ピリオド

  • since 12/06/19
「お前は、俺のことを愛することはないだろう」
 予言めいた言葉だった。
 首を傾げる。何を言っているのだろうと、訝しむ。視線に気付いたルシファーは、何でもないと、言うだけだった。何でもないわけがないだろう。言葉自体を取り消すつもりはない。サンダルフォンの不安を煽っておきながら、サンダルフォンの心に波紋を投じておきながら、そのくせ、サンダルフォンが何を言っても応えはしない。聞く耳を持たない。ルシファーの中で、完結をしている。頭が良いから、抱いた疑問を、一人で解決する。解決してしまう。答えをだしてしまう。サンダルフォンの言葉を、答えを、求めない。
「どういう意味だ」と、問い詰めようと、口を開きかける。だというのに、ルシファーはこの話は終えたと言わんばかりに、実際に、ルシファーの中では完結をしているから、化学ジャーナル誌を広げていた。項垂れる。諦めるしかない。一旦自分の世界に入り込むと、外野の言葉が聞こえなくなるほど、集中してしまう。ルシファーの世界は今、サンダルフォンには理解できない最先端技術についてと論文で埋め尽くされている。
 何もかも、いつも通りだった。遅く帰宅したルシファーを出迎えて、食事を疎かにしがちで、気に掛けなければゼリー飲料や、固形のバランス栄養食で済ませてしまうから、ルシファーに無理矢理に食べさせる。その様子を、既に食事を終えたサンダルフォンは、珈琲を飲みながら見つめる。時折、今日起こったことを話す。それが、二人の日常だった。変わった素振りは何一つなかった。帰ってきてから食事を終えるまで。ちっとも、異変はなかった。
 誰かに、何かを吹き込まれたのだろうかと考えて、そんなわけないかと一蹴する。人の意見なんて聞く男ではない。それがどうしたと鼻で笑う姿が目に浮かぶ。
 独り言のような言葉だった。思考の整理をして、ぽとりと零れ落ちたような言葉だった。それを、たまたま、サンダルフォンの耳が拾ってしまった。サンダルフォンに対して、口にするつもりなはかったようであった。ルシファーがサンダルフォンに対して思っている。抱いている疑心。最早、ルシファーにとっては疑心ではなく、真実となっている蟠り。
 サンダルフォンにとって、ルシファーは初めての恋人だ。それまで、他人に対して友愛の情を抱いたことはあっても、焦がれる情を抱いたことはない。そんなサンダルフォンに恋をひも解き、愛を教えたのは、ルシファーに他ならない。ルシファーだから、身を許した。ルシファーに、恋をした。ルシファーを、愛している。その感情を、否定されたのは、悲しい。苦しい。
 温くなった珈琲と共に、不満を飲みこんだ。



 愛することはない。ルシファーの言葉がぐるぐると繰り返される。愛しているつもりだった。サンダルフォンなりに、伝えてきたつもりだった。それが伝わっていない。違うのだろうかと、不安になってしまう。分からなくなってしまう。サンダルフォンが抱いた「恋」も「愛」も、ルシファーがサンダルフォンに求めているものと、違うのだろうかと、不安に駆られる。誰も教えてくれなかった。恋とはどういうもなのかなんて。愛の定義についてなんて。サンダルフォンが思い込んでいる恋も、愛も本当は違うものなのだろうか。
(恋や、愛の教科書があればいいのに)
 夕方の駅前は、学校帰りの学生や仕事が終わった社会人でごった返していた。人身事故が起きたため、遅れている電車を待つ人で、何時にもまして、人が多い。駅員に詰め寄る声や携帯端末で連絡を取り合う声がひっきりなしに耳につく。もみくちゃにされるのは御免だと、隣接するビルの本屋で時間をつぶす。別フロアのカフェに行こうかと迷ったものの、あまりの人の多さに嫌気がさした。考えることは同じなのだ。
 ぱらり、ぱらりと新刊雑誌の試し読みを流し見して、戻そうとした手に、誰かの手が触れる。慌てて手を引っ込めて、相手の様子をうかがう。すみません、という謝罪は、尻すぼみになっていた。目を、見開く。あまりに、似ていた。ルシファーは、その性格はさておいて、人の目を惹きつける容姿をしている。同じ顔をした人間が、この世には三人はいるなんて話はよくある。けれど、あの容姿が他にいるなんて思えなかった。思わず、呼びかけていた。
