ピリオド

  • since 12/06/19
「ルシフェルさま!!」
「ああ、走ってはいけないよサンダルフォン。とくに、其処はぬかるんでいるから」
「ぅわ!? すみません……」
 慌てるサンダルフォンを見て、ルシフェルは可笑しそうにくすくすと笑う。野暮ったいところを見られてしまったという気恥ずかしさと、ルシフェルの飾らない、本心からの笑みを見れた嬉しさにサンダルフォンは顔を赤く染める。その赤い顔を見たルシフェルの、今日は暑いから水分補給をマメにするんだよという見当違いな忠告に、サンダルフォンは神妙に、はいと頷いた。それから、腕まくりをしたルシフェルの横に並び雑草を抜く作業を手伝う。隣に並んだサンダルフォンを見て、ルシフェルは僅かに口角を上げたように見えたが、鋭い日差しに、サンダルフォンには確信が持てなかった。
 日当たりのよい、けれど誰も手を加えることのない裏庭を、入学した年からルシフェルは教諭に許可を取って利用している。そこにサンダルフォンが加わったのは今年の春、サンダルフォンが入学してからだ。たった二人で、部活動ともいえない園芸活動。当初の、これは個人的な趣味だからというルシフェルの言葉通り、決して美しい花を育てたりすることはない。トマトやはつか大根、ネギなんていう野菜ばかりで、畑と変わらない。ルシフェルとサンダルフォンは汚れても良いようにと学園指定のジャージを着ている。校章のエンブレムが胸元に刺繍されたジャージのデザインは、世界規模に展開されているブランド会社が仕上げたものだ。学園指定でありながら何処か洒落たデザインとなっている。けれど、サンダルフォンはまだルシフェルのジャージ姿を見慣れていない。誰よりも目にしている自負があっても、彼に泥臭い作業は似合わなかった。
 学園は、財政界や芸能界からの子息子女ばかりが在籍している。サンダルフォンもまた、代々の名家の生まれであり、一人息子としての教育を物心つく前より受けてきた。誰よりも優れている。優れなければならないと思っていたサンダルフォンは、ルシフェルを前にして呆気なくその意識を捨てた。敵わないと、一目見て分かった。この人のようになりたい、なんて思っても、なれはしないと分かっている。だから、知りたいと思った。
 神が自ずから造りだしたような風貌。他の追随を許さない、並ぶ事の無い卓越した頭脳に加えて、あらゆる分野に通ずる才能。全てを兼ね揃えたルシフェルが、何処の家のものなのか、サンダルフォンが家の力をもってしても知ることは出来なかった。ルシフェルが入学して以来、サンダルフォン以外にも彼の出自を探ろうとしたものがいた。けれどいずれも結果は出てこなかった。何時しか学園の七不思議となった出自について、直接、ルシフェルに問うことはなかった。きっと、王家に連なる御方で、名を偽り、身分を隠して入学をなさっている、束の間の自由を満喫されているのだろうと、囁かれるようになった噂は、まるで真実のようだった。
「もうそろそろ収穫だね」
「ほんとうだ、綺麗に育ちましたね」
「サンダルフォンが手伝ってくれたおかげだよ」
 ルシフェルが丸く、赤くなったプチトマトの一粒を愛おしそうに撫でる。その表情は、プチトマトに嫉妬してしまうほどに、穏やかで、優しくて、サンダルフォンは少し、チクチクとした痛みを、胸に抱いた。何を考えているのだと自分に飽きれてしまう。
「……ルシフェルさまは、植物がお好きですよね」
「うん。植物にはいつも助けられているよ」
 助けられていると、言うルシフェルに、サンダルフォンは首を傾げた。曖昧に笑ったルシフェルに、御疲れなのだろうと思いいたる。サンダルフォンには到底理解できないような重圧がルシフェルにはあるのだ。それは当主なんてちっぽけなものではないのだ。植物は、そんなルシフェルの癒しなのだ。何を、張り合っているのだと、ちっぽけな自身を恥じた。
