ピリオド

  • since 12/06/19
 少年には、母がいない。亡くなっているのか、生きているのかすら分からない。母、という存在を認識したのは7つの時だった。父の友人が、ぽつりと何気なく口にした言葉。その言葉を、少年はよく覚えている。
「目は、テツナっちと一緒なんスね」
 赤い睫に縁どられた空色の眼を、ぱちりと瞬かせた。
──テツナ! それが、母の名前なのか!!
 言い知れぬ昂揚感が身を包んだ。少年が、初めて母と言う存在を認識した瞬間だった。しかし、その場に居合わせた父の静かな怒気に、昂揚感は形をひそめて、ぶるりと恐怖に体が震えた。母について、父の友人に聞こうと思った。けれど、その日以来、父の友人たちが屋敷を訪れる事は無かった。

 少年には、名前が無かった。自身の名前を知っているのは父、ただ一人である。身の周りの世話をする人間が呼びかけてくるときは「坊ちゃん」であったり「若」であったりと、少年の置かれている地位を示す言葉だった。父の友人たちにしても坊主、だとかジュニアだとかいう赤司征十郎の息子、としての呼び方でしか呼ばれない。不満をぼやいても彼らは苦い顔をするだけだった。彼らにも、名前を知らされていない。



 ある日のこと。透かされた枝葉の隙間から見える灰色の空からは、しとしとと小雨が降っている。喜ぶように悠々と泳ぐ鯉を窓越しに見下ろしていた少年は、傘をさした父が遠くを歩いている姿に気付いた。──悪戯心、だとか、魔が差した、だとか何とでも言える。少年はこっそりと靴を持ち出し、その姿を追いかける。

 父は、離れの座敷へと向かっているようだった。少年が父からきつく、近づくなと口を言いつけられている座敷。少年にとって父は何よりおそろしい存在だった。だから、彼の言葉を守ってきた。その言葉を破り、初めて目にする座敷は小さかった。少年が住む母屋のほぼ真裏にあたり、ぎりぎり敷地内にぽつんと立つ、小さな座敷。
 おそらくは、座敷を隠す意図もある木々は少年の姿もすっぽりと隠している。息を殺しながら、父の様子を見る。父は座敷の戸口を通り過ぎると、そのまま縁側へと向かっていった。縁側には小袖姿の女性がいるだけだった。女性がふと顔を上げる。ばれたか、と思い少年は息を呑む。女性は手にしていた本を横に降ろし、立ち上がると父から傘を受け取った。少年の位置からは、父も女性の表情はうかがえないし、まして声なんて聞こえはしない。
 ただ、父からは殺伐とした様子は感じ取れなかった。昔馴染みと会う時ですら、溢れる厳かな雰囲気はすっかり見られない。たったそれだけでも、彼女は、父の情人なのだろうと少年が結論付けるには充分だった。裏切られたとか、気に掛けられている彼女が羨ましいなんて感情はちらりとも少年の中に湧き上がらない。父親、そして当主として黙々と振る舞ってきたロボットのような人の、人間らしい一面を見たことに、少年はひそかに興奮をしていた。
 小雨はいつしか上がって、灰色の空の隙間から晴れ晴れとした青が広がっている。
 そっと、その場を離れた。大変なものを見てしまったかのようにドキドキとする胸を必死で落ち着かせながら、少年自室へと戻る。
 夕食は1人だった。きっと、父はあの情人と食べているのだろう。昔から、父は家に居るのにも関わらず食事を共にすることは無かった。不思議にも思わないほど、少年にとっての当たり前だった。やっと、理解する。今までも、あの人と食べていたのだ。