「ルシファー?」
「……いや、違う。ルシファーは、兄だ。間違えれることは、よくあるから。きみは、ルシファーの知人、だろうか」
 サンダルフォンは、絶句する。兄弟がいるだなんて、知らなかった。聞いたことも無い。思えば、親兄弟の話なんて、今までしたことがない。ルシファーと出会って、付き合うようになって、同棲するようになって、長い。だというのに、知らなかった。言われなかった。違う。知ろうと、しなかったのではないかと、自分の薄情さに気付いた。聞くなと、言われていない。サンダルフォンが聞けば、ルシファーは口にしたのではないか。顔を凝視したまま、かちん、と固まってしまったサンダルフォンに、男は気遣う様に、
「この後、時間があれば少し、良いだろうか」
 初対面の人間についていくほど、警戒心が無い訳ではない。だというのに、ルシファーとよく似た外見だからか、サンダルフォンは頷いていた。安堵したように、男が少しだけ、表情を崩す。良かったと言って、ちらりと腕時計を確認し、行こうかとサンダルフォンを呼ぶ。はいと応じて、その後姿を追いかける。その背中を追いかけることに、迷いはなかった。隣ではない。その背中を、後姿が見える場所が、サンダルフォンの定位置だった。

 案内されたのは、駅前からほど近い、小さな喫茶店だ。クラシカル、という言葉がよく似合う。初老の夫婦が営み、近所の常連客が居着く店内。小さなコミュニティが展開されている喫茶店だ。カランとベルが来客を告げる。こんな時間に珍しいなと、店主が驚いたように言う。常連なのだろう。サンダルフォンは知らない場所で一人、きまずい気持ちで、居心地が悪くなる。
「友人とそこで出会ってね。いつものを二つ」
 そう言ってから、はっとしたようにサンダルフォンを振り返り、問いかける。
「コーヒーは飲めるだろうか?」
「ええ、好きですよ」
「良かった……。ここのブレンドは、君も気に入ると思うよ」
 西日の入り込む窓際を避けた奥のボックス席に座る。
 珈琲に関しては、サンダルフォンは少しだけ、煩いと自負している。家の珈琲豆だって近所のスーパーで売っているありふれたものではない。専門店で買い付けて、自分で調合をしている。オタクと言ってもいいほどの、こだわりがある。気に入ると言われても、頷いておきながら、期待をしていなかった。何年も、自分で配合しては違うと改良を重ねているほどに、追い求めている味がある。なのに、運ばれてきた珈琲を一口飲んで、理想の珈琲だと、今まで求めてきた味だと、衝撃が走る。その様子が、顔に出ていたのか、微笑ましいものを見る目で、サンダルフォンを見ていた。衝撃から、我を取り戻したサンダルフォンは気恥ずかしさに、口をもごもととさせる。
 人見知りが激しい、という訳ではない。初対面の人間に対して遠慮をしてしまうのは、誰だってあることだ。だというのに、ルシフェルという人間は不思議だった。初めて会ったはずなのに、会話が苦にならない。初めて会った気がしない。ルシファーと、良く似ている見た目だから、脳が麻痺して、慣れてしまっているのだろうかと思った。だが、会話が弾むたび、全く、異なる人間だとわかる。ますます、なぜだろうと、思念をめぐらす。
「ルシファーとはどのような関係なんだい?」
「ルームシェアをしてるんです」
 恋人、と言っていいのか迷い、濁す。彼が、カミングアウトしているのか知らないから。されているのか、知らないから。サンダルフォンとルシファーには接点がない。育ってきた環境も異なるし、学んできた学業も、職種も、年齢だって、共に社会人であるとはいえ、差がある。サンダルフォンも付き合っていながら、奇跡みたいだなと思う程だ。どうして俺と付き合っているのだろうと、自分を卑下するつもりはなくても、格差があることを受け止めている。
 ルシフェルが、ルシファーとよく似た色合いの瞳を伏せる。長い、白銀のまつ毛に縁どられた蒼が、言葉を探している。既視感を覚える。何処かで、みたことがある。どこだったろうか。待っていた。何を言われるのだろうと不安で押しつぶされそうになりながら、期待をする心が抑えきれなくて、、緊張をしながら、願う。望んだ言葉がある。言ってほしかった言葉がある。いったい、何を望んだ。何を、願った。あの時、掛けられたかった言葉は、