「今日は少し早いけれど、終わりにしようか」
「わかりました。何か、御用事ですか?」
「うん……私たちにとっては重要だ」
 鬼気迫ったようなルシフェルに、サンダルフォンの喉は知らず、上下した。なにか、お手伝いをすることはありませんかと、俺は役立てませんか? 思わず口にしたサンダルフォンに、ルシフェルは驚いた様子を見せてから、いつものように、穏やかな笑みを浮かべて、気持ちだけいただくよ、ありがとうと言うだけで、サンダルフォンは、彼の役には立てないのだとしょぼくれた。
 道具を片付けて、空き教室で着替える。サンダルフォンはいつものように、ルシフェルに見えないように、ルシフェルを見ないように着替えた。それから、二人で校門の方へと行けば、にわかに、騒がしい。中央だけぽっかりと穴が空いたように、ドーナツのように人だかりができている。ルシフェルとサンダルフォンは顔を見合わせてその横を通り過ぎようとして、ちらりと人垣の合間から中央に居た人物を見て、サンダルフォンは隣のルシフェルの顔と、交互に見比べる。苛立たしげに腕時計を確認していた人物と、ふと目があう。というよりも、彼の視界にサンダルフォンが入っただけだった。
「ルシフェル、さっさとしろ。間に合わん」
「すまないルシファー。それじゃあ、サンダルフォン。また明日」
 二人並ぶ姿の絵になること。ルシフェルの言葉に遅れて、サンダルフォンはまた明日と手を振った。ルシフェルも、儚い微笑みを浮かべて、応えるように、手を振る。言葉も、手も、サンダルフォンに向けられていた。けれど、見ていた誰もが呼吸すら忘れたようにその仕草を網膜に焼き付ける。二人がいなくなるなり、それまで石造のように固まっていた生徒たちは口ぐちに、言葉を吐き出す。それは、誰かに同意を求めるものでもなかった。誰もが、目にした感動をその身に抑えられずに、興奮状態となっていた。
「ご兄弟かしら」「家族構成も何も分からない方だけれど、良く似ていたわ」「よく似ていらっしゃるけれど、双子かもしれない」「付属学校でも見かけない方だったわ」
 それにしても、美しい光景だった。


 学園に、小さな波紋を生じさせたことなど知る由もなく、また察することも出来ず、ルシフェルはルシファーに連れられて学園の裏に止められていた自転車のスタンドを蹴り上げて漕ぎ出し、そして、風になる。今日はセールだ。それも、何時ものセールとは比べ物にならない、月に一度の、特別なセール。日用品から保存食、新鮮野菜まで破格となる。この日に買い溜めせずに、いつするというのだ。
「チッ……もう並んでいるな」
 ルシファーが舌打ちをした。ルシフェルも思わずしそうになったけれど、生憎と、彼は舌打ちの方法が分からなかった。ルシファーは何時、修得したのだろうかと不思議だった。
 学園から遠いスーパーで、平日の昼間というハンディはよく、響いた。スーパーに着いたものの、既に臨戦態勢の歴戦の主婦集団が構えている。家庭の台所事情を担う彼女たちもまたこのセールの重要性をよく知る。彼女たちにはルシファーとルシフェルの甘い囁きも微笑みも通じない。最早男女という性も種も越えた生き物である。母は強し。妻は強し。ルシファーとルシフェルは顔を見合わせて、互いの健闘を祈る。そして、メガホン越しの店員の高らかな声とともに、開戦の火ぶたが切られたのだ。
 どうどうと押し寄せる人の波。目当てのものをどうにか手に取っても安堵してはならない。ハゲタカのようにカゴを狙われる。一瞬の油断もあってはならない。清算が終わるまで、我がものではないのだ。
「……はっ」
