ピリオド

  • since 12/06/19
 人込みをかき分ける。居場所はわかっている。なのに、思う通りに動くことが出来ない。全空でも一、二を争う程の活発な商業都市とだけあって、市場の賑わいには目を見張った。貿易が盛んであり、文化の交流、という面でも、人の行き来が激しい。特に乗り寄せた場所は、荷を運ぶ騎空挺の多くが集う地点だった。その地点から展開される巨大な市場では、入手手段の限られている珈琲豆が割高とはいえ、探せば売られていた。サンダルフォンは興奮に、頬を赤らめて、宝物をみつけたようにはしゃいでいた。人の流れに気を付けながら、店を梯子していた。だというのに、気付けば忽然と、隣にいた姿が消え失せていた。サンダルフォンは、流れに呑まれてしまっていた。人波に消えて行ったサンダルフォンの居場所は、すぐに察することができた。人の通りが激しい。思う通りに進まない。市場を通い慣れた人間がするすると脇を通り抜けていく。もどかしさと、早く迎えに行かなければという焦りが募る。遠巻きに、視線を注がれることには慣れていても、体が触れ合うほどの距離感で、もみくちゃにされることにはまだ、不慣れだった。
 紆余曲折を経て、復活をしたルシフェルは、特異点が率いる騎空団の一員として、天司長ではない、ただのルシフェルとして生きている。やや、頑丈な(それでも空の民が彼にかなう事は例外を除いて無い)人間のように振る舞い、生活をしている。サンダルフォンは不服をいうこともなく、瞋恚の目で、みつめることなく、あなたの意思であるのならと、ルシフェルの選択を尊んだ。役割に固執して、絶望した天司はどこにもいない。復讐を果たした天司は、笑みを浮かべた。かつて、ルシフェルのために役立ちたいと、純真に願う、安寧が浮かべた笑み。
 どうにか、人ごみをかき分けた視線の先には、団員ではない、見知らぬ男に言い寄られ、壁際に迫られているサンダルフォンが目に入った。言葉を聞きとるに、道を聞かれているようだった。にしては、男の距離はいやに近い。触れるか、触れないかの距離にいる。サンダルフォンは、人が多いから仕方のないのだろうと、しぶしぶとその距離を許しているようだった。男は一切、サンダルフォンの許しに気付いた素振りはなく、ぐいぐいと迫っている。
「お礼がしたいんだけど、このあとどうかな」
「礼をされるほどのことじゃない」
「いやいや、助かったよ。きみがいなければきっと迷い続けていた!」
 大袈裟な男の言葉には、明らかな下心がある。男にとっては、使い慣れた軟派手段で、言い慣れた言葉なのだろう。すらすらと、流れるような台詞回し。しかし、サンダルフォンは気付かない。まさか、自分に下心を持つ人間がいるだなんて、思ってもいない。まさか、自分をそういった目で見る人間がいるだなんて、想像すらしたこともない。出来ない。

 ルシフェルという、完璧として造られた男が造りだした、世界にただ一人。完成された個であるルシフェルの手によって造られた、世界にただ一人。ルシフェルが美しいと思ったものを詰め込み、注ぎ込み、慈しんだ、世界でただ一人の女。それが、サンダルフォン。サンダルフォンを形作っているものは、誰もが欲しいと手を伸ばす、誰もが焦がれる、美しいもの。
 サンダルフォンが、醜いはずがない。凡庸であるはずがない。求められないはずがない。
 だというのに、サンダルフォンは自身に対する評価が低い。
 サンダルフォンの心に触れた蒼の少女や、サンダルフォンについて散々ルシフェルに振り回されている特異点たちが、どれだけ言葉を掛けても、心を砕いても、サンダルフォンが彼らを信頼するようになっても、その一点に関してだけは、決して、聞く耳を持たない。ルシフェルの言葉すら受け入れてないのだから、猶の事。
 目の前で、男がサンダルフォンの手を取る。白く細い指先。ルシフェルが美しいと思った、穢れの無い初雪。見知らぬ男が、無遠慮に、触れていた。穏便に済ますことができるだろうかと、自信がなくなる。
「そこで、お茶でもどうかな?」
「人を探してるから」
 男は、うんざりと断り続けるサンダルフォンを意に介さない。
「サンダルフォン、探したよ」