「きみは、ルシファーに、ひどいことをされていないだろうか」
 ひどいこと? 思わず、繰り返してしまう。ルシフェルが、言葉を選ぶ。サンダルフォンが不快にならないように、傷つかないように。傷付けないように、それでも、聞かなければ、ならない。それが、今のルシフェルに出来る、償い。
「傷付けられたりだとか、いじめられたりだとか……。なんでも、君が、サンダルフォンが悲しいと、苦しいと思うことは、されていないだろうか」
 否定できなかった。それは、肯定と変わらない。悲しいと、苦しいと、思ったことはある。現に、サンダルフォンを苛む言葉。柔らかなひっかき傷は、じりじりと鈍い痛みを訴える。ルシフェルが悲しそうな顔をする。サンダルフォンは慌てた。 
「ひどいことを、されても、俺は、ルシファーと一緒にいたい」
 ルシフェルは、驚いたようだった。そうかと言って、目が伏せられる。思案する。ルシフェルさま。呼びかける声を思い返す。不安な顔を、笑顔で隠す。今のサンダルフォンと重なる。重なるけれど、今のサンダルフォンは、自分の意思で、選んだ。逃げ道を用意しても、助けを求めることなく、ルシファーを選んだ。
「きみは今、幸せだろうか」
 何が幸せであるのか、漠然とした問いかけにサンダルフォンは考える。けれど、決まっている。確かに、苦しいことはある。理解できないことはある。けれど、
「幸せですよ」
「そうか……。なら、良かった。きみが、幸せなら、私も嬉しい」
 可笑しな人だ。会って数時間程度の人間に対して。気味が悪いと思うことだ。なのに、サンダルフォンは、嬉しくなった。張り詰めた顔をしていたルシフェルが、笑みを浮かべる。柔らかな笑み。庭で、その表情をみることが、好きだった。ルシフェルが、気を許す瞬間。サンダルフォンは、胸の隙間が埋まるような、安堵を覚えた。

 いつも、脅えている。サンダルフォンが、するりと、ルシファーの手の中から離れて行ってしまうことを。侮蔑の色を帯びた目で、憎しみを込めた声で、呼びかけられることを。想像するたび、生きた心地がしない。想像するたびに、死にたくなる程の、虚無感に襲われる。
 想うだけであるなら、焦がれるだけなら、自由であっても、決して叶わぬものだと諦めることが出来るのに、取られた手を離したくない。離されたくない。失いたくない。
 今のサンダルフォンには、かつての記憶がない。天司であった頃を知らない。ルシファーが星の民であった頃を、覚えていない。星の民であったとき、ルシファーにとって、サンダルフォンはルシフェルのスペアでしかなかったとき、封じた感情。研究者として、不要であった感情。人として生まれて、出会って、再会を果たした時、俺は、こいつが好きだったのだと、気付いてしまった。隠すことのできなくなった感情を、不要と片付けられなくなった感情を、サンダルフォンは拾い上げてしまった。
「ルシファー」
 名前を呼ばれる。それだけで、ルシファーという記号が、特別なものになる。同時に、違うと、否定する心がうまれる。重なる。ルシフェルさま。中庭で、呼び掛ける声と同じだった。だから、サンダルフォンは、ルシファーとルシフェルを、勘違いしてると信じて疑わなない。ルシファーには、信じられない。
 恋を知らなかった。愛を知らなかった。勘違いを、している。本来ならば、ルシフェルに対して向ける感情を、向かう感情を、記憶がないサンダルフォンは、行き場を見失って、ルシファーに向けているだけなのだ。そうでなければ、サンダルフォンが、ルシファーを愛するなんて、在り得ないと、思い込んでいる。
 もしも、最初から、サンダルフォンに記憶があったとしたら、サンダルフォンはルシファーを選ぶことなんて、なかったに違いない。ルシファーも、そういうものだと、ルシフェルが選ばれるのだろうと納得を、したのだろう。なのに、記憶のないサンダルフォンは、ルシファーの手を取った。取ってしまった。手に入れたことで、いつこの幸せは崩壊するのだろう、仮初なのだと気付いてしまうのだろう、思い出してしまうのだろう、奪われてしまうのだろうと、不安がよぎる。