 転がるように店を出たルシファーは膝に手をやり、体をどうにか支えていた。ルシフェルもまた、揉みくちゃになり、疲弊しながらも、なんとか、広告の品と目当てのものを死守した。一瞬の戦争はどうにか勝利できたといっていいだろう。
「戦果は?」
「おひとり様二パックまでの卵と、限定セールの牛肉、じゃがいも、それからセロリと玉ねぎ……今回は中々確保出来たと思う」
「よくやった」
「きみは?」
「今日は豪勢にしよう。許す」
「ルシファー」
「さあ、早く帰ろう」
 人に命令しておきながらと思いながら、兄をジト目で見る。話を逸らすルシファーにため息をこぼして、よいせよいせと自転車を押しながら、長い坂道を登り切る。傾きかけた日差しが眩しい。ルシフェルは目を細める。色素の薄い目にとって、強い日差しは毒だ。けれど、分かっていながら、ルシフェルは太陽の色が好ましい。日の暮れの寂しげな赤い色も、日の昇る期待に満ちた赤い色も、美しいと思える。思えるようになった。きっと、その色は唯一親しく接してくれる後輩を思い出せるから。
 倒壊寸前、トタン屋根のボロ小屋の脇に自転車を止めると、前のカゴに積んだエコバッグを手に取った。立てつけの悪い玄関扉を開けるには、コツがいる。ルシファーは蹴り上げるようにしながら足を掛けてから、力を込めて横に引く。何処かで何かが落ちる音がするのは、何時ものことだから二人は気にしない。
「ただいま」
 ルシフェルが誰もいない家に向かって言いながら入る。ルシファーは黙ったままだ。がらりと扉を閉めた。
 それが二人の日常だ。
 両親は物心ついた頃に蒸発をし行方知れず。親戚もいない。両親が、幼い二人に残したのが莫大な借金とボロ屋敷。美しい兄弟二人が体を汚さすに、ひもじいながらもどうにか食いつないでいるのは、一重に優秀な頭脳があったからに他ならない。ろくでもない両親の遺した唯一にして最大のギフト。頭の回るルシファーは役所で手続きをして保護を申請した。それから負の連鎖を断ち切らんとして特待生枠を利用して、大学進学まで成し遂げた。そのルシファーの行動から学び、ルシフェルも学業を続けることとして、今の学園に身を置いている。決して、密にしているわけではないのだがブルジョワジーな同級生たちには理解されない境遇だ。同情が欲しいわけでもない。対等でありたいのだが、やはり、何処かで異分子だと思われているらしく、ルシフェルは学園で孤立していた。そんなルシフェルにとって、サンダルフォンは身分にとらわれることなく話しかけてくれる稀有な存在であり、いつしか惹かれる後輩だった。そんなサンダルフォンは、
「ルシフェルさま……?」
 己の眼を疑いながらも、見てしまったもに衝撃をうけながら、気付けば自室だった。どのように帰宅をしたのか分からない。いつの間にか風呂も済ましている。茫然自失としたまま、一日を終えようとしていた。


 胸に、もやもやとしたものを抱えたまま朝を迎えたサンダルフォンは、いつものように過ごして、いつものように、放課後を迎えた。サンダルフォンの所属する学級の担任の話はいつも、長い。そのため、いつもどの学年のどの学級よりも、終業が遅くなる。ルシフェルもそれを承知で、サンダルフォンが小走りに駆け寄るのを、いつも微笑んで迎えた。その日も、いつもと変わらぬ微笑みだった。
 ルシフェルの笑みは、不思議と、サンダルフォンの不安を全て消し去る。きっと、大丈夫なのだと、根拠のない安心感を抱かせるものだった。そんな人、サンダルフォンは初めてだった。母とも父とも、昔から世話をする執事でも、このような安堵を抱かせることはなかった。
 今日の作業は雑草抜きと水やりだった。その作業を終えて一息、味見と称して、プチトマトを水洗いして口の中でプチリと噛めば、甘味と同時に酸っぱさが広がる。ぎゅっと顔を顰めたサンダルフォンに、ルシフェルは堪えきれないというように顔を背けて、それでも震える肩と声が、何よりの証左だ。
