありはしない。毎日が慌ただしくて、感傷に浸る暇もない。俺は仕方ないなと言って、ケトルを手に取った。そろそろ、珈琲の味が分かってきた特異点だから、少し良い豆で淹れてやろう。
「サンダルフォン、」
ちょっといい? 低い声に呼びかけられて、振り向いた。すっかり、歴戦の騎空団のトップに相応しくなった特異点だった。引き受けた任務の編成に悩んでいるのか、依頼内容の詳細の書かれた紙面を読みながら難しい顔をしているのを、見上げる。見下ろしていたことが、昨日のように思い出せる。つむじを見ていたというのに、今では見下ろされている。人の成長とは、あっと言う間もない。昔は俺が兄で、特異点が弟と装うこともあったし、間違えられることもあったというのに、今では逆だ。それどころか、親子だなんて、勘違いをされることもある。俺にとっても、特異点にとっても、複雑なことだった。
「サンダルフォン」
名前を呼ばれなくなって、どれだけの季節を巡ったのだろう。春の芽吹き、夏のするどい日差し、秋の澄んだ風、冬の寂しさを、一人、繰り返してきた。かつて、所属した騎空団はもはや空の世界において伝説として語られる存在となっていた。団員たちの多くは既に世を去り、見届けた。同族や、不死といわれる面々は、長い生命のなかで、出会いと別れを体験してきても、慣れることはなく、一人、一人と見知った人の死を見届け、最後の一人を見送ったあと、元のあるべき場所へと帰って行った。あるいは、旅を続けている。俺は、どうしたらよいのだろうと、途方に暮れた。今まで、ルシフェル様との約束を果たすことだけを考えて生きてきた。ルシファーの遺産を破壊して、さてどうしようと思う暇もなく、特異点が差し伸べた手を取った。今になって、わからなくなる。俺は、どこへいけばいいのだろう。何のために、生きていけばいいのだろう。独りになって、取り残されたことに気付いて、迷子になったような心細さを覚える。胸に風穴があいたような、不安を抱く。けれど、その風穴を塞ぐ人はいないし、俺には、手段も無い。
「サンダルフォン」
災厄の天司。空の世界を救った天司。二つの面を持つ天司として、好き勝手な脚色を加えられたサンダルフォンが、空の民の間で語られていることを知り、むず痒さを覚える。災厄を引き起こしたことは、否定をしないしサンダルフォンとは、そういう天司なのだ。けれど、空の世界を救ったと言われると、なんだか恥ずかしくなる。俺は、空の世界のためだけに行動したのではない。俺は、ルシフェル様との約束があったから、動いて、結果として、空の世界を救ったに過ぎない。かつて騎空団に属していた空の民が、己が見たこと、感じたことを各地で転々と謳い続けていたようだった。それが、いつしか一人歩きをして、今では原型が僅かにしか残されていない歌として語られている。空の世界において、サンダルフォンが天司長として語られていることに、四大天司は異を唱えることがなく、不満を抱いている様子はない。天司長として、扱う。彼らにとってのサンダルフォンは、もはや、敵対した、襲撃をうけた、災厄を引き起こした天司ではなく、天司長になっている。彼らに認められたのか、彼らの役割として、俺を天司長として扱わざるを得ないようにインプットされているのか、分からない。けれど、どうしようもなく、叫びたくなる。違うだろうと、否定したくなる。俺にとっての天司長は、あの人しかありえないのに。あの人が、どこにもいない。この世界に、あの人がいない。それを、まざまざと突きつけられているように、感じてしまう。あの人の面影を探す。
「サンダルフォン」
口にする。音を乗せる。あの人から頂いた中でも、特別なもの。俺にだけ、与えられた、特別なもの。そんな特別なものも、誰にも呼ばれない。島と契約をしている星晶獣たちは永遠の眠りについた。今度ばかりは、眠りから覚めることは二度とない。戦争のために造りだされて、人に翻弄され続けてきた彼らの生が、不幸だけでないことを、知っている。長い命のなかで、僅かであっても、穏やかな時を過ごしていた。その時間を思い出しながら、安らか眠りにつけたならと願いながら、小さく、羨ましく思ってしまう。天司たちの多くも役割を終えて、機能を停止した。今、活動しているのは上位天司のごく一部だけだった。空の世界は、空の民の元に還されようとしている。
「サンダルフォン」
名前を忘れかけて、その度に、あの人が呼びかけてくれる。優しい声で、美しい音で紡がれる。あの人に呼び掛けられるたびに、心が満たされた。忘れていない。珈琲を初めて飲んだ時、泥水のようだと思ったけど、強がって、あの人の期待に応えたくて無理をした。美味しいです、と言えば嬉しそうにしていた。その御顔が見たくて、無理矢理に飲んでいくうちに、苦味になれて、酸味に気付いて、風味を味わえるようになった。中庭での珈琲の時間が待ち遠しかった。いつも、誰も訪れることない部屋の扉がノックされるのを待ちわびていた。
体が動かない。指先すら、動かすこともままならないほど、力が入らない。瞼が重い。意識が、白く塗りつぶされる。
世界に力を返還した。あの人の願った通りに。時間を掛けて。本来あるべき力のあり場所。空の世界のすべてを、空の民に還した。きっと、彼らなら、困難に打ち勝てる。確信がある。何千年も、彼らのそばで見てきたから。空の民たちの強さを知っているから。元々、空の民たちに与えられていた力を、俺たちが司るだなんてことが、烏滸がましかったのではないだろうか。あの人は、なんていうのだろう。
もう、意識が保てない。
「サンダルフォン」
貴方の声がする。
「ルシフェル、さま?」
白い世界に、浮かび上がるように、あの人が居た。白銀の髪、蒼穹の瞳。苛まされ続けた悪夢のように、するりと首が落ちることなく、中庭での逢瀬のように、浮かべている笑みは苦痛にゆがむことなく、静謐に佇んでいる。おそるおそる、手を伸ばす。貴方に、触れる。温もりは、消えない。
「今まで、よくやった。サンダルフォン」
「あ……、あァ……」
ただ、その言葉が聞きたかった。
2018/12/03