 毎日が、不安で仕方ない。サンダルフォンが屈託のない顔で、名前を呼ぶたびに、この場を奪われる恐怖に駆られる。奪われるのではない。居場所を、返すのだ。ルシファーが、奪っているのだ。

「兄弟がいたんだな」
 ルシファーに食後の珈琲を淹れた後、皿を洗いながら、ふと、思い出す。夕飯の時に、話そうと思っていたのに、すっかり、抜け落ちていた。当初はあれだけ驚いたのに、インパクトのあることだったのに、サンダルフォンは、常識であるように、昔から知っていたことのように、ルシフェルのことを認識していた。
「……会ったのか」
「ああ、駅前の本屋で。似ていたから、驚いた。双子なのか?」
「年子だ」
「ふうん」
 カチャカチャと食器の触れる音が、やけに大きく聞こえた。心臓が早鐘を打つ。手足から、温度が消えていく。ルシファーの背を、冷たいものが伝う。震えかける声を、プライドで押さえつける。平静を装う。手が震える。マグカップに入れられた珈琲が揺らめいた。ことりと、テーブルに置く。キッチンにいるサンダルフォンを見られない。見ることが出来ない。叱られるのを待つように、惨めに、視線を落として、毛足の長いラグを見る。サンダルフォンが、気に入っている、白いラグ。
「見た目は似ていたけれど、中身はあんまり似ていないんだな」
 ルシフェルと、サンダルフォンが肩を並べる光景は、容易く、想像をすることが出来た。ルシファーが隣にいるよりも、よほど、鮮明に思い描ける。当然の、本来あるべき姿なのだ。姿が同じなのに、決定的に、どうしたって、ルシファーは、ルシフェルには敵わない。サンダルフォンを幸せにできるのは、ルシフェルでしかない。サンダルフォンが求めるのは、ルシフェルの隣でしかない。決めつけだと、指摘する声も届かない程、ルシファーに焼け付いた記憶。
「アイツなら、お前を幸せにするだろう」
 言葉にしてしまう。口から出た言葉は、もう取り返しがつかない。サンダルフォンを傷付ける。言った本人であるルシファーもまた、傷つく。もう、戻れない。終わりが、近い。サンダルフォンは、ルシフェルに惹かれるのだ。ルシファーは、不要となる。それが、本来の、ポジションだった。たまたま、空いていたルシフェルの居場所に、ルシファーが代わりとして、収まっただけなのだ。
「なあ。この前から、」
 食器を片づけ終えたサンダルフォンは、手を拭きながら、ルシファーに近寄る。ぽすりと、ラグを踏みしめる、スリッパの音が近づく。その声は、いつも通りのようにも、静かに、怒っているようにも聞こえた。
「俺は、浮気を疑われているのか」
「お前は隠し事が出来るほど、器用じゃないだろう」
「分かっているじゃないか」
 ソファの隣がゆっくりと沈む。顔をみることが出来ず。俯き、何を言われるのだろうと、恐怖する。
「俺は、ルシファーのことを愛してる」
「ルシフェルよりも?」
「どうしてそこで、他人が出てくるんだ」
 サンダルフォンにとって、ルシフェルは今日、偶然に出会った恋人の、ルシファーの弟でしかない。確かに、居心地の良い人ではあったことを否定しない。ルシフェルという人の、人柄なのだろう。けれど、会って、僅かな会話をした人と、数年共にいる恋人との時間を、比べられるわけがない。引き合いに出されても、困惑するしかない。
「ルシファーはルシファーで、弟は弟だろう。比べるものじゃない」
 比べたら、どうなるだろうな。その小さな呟きは、サンダルフォンの耳に入る事は無かった。ルシファーとルシフェルの二人の間に何かあったのかなんて、兄弟のいないサンダルフォンには、想像がつかない。兄弟仲が良くないのだろうか。何か、根深いものがあるのだろうと視線を合わせようとしないルシファーを見つめる。どうして、そこまで卑屈になっているのだろう、ルシフェルを頑なに、引き合いに出すのだろうと、サンダルフォンには分からなかった。



「ここの珈琲を気に入ってくれたみたいだね」