「昨日、いらしていた方はご兄弟ですか?」
「ああ、兄だよ。三つ離れていて、今は大学に通っているんだ。たしか、クローン技術について研究をしていたと記憶している」
「クローン技術……なんだか、凄いですね」
 ルシフェルにとって、自慢の兄なのだろう。兄のことを語るルシフェルの横顔は誇らしげだった。サンダルフォンには兄弟はいない。いたとしても、手を取り合う素振りを見せながら水面下では血で血を洗うような凄惨な応酬を繰り広げるのだろうということは、目に見えている。全ての家が全てとは言い切れないが、地位や名誉がある家系というのはえてして家族仲が極端に良いか悪いかだ。きっと、どこかで狂っているのだ。狂わなければ、耐えられない。けれど、ルシフェルは兄をひた向きに慕っている。なんて眩しいのだろうと、純粋な姿に触れて、サンダルフォンは己の薄汚さを自覚してしまう。
 この人のようになりたいなんて、烏滸がましくても、知りたいと思えば思う程、知れば知るほどに、サンダルフォンとはかけ離れた清廉とした姿が浮き彫りになる。
 チャイムが鳴る。残っている生徒は帰るようにと促す教師の声に慌てて着替える。それから、校門で別れたあと、送迎車に乗り込んだサンダルフォンはやっぱり、確認がしたくて、どうしても、気掛かりで、胸のざわめきを無視できなくなった。
「すまないが、降ろしてくれ」
「坊ちゃん?」
「先輩に、お聞きしたいことがあったんだ。お母様には連絡を入れるから、きみは屋敷に戻ってくれ」
「……ふふ、かしこまりました。坊ちゃまもお年頃ですものね」
 幼少期からの付き合いで、気心が知れた白髪交じりとなった運転手はちょっと悪い笑みを浮かべている。勘違いをしていることが分かっても、それを解く面倒臭さに、サンダルフォンはむっすりと黙り込んで、寄せられた道路に出た。
 昨日は母方の祖母の知り合いで、以前、行儀見習いとして通った御屋敷への季節の挨拶からの帰りだった。車が通るには狭い道で、幼い砌には一人で通った。思えばあの時期以降は出迎えが当たり前となって、一人であるくなんてなかった。
 それが、当たり前だった。
 思い出しながら歩いていると、昨日見たものと同じものがやはり、間違えることなく、そこにあった。果たして、人の住む建物なのだろうか。出入りして良いのだろうか。そう思いながら、震える手でインターホンらしきスイッチを押す。けれども、カチリと押す感触が指先にあるだけで、音はならない。インターホンは壊れているらしい。肩すかしを食らって、けれどどこかで安堵をして、出直そうと後にしようとする。
「うちに用か?」
 背後からの声に、サンダルフォンの心臓が早鐘を打つ。おそるおそると、振り向いた。そこには、敬愛するルシフェルとよく似た、それでいて、彼よりも冷ややかな印象を受ける青年がいる。ルシファーと、ルシフェルが呼んでいた青年だと、思い出す。
「お前はたしか、ルシフェルと一緒にいた奴だったか」
「ルシフェル様に、お世話になっています」
「ルシフェル様? まあいい。アイツはまだ帰っていないみたいだな……。用事があるなら、中で待つか?」
 たいした持て成しなんぞ出来んがな。ルシファーはサンダルフォンの答えを聞く前に、何時ものように玄関扉を蹴り上げながら引いて、ずかずかと入っていく。ガサツな動作だった。そんな動作に耐性の無いサンダルフォンは怯えていたのだが、ルシファーはしったこっちゃない。サンダルフォンは崩れ落ちたりしないだろうかと不安を抱きながら一歩、踏み入れた。


「ただいま……誰か来ているのかっと、サンダルフォン?」