 十日ほど経った時、どうやら父は泊まりで仕事へと向かったようだった。

 少年はこっそりと、離れの座敷へと向かった。晴れた日には庭師や手伝いのものが忙しなく家の内外で仕事をしているが、雨が降るとひっそりと静かだった。少年の部屋に家人が近寄ることは無い。部屋を空けて、探される恐れはない。
 白い開襟シャツが雨にぬれてぺたりと肌に張り付く気持ち悪さに、少年は眉を寄せる。むっとした湿気で、汗が首を伝うのを乱雑に拭う。座敷の見えるところまで近づいたときには、ずぶぬれだった。
 彼女は先日のように縁側に面して座り、本を読んでいた。こちらに、気付いた様子はない。その様子を見て、此処まで来て、少年はどうしてここまで来てしまったのだろう、とか、来て何をしようというのだろうと自分の行動に思い悩んだ。矢張り、来るべきではなかった。あの時のことは、白昼夢だと思って忘れてしまえば良かった。帰ろう。足を母屋へと向けたとき、パキリと大きな音が足元から響いた。しまった! 思ったときには女性は、顔をあげてこちらをみていた。はっとしたように見える。目があう。彼女の顔がみるみるうちに、青白くなる。小雨と葉が擦れる音で音は拾えない。
「   」
 彼女は何かを口にしていた。



「どうぞ、使ってください」
「すいません」
 少年は、女性に渡されたタオルでがしがしと頭を拭いた。すると、女性はやんわりとたしなめる。髪が傷んでしまいますよ。言いながら、そのままタオルが女性の手に渡る。あ。思わずこぼしてしまった声は届かなかったのか、女性は優しく、丁寧に少年の髪をぽたぽたと流れていた水滴を拭きとっていく。慣れない優しさに戸惑う少年に気付いた様子はない。女性は、当たり前のことをしているようだった。
「すいません」
「いいえ。気になさらないで」
 それきり、言葉に詰まってしまう。顔を合わせるつもりも、言葉を交わすつもりも、まして座敷に上がるつもりもなかった。ただ、好奇心でもういちど顔を見たいと思ったのだ。居心地悪く、少年はもぞもぞと視線を彷徨わせる。
「あの、ごめんなさい。お邪魔しました、俺、帰ります」
「あら、お茶でも召し上がっていってください」
「いや。あの、申しわけないですし」
「雨も随分と、酷くなっているでしょう? 雨が和らぐまで、どうぞ休んでいってください」
 少年の耳朶を、激しくなった雨音が打つ。彼女の言葉には無理強いもない、心からの親切がある。少年は言い返すことなんて出来ずに、もごもごとすいませんと、何度目か分からない謝罪を口にして、座り直した。
 くすりと笑った女性は、お茶の用意をするためにと部屋を出た。少年はふうと一つ、胸にたまったものを吐き出す。改めて部屋を見渡すと、部屋の造りは母屋と変わらないことに気付いた。そのまま縮小したような印象を受ける。贅沢をしている様子もない。目立つものといえば本棚くらいだろうか。ぎっしりと詰まった本棚は目を引いた。少年にとっては見慣れない鏡台もあったが使用頻度は低いようだった。鏡台を見ていた少年ははっと、何をしているのだろうと居住まいを正すように正座をした。それから、視線を膝の上の手に向ける。長く雨に打たれて冷え切った手は青白かったのに、温まり血行もよくなってすっかり元に戻っている。
「何か面白いものはありましたか?」
 何時の間に戻ってきたのか。何時から、見ていたのか。驚いて、すっとんきょうな声を上げた少年に女性はくすくすと笑った。警戒心が無いの、だろうか。少年がなにかを盗むとも思っていないようだった。女性は少年を家に上げたときから、何も言おうとしなかった。何処から、きたのかとも。女性の笑う声を不快に思うことなく、恥ずかしさに耳まで真赤にした少年はすいません、と謝る。
「いいえ。何も、無い部屋でしょう?」
「……俺の部屋に、何もない部屋ですよ」
「あら、そうなんですか?」
 首肯する。嘘ではなかった。少年の部屋には子どもらしいものは何一つとしてない。欲しい、と強請れば用意される。欲しい、と思うものはあった。けれど、何かと理由をつけて諦めようとする。欲しがることは罪深いことであるように思えて、欲しがることをしなくなった。いつしか部屋は空っぽになっていた。
 女性の淹れてくれたお茶は少しばかり苦かった。けれども出された菓子はそのぶん、甘かった。