 声を掛けられるまで、気付くことなく、年季の入ったカップに注がれた珈琲を、ぼんやりと見つめていた。昼食の時間帯を過ぎて、しばらく経つ。平日とだけあって、どこも穏やかな時間が過ぎていた。サンダルフォンは吸い寄せられるように、ルシフェルに連れられた店に入っていた。あの珈琲が、忘れられなかった。
 ルシフェルは、遅い昼休みに入ったのだろう。それでも、常連だから、終えたランチタイムのメニューが用意される。サンダルフォンは、ルシフェルの目の前に座ることを、ごく当たり前に思っていた。ルシフェルも、同様であったようだったが、しまったというように椅子に手を掛けてから断りを入れられる。
「すまない。一人でいたかったのでは?」
「そんなことないです、どうぞ」
 ありがとう。ルシフェルが、嬉しそうに笑うから、サンダルフォンも、追従笑いしてしまう。
「あの、」
 見覚えがある。既視感がぬぐえない。ルシファーではない。なのに、サンダルフォンは、その笑みを知っている。見たことがある。ぼんやりと、どこかで、覚えがある。陽だまりのなかで、幸せな記憶。息苦しい記憶。知らない記憶だ。サンダルフォンは確かに、体験している。覚えはない。なのに、知っている。霞掛かった記憶の奥底。もう少しで、何かを、掴める気がする。霞が晴れるきがする。
「以前に、どこかで、会ったことがありませんか」
 人柄かと思っていた。それにしたって、どうしてか、気を許してしまう。この人は、大丈夫な人だと、思ってしまう。絶対的な、安心感というべきか、父や母に向けるような安堵を覚える。サンダルフォンの警戒が薄いわけではない。誰に対しても、会って、二度目で、初対面で、心を許せることがなかった。だから、不思議でならない。当然のようにルシフェルを受けていれている自分が。理由があるはずなのに、思いつかない。
「ルシファーと似ているからかなって思ったんですけど、あなたとルシファーは全然違うのに」
 長い沈黙。会ったことがあると、言われたいのか、否定をされたいのか、わからない。何を望んでいるのだろう。どちらを期待しているのだろう。自分で、聞いておきながら、問いかけておいて、ルシフェルにゆだねる。
 ルシフェルの唇が開く。
「……君とは、初めて会うよ。いや、正確には、二回目か」
「そう、ですよね。おかしなことを、聞いてしまって、ごめんなさい。古い、ナンパみたいな言葉でしたね、忘れてくださいね」
 間違いない。二回目だ。何かドラマか、映画か、小説か。影響をされて、勝手に、ねつ造したのだ。納得しきれていない、自分自身を、黙認する。

 出歩かなければ良かった。学会の昼休み。人に声を掛けられることが、気を遣われることが煩わしく、駅前で適当に済ませようとした。数十分前の自分を恨む。後悔しても、もう遅い。小さな喫茶店。窓際の席。植えこみから見える窓越しに、向かい合うルシフェルと、サンダルフォン。見知った光景。おそれていた光景。白昼夢にしては鮮明な、悪夢が広がる

 顔を、窓に向ける。視線を感じた気がした。何処からだろうと、きょときょとと見渡す。見知った後姿をあったように思えたが、見失ってしまう。見間違いだろうか、気の所為だろうか。
「ルシファー?」
 ぽつりと呟いたサンダルフォンに、不思議そうにどうした、と声が掛けられる。話を遮ったことを謝罪して、
「ルシファーがいたような気がしたんです」
 そういえば、ルシフェルはバツの悪い顔をする。
「誤解を与えてしまったかもしれないな」
「誤解ですか?」
「恋人が、知り合いとはいえ、自分の知らない所で談笑していて、それを見て、いい気分になる人間は、いないだろう?」
 目を、瞬かせる。恋人と、打ち明けてはいない。なぜ、知っているのだろう。ルシファーが、伝えていたのだろうか。百面相がおかしかったのか、ルシフェルは笑いをこらえる。肩が小刻みに揺れていた。
「知っていたんですか」
「いや……知っていたというよりも、気付いたかな」
 何か、失言をしただろうか。におわせる言葉を発してしまっただろうか。今までの会話を思い出すも、当たり障りのないことばかりだった。
「あのルシファーが、他人と一緒に暮らすだなんて、よほど、気を許した相手だという証左だ。血の繋がった家族ですら、共に暮らすことが出来ない彼が選んだのなら、特別な相手に違いないと思っただけだよ」