 きょとりと、帰ってきて早々にルシフェルが目にしたのはかちこちに強張って、肩身が狭そうに縮こまっているサンダルフォンの姿だった。家柄の良さが滲み出ているサンダルフォンは、雑多に物が溢れかえったしみったれた空間で、非道く浮いていた。そこだけがコラージュのようだった。
「玄関でうろついていたから拾った」
 ルシファーは大学の図書館で借りてきた本を広げながらルシフェルに言うと、サンダルフォンは戸惑ったようにしながらルシフェルを見上げた。ルシファーは読書を邪魔されることを嫌う。何時から家に上がっていたのかは分からないが、それでも初めて訪れる場所でこのような対応をされることには不慣れなはずだ。今見上げているのも、救いを求めているように思えた。
「お茶も出していないのか……。少し、待っていてくれ」
「あ、いえ……お構いなく……」
「こう言っているんだ」
「これは社交辞令だろう、すまないサンダルフォン」
 ふんと不貞腐れたように鼻を鳴らすルシファーに、ルシフェルは頭痛すら感じる。ルシファーの才能は認めている。ルシファーがいなければ、ルシフェルはこのように生きられなかった。育ての親ともいうべき存在。恩義はある。けれど、彼の性格はどうあっても一般社会にはなじめないものだとも共に育つなかで理解していた。自分本位というべきか、マイペースというべきか。
「何か、私に用があったのだろうか」
 その言葉に、サンダルフォンはきまずく視線を逸らした。サンダルフォンの様子が、慣れない場所に緊張をしているだけだと思っているルシフェルの考えが手に取るようにわかり、また、サンダルフォンの抱いた幻想が不愉快で、ルシファーは本を畳む。パタンと、分厚いページが閉じるとルシファーの長い前髪を揺らした。
「大方、お前のことを貴族か王族かなにかだと勝手に思ってたのに、こんなボロ家に住んでることを知って、本当かどうかを確かめたかったんだろう」
「貴族? 王族? なんのことだろう」
 ルシフェルには、さっぱり、分からない。そんな弟に、ルシファーはため息をこぼす。ルシファーのことを人格破綻者のように扱うルシフェルだが、そんなお前だって同じような生き物だ、何を常識人ぶっているのだと詰りたい。自覚の無い破綻者は、此れだから困る。ルシファーは己がどのように思われているか自覚して、ありのままに他者を振り回している。ところがルシフェルはといえば、どのように思われているのかをさっぱり分からないまま、理解をしないままに、見当違いに不要な気を使って、結局、多勢を振り回しているのだ。
 自覚があるのと、無自覚であれば後者のほうが質が悪い。
「財政界だろうがなんだろうが、俺たちは知らんぞ。俺たちは見てのとおりの貧乏人なんでな。入学だって、こいつが特待生枠を実力で掴み取ったに過ぎん」
「とくたいせい、わく」
「知らなかったか? まあいい。弟だからと、贔屓するつもりはないが、コレは嘘が下手だ。ウソなんかつけるものか。お前たちが勝手に、こうったらいいのに、なんて理想と幻想を押し付けて色眼鏡で見てきただけだろう」
「……っ」
「ルシファー、それは」
 言い過ぎだ。言いかけた言葉は、サンダルフォンの去り際のごめんなさいという言葉に掻き消えた。ルシフェルは追おうとして、けれど、追って、どうすればいいのだろうかと分からず、項垂れた。相変わらずコミュニケーション能力が欠如している弟の姿をちらりと視界に入れてから、ルシファーは再び本を開いた。


 翌日、緊張で張り裂けそうになる心臓を抑えながらサンダルフォンの所属する教室をのぞけば、望む姿は何処にもない。聞けば、体調不良で休みなのだという。怯える下級生にありがとうと返して、ざわめく生徒たちを後ろに、もう、会いたくないのだろうなと思いながら、所属する学級に戻る。アンニュイな様子でガラス窓の外を見る、絵画のような姿に同級生や、教師すら見惚れていたのを、ルシフェルは知らぬまま、放課後も気が漫ろで、ろくに作業は進まない。そろそろ食べ頃になるトマトの収穫は、明日で良いだろう。まだ完全下校まで時間はあったけれど、着替えて、ぼんやりとしたまま、帰路につく。