 細い腰を抱き寄せる。驚いた男の手から、するりとサンダルフォンの手を引き抜く。サンダルフォンは、つんと澄ませた表情を造ろう余裕もなく、素の、幼くみえる顔で、ルシフェルを見上げた。サンダルフォンに声を掛けていた男が不服にしているのを、目で制する。男はたらりと冷たい汗を垂らして、きょどきょどと誰かに助けを求めるように視線を彷徨わせて、それから悲鳴一つ、上げることなく、その場から、がくがくとする足を必死に動かして、逃げ去っていく。魔物との戦闘どころか、チンピラを相手に喧嘩をすることもない男が、ルシフェルの殺気混じりの視線を受けて、失神をしなかったのは、ひとえにサンダルフォンがいた幸運に尽きる。サンダルフォンに気取られない程度の視線だった。尤も、こんな目にあったのはサンダルフォンに手を付けようとしたからなのだが。
 人にぶつかっては、どこをみているんだという怒声、きゃっという女性の悲鳴にサンダルフォンは首を傾げる。急にどうしたのだろうと。それから、道順は教えたのだから、問題はないだろうと、サンダルフォンの意識から男についてのことが消え去る。会ったばかりで、先ほどまで会話をしていたというのに、顔も声もおぼろげで霞掛かる。その程度の出来事でしかない。サンダルフォンの意識はルシフェルに向かう。
「はぐれてしまって、申し訳ありません」
「この人込みだ。仕方のないことだ。それよりも」
 腰を抱き寄せたまま、手をられたまま、ルシフェルは歩き出し、サンダルフォンも追従するしかない。足のコンパスを合わせているのだろう、ゆるやかな足取り。いっそ、サンダルフォンが一人で歩くときよりも、ゆったりとしている。だからこそ、腰に添えられた手の大きさを、取られた手の熱さを、耳を掠める吐息を、意識してしまう。ぞわぞわと羞恥が沸き起こる。こういう時は、どうするべきなのだろうと経験の無いことに、戸惑う。
 視線がちくちくと刺さる。ルシフェルからのものではない。背中から、真正面から四方からの視線。覚えのある視線で、決して、好ましいものではない。あの美しい人の隣に、どうしてみすぼらしいものがいるの? 視線が、サンダルフォンを詰る。王子様とお姫様みたいとうっとりと見惚れる少女の視線も、羨ましい美男美女だと嫉妬も湧き上がらずまじまじと見つめる青年の視線にも、いいものが見れたと囁き合う声にも、気付く事は無い。

「……もう少し、警戒心を持ってほしい」
 人の波に浚われないようにと、サンダルフォンを抱き寄せたルシフェルは、懇願する。意図が分からず、思わず、見上げた。曇ったように、覆われた空色が、サンダルフォンを見つめる。何を言っているのだろうと、全く理解できず、それどころか、自分はそんなに、か弱く思われているのだろうかと、見当違いに思考が行きつく。
「あの程度の男に、警戒をする要素はあるのでしょうか? そんなに、弱くみえますか?」
「違う。そうではない」
「ならば、警戒もないでしょう?」
 口で強がりを言っておきながら、確かに、警戒が足りなかったと反省をする。もしも。あの男が、ルシフェルを狙って、サンダルフォンに接触をしたというのなら──……。あの程度の男に、ルシフェルが傷付けられるわけがない。分かっていても、もしもを考えて、自分の所為でと想像したら、ぞっと、戦慄する。ルシフェルの懸念とは、かすりもしない考えに至る。サンダルフォンにとっての一番は、ルシフェルである。何に置いても、優先をする。揺らぐ事の無い、不動の位置にルシフェルは君臨する。
「あの男は、君を欲して、近づいた」
「まさか」
 サンダルフォンは、笑ってしまう。自虐だとも認識もしていない。好意をもたれるだなんて、欲しがられるだなんて、微塵にも信じていない。自分にだけは絶対に、向けらえることのない感情だと信じてやまない。
「ありえません」
「ありえることだ」
 雑踏を抜ける。
「きみは、とても魅力的だ」
 そう言ったルシフェルの声は、よく響いた。
 石畳を、サンダルフォンのヒールが鳴らす。
「御冗談を」
 数えることを放棄するほどのやりとり。あまり、面白い気分にはなれない。ルシフェルの言葉を、疑うだなんて、もう二度と、しない。ルシフェルはいつだって、真面目に、真摯に、サンダルフォンと向き合っているのだと、自覚をしている。サンダルフォンとて、成長をした。いつまでも、過去の言葉を引き摺るつもりはない。それでも、復活をして以来、口にしている言葉には頷くことが出来ない。空の民に感化をされたのだろうかと思うが、どうにも慣れることが出来ない。受け流すことが出来ない。かといって、嘘だと断じて疑うことは出来ない。嘘ではないが、決して、サンダルフォンに相応しい言葉ではないからだ。
 伝わることのないもどかしさに、ルシフェルは目を伏せる。どうしたら良いのだろう。それから、無垢に、警戒心を抱くことなく、ルシフェルに心を許すサンダルフォンが、傷つく事の無いように、優しい心が甚振られることのないように守らなければと思うのだ。ルシフェルが守るから、守られているから、サンダルフォンは警戒心を抱くことが無い。
 思い詰めた顔をしたルシフェルの横顔を盗み見て、サンダルフォンは小さく、口の中でつぶやく。
「やっぱり、きれい」
 刷り込みと言っても良い。美しいというもの、綺麗だというもの、人を惹きつけるものについての認識は、固定されている。すべて、ルシフェルになってしまう。サンダルフォンにとって、魅力的なものは、ルシフェルを表す言葉だ。まさか、自分を表すだなんて、夢にも思っていない。
 二人は気付かないし、これからも、気付く事は無い。

2018/11/25
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