 食べ終えた頃にはすっかり、女性と打ち解けた。女性は「黒子」と名乗った。名乗る名前の浮かばない少年は馬鹿正直に「赤司」と名乗った。名乗った瞬間、表情の変化が薄い黒子が顔を引き攣らせたのは仕方ないと思い、見なかったふりをした。なんせ恋人と同じ名字だ。どこからか迷い込んだ子ども、なんて予想は出来なくなった。
 雨は和らぐどころか、酷くなっている。
「やっぱり、俺帰ります」
「でも、」
「大丈夫です。すぐそこだし」
 言ってしまってから、露骨さにはっとした。黒子は、特別に気にした様子はない。名乗ったときのように引き攣った様子もない。ただ、少年を引き留めることだけを考えているようだった。
「風邪をひいてしまいます」
「すぐ、近くですから。すぐにお風呂に入りますよ」
「泥に足を取られて、転んでしまうかも」
「こうみえて、運動は得意ですから」
 得意げに笑って見せる少年に、黒子はもごもごとしながら、
「……雷様に、おへそを取られてしまうかも」
 苦し紛れの引き留める言葉に、少年は思わず吹き出してしまう。雷に怯えるなんてとっくに卒業したし、雷の発生の仕組みについてだって学んでいるのだ。吹き出した少年に、黒子はむっとしたように口を尖らせる。
「心配しているんですよ」
「大丈夫です」
「ほんとうに?」
「はい」
 渋々と黒子は引き下がる。一連の会話が脳で繰り返される。少年の胸が暖かくなった。いつか、理想としていた、ありきたりな、何処にでもある会話を口にしていた。
(家族、みたい)
 胸の中で呟いた。母親、というものが存在するなら、きっと黒子のように優しいイキモノなのだろうと、想像する。いつしか、母親について考えるのは虚しくなり忘れていた想像。
「ありがとう、母さん」
 ぽつりと、口にしていた。黒子の、空色の眼が見開かれる。
「黒子さん? どうかしました?」
「あ……、いえ……。なんでも、ありませんよ」
 傘を出しますね。黒子は、先ほどまでの気さくなやりとりが嘘のように余所余所しく、玄関先から傘を探し出すために部屋を後にした。少年は首を傾げる。暫くすれば、黒子は落ち着いた様子で、黒い傘を用意して戻ってきた。まったく使われていないようで、新品同様の傘だった。
 正直なところ、返せるかどうかわからない。黒子のことは、人見知りする少年には珍しい事に気に入っていた。見知らぬ母親の幻想を重ねる程だ。けれど、それと、罪悪に押しつぶされながら座敷へと通うことは別だった。父親にいつ、露見するかと思えばおそろしい。
「良いんです、差し上げます」
「すいません」
「ありがとう、と」
「え?」
「ありがとうと、言ってください」
「ありがとう、ございます」
 黒子は寂しそうに笑った。けれど、少年には寂しさが読み取れない。
 靴を履き、黒い傘を手に、縁側から出る。来た道を辿りながら、雨は思った以上に激しく、傘があって良かったとつくづく思ったところで、振り返るとこちらをみている黒子と目があったような気がした。まさかなと思いながら手を振ると、黒子は気づいたようで、振り返してくれた。
 少年は足取り軽く、水たまりを飛び越えた。



 誰にもみつかることなく部屋に戻った少年は、手にした傘について悩む。使用人に預けるなんて出来っこない。忽ち、父の耳に入って、黒子の下を訪ねていたことがばれてしまう。悩んだ末。タオルでふき取り、室内で乾かしたあとに、伽藍とした押入れの奥へと押し込んだ。



 翌日。父が仕事を切り上げて、予定よりも早く帰ってきたことにどきりとした。父は相変わらずの様子だった。何も、言われることはなかった。胸を撫で下ろした。それから、父のいないときと見計らい、使用人たちの隙をみて、やはりいただくのは申し訳ないと傘を言い訳にして、離れの座敷へと向かった。もう一度、会いたい。
 少年の、ちいさな願い。
 願いは、かなわない。
 座敷は、伽藍としていた。ぎゅうぎゅう詰めの本棚も何もない。人の気配なんて、ない。
──父さんに、ばれていたのか。
 座敷の縁側の前で、傘を握りしめた少年の頬を一筋の涙が伝って、ぬかるんだ地面におちていった。

title:浮世座
2012/08/17
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