 最初の時点じゃないか! サンダルフォンは、途端。気恥ずかしくなる。それまで、ルシフェルは兄の、ルシファーのルームメイトとして、サンダルフォンと会話をしていたのだと思い込んでいた。けれど、実際は、兄の、ルシファーの恋人として、サンダルフォンと接していたのだと、気付いてしまった。
 ランチをぺろりと平らげたルシフェルは、食後のコーヒーを手にする。一口飲み、ふと息を吐き出す。カップを、テーブルに置くと、澄んだ蒼い眼で、サンダルフォンを見つめる。すべて、見透かされているような、何もかも、知っているような目。しゃんと、背筋がのびた。
「ルシファーは、君のことを、とても、大切に思っているんだね」
「どうして、そう思うんですか」
「私のことを、聞いていなかったのだろう?」
 それが、どうして大切に思うことに繋がるのだろう。サンダルフォンには、分からない。思案するサンダルフォンに、ルシファーは懐古する。仕草は、変わっていない。記憶がないからか、へりくだることのない、かつて、安寧であった、サンダルフォン。ルシファーが、何をおもって、ルシフェルのことを伝えていないのか、分かってしまった。
 ルシファーは、人間らしくなった。それが、友として造られ、弟として生まれたルシフェルには喜ばしかった。ルシファーを人間らしくしたのは、サンダルフォンだ。
 もしも、ルシファーに無理強いをされているようなら連れ出すつもりでいた。幸い、というべきか、サンダルフォンにその様子はない。ルシファーのことを、悪く思っている様子はない。記憶がないから、にしても純粋に慕う様子に、思うことがないといえば、偽りとなる。それでも、サンダルフォンが幸せであるなら、幸せになろうとしているなら、それは、ルシフェルが願ったことに、他ならない。
「大切だと思うなら、言ってほしい。言葉にされなければ、分からない」
「……うん。言葉にしなければ、伝わらないことだ。言わなくたってわかる、分かってくれるだなんて、傲慢だ」
 思うことが、あるのだろう。思いを馳せるように、神妙な顔をしたルシフェルは、サンダルフォンに儚い笑みを向けた。その笑みが、あまりに悲しそうで、胸が苦しくなる。
「ルシファーに、気持ちを伝えてごらん。言葉にしなければ、私たちは理解できない生き物だから」
「……はい、ルシフェルさま



 ただいまと、声を出したものの、部屋は真っ暗だった。ルシファーは、研究チームのリーダーを務めている。トラブルがあれば、遅くまで残ることも多々ある。定時帰宅なんてめったにあることではない。今日も、遅いのだろう、まだ、帰ってきていないのだろうと、確認もせずに部屋に入る。リビングに入る前、廊下から漏れる灯りがソファに座る人影を映しだし、サンダルフォンは悲鳴を上げかけた。その人影が、ルシファーであると気付いたから、口から飛び出しそうになった心臓をおさえて、声を掛ける。
「ルシファー?」
 眠っていたのだろうか。ぴくりと震えたルシファーは、寝惚けているのか、緩慢な動作で、ちらとサンダルフォンを振り返って見つめてから、壁に掛けられた時計を確認している。
「夕飯、何が良い?」
 首がゆるりと振られる。寝起きで、食欲がわかないのだろう。あとで、準備しようと冷蔵庫の中身を思い出しながら、
「なあ、今日、駅前にいなかったか?」
 ルシファーは、何も答えない。居たの、だろう。そして、ルシフェルの言葉通りに、気分を悪くしたのだろうと思うと、なんだか、申しわけない気持ちになる。ルシフェルに対して、ルシファーを裏切るような感情を抱いていない。ルシファーに抱く感情を、向けることはない。とはいえ、誤解したままではいられない。だから、なんてことないように言う。ちっとも、やましいことなんて、していないと自信があるから。
「声を掛けてくれたらよかったのに」
「掛けられるものか」
 にべもない。吐き捨てるように言われて、サンダルフォンは当惑する。怒っている、のだろう。誤解を、されている。誤解を、している。
「勘違いをしているみたいだから、言っておくけれど、たまたま会っただけだからな」
「それにしては、随分と親しげだったな」
 棘がある言い方。愛想が良い人間ではない。つっけんどんな言い方に、慣れていても、明らかな拒絶が含まれていたから、サンダルフォンは二の句が継げない。つぐんでしまったサンダルフォンを、どう捉えたのか、
「ルシフェルの傍にいるほうが、良いんじゃないか」
 諦めたみたいな言い方。当然のような決めつけた言い方。
 言い返そうとして、言葉に詰まる。ルシファーのことが好きだ、愛している。何度も、言葉にしている。なのに、聞いてくれない、伝わらない、伝わっていない。求める心が、恋でなく、愛でないと言うのなら、なんだというのだ。悔しくて、涙が出る。泣くなんて、反則だ。なのに、止められない。壊れてしまったのか、ぬぐっても、とめどなく、流れていく。
「ルシファーがいい」
 しゃくあげながら、どうにか伝える。子どものようだ。癇癪を起している。言葉を放棄して、感情だけで動く。溢れる涙を、乱暴に拭い続けたために、袖は濡れていく。擦れたのか、ひりひりと傷む目元。冷たい手が、止める。涙でにじむ視界。思い詰めた顔のルシファーは、口を開きかけて、閉じて、言葉を探す。
「お前は、本当は、俺ではなくて、ルシフェルと共に在るべきだった」
「そんなこと、どうして決められなきゃらないんだ」
「それが、本来の、あるべき姿だからだ──。俺は、ただの埋め合わせで、代わりにしかなれない」
 せせら笑う。自嘲する。当然の、報いであるように。ルシファーを、縛り続ける。
「誰かの代わりになんて、したこともない、おもったこともない。ルシファーだから、一緒にいたい。ルシファーだから、好きになった」
 信じたい。なのに、信じられない。サンダルフォンを信じられないのではない。サンダルフォンの言葉を疑うつもりはない。ルシファー自身に、資格がない。受け止めることができない。サンダルフォンの言葉を、感情を、受け取るべき人間ではないと、思っている。堂々巡り。抜け出せない。冷静に思考している。サンダルフォンは、ルシフェルといることが、正しいと、理解している。感情が邪魔をする。誤魔化すことが出来ない、偽れない。
 サンダルフォンを、失いたくない。
 サンダルフォンの手が伸びる。ルシファーの、眦から伝うものを、指先がぬぐう。ルシファーも、苦しんでいるのだと、知った。無表情に涙する男に、サンダルフォンも涙を零しながら、歪に、出来る限り、気丈な表情を浮かべる。
「ルシファー。俺は、思い出したんだ」
 サンダルフォンは、事もなげに口にした。
「天司であった頃を」
 ルシファーが恐れていた言葉。
「天司長の、スペアであった頃を」
 ルシファーが脅えていた記憶。
 表情が抜け落ちたルシファーに、サンダルフォンは愛しさが募る。初めて、ルシファーの心に触れることが出来た。ルシファーが怯えていた、頑なに、サンダルフォンを遠ざけようとして、そして、自傷のように苦しげにしていた理由が分かった。ああ、この人が好きで、愛していて、愛されている。
「前世の記憶があっても、俺はルシファーが好きだ。今の、ルシファーが好きだ。今まで、俺を愛してくれた、愛を教えてくれたルシファーを、愛してる」
 言われたルシファーは、不意をつかれたようだった。まるで、予想していなかったように、想像していなかったように。言葉を失って、何を言っているのだと、言わんばかりの顔で、サンダルフォンを見つめる。その顔が、可笑しくて、笑ってしまった。
「そもそも、誰かの代わり……なんて、柄じゃないだろ」
 こんなに自己主張の強い人間が、代わりなんて無理だ。想像も出来ない。
「ルシフェルを、選ばなくていいのか」
「くどいな。言っただろう、あんたがいい。ルシファーが、良いんだ」
 長い、長い沈黙。
「………………後悔するさ」
「のぞむところだ、絶対に、後悔なんてしない」
 ぐうと、間抜けな音。
「腹が減った」
 笑って、時間がかかるぞと声を掛けた。ルシファーは、わかったと言うと、サンダルフォンの濡れそぼっていた頬を、名残惜しむように、触れた。

2018/11/22
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