 家につけば、明かりが漏れていた。ルシファーが帰宅しているのだろうかと思いながら、玄関を開けて、見慣れない靴に、また、客が来ているのかと不安になる。あのルシファーだ。昨日だってろくにサンダルフォンを持て成すことをしなかった。ルシファーに、客人をもてなすという発想があるかどうかすら分からない。
「あ、ルシフェルさまお帰りなさい」
「……サンダルフォン?」
「帰ったか」
 もっしゃもっしゃとケーキを食べているルシファーと、ステンレスのカップに口づけようとしていたらしく、はにかむサンダルフォンの姿に、ルシフェルはぽかんと、目を丸くする。何故、学校を休んでいたサンダルフォンがいるのだろう。そのケーキはなんなのだろうか。疑問が、顔に出ていたのか、最後の疑問だけ読み取ったルシファーが、こいつからの土産だと言って、またもしゃもしゃと頬張る。それから、お前の分もあるぞと不作法にも生クリームの残ったフォークで、冷蔵庫を指した。
「すぐに食べられますか?」
 流されるように頷いたルシフェルにもケーキが用意された。ちゃぶ台にルシファーと向かい合って座る。均一ショップで購入した小皿に、おそらく有名なパティシエが作ったのであろう、雑誌でしか見た事の無いようなケーキが乗っている。珈琲ならあるんですけれど、用意しましょうかと言うサンダルフォンはタンブラーを取り出した。サンダルフォンの珈琲の美味しさを良く知っている。好意を有難く受け取り、使い慣れたマグカップに珈琲が注がれる。芳ばしい香りを楽しみ、口に含む。
「おいしいよ」
「良かった」
 ほっとして笑ったサンダルフォンには、昨日の悲愴さは見られない。一方的に険悪な雰囲気であったルシファーとサンダルフォンは打ち解けているようだった。といっても、ルシファーは久々の甘味に夢中な様子で、そんなルシファーをサンダルフォンが見ているだけだ。視線が鬱陶しいとも何も文句を言う様子はないルシファーを珍しいと思いながらも、ルシフェルもフォークで一口、ケーキを頬張る。ふんわりとしたスポンジに、しつこすぎない、コクのある生クリーム。ほんのりと甘酸っぱいイチゴが、味が引き締める。美味しい。これは、ルシファーも夢中になるわけだ。
 ぺろりと食べ終えた食器を片づけるルシフェルの横に、サンダルフォンがおずおずと近づいてくる。水が跳ねるよとルシフェルがいっても、大丈夫ですと曖昧に笑うだけで、ルシフェルはそれ以上言うことは無かった。きゅっきゅとスポンジで皿を洗うルシフェルの横で、言葉を探すサンダルフォンに気付きながら、ルシフェルもまた、言葉を探す。
「昨日は、ごめんなさい」
 口を開いたのは、サンダルフォンだった。昨日といっても、ルシフェルは、特に傷ついたつもりはなかった。正直なところ、何が起こったのか、今だって理解していない。ただ、サンダルフォンの方が傷ついているようだった。謝るべきなのは、自分だと思っていたのに、先に謝られる気まずさについ、口を噤んでしまった。その沈黙が、さらにサンダルフォンの罪悪感を駆り立てる。
「今日も、急に押しかけて、ご迷惑をおかけして」
「迷惑なんて、とんでもないよ。お土産もいただいてしまって……それに、私は、君に会うことが一日で一番の楽しみなんだ。今日は休みだと聞いて残念だと思っていたから、会えて、嬉しいよ」
 ぽんっ。はじけるようにサンダルフォンの顔が真っ赤になる。ルシフェルさまが、気に掛けてくれたという場違いな嬉しさを押しとどめようとして、にやけそうになる内頬を噛む。じんとした痛み。あ、夢じゃない。違う、浮かれてはいけない。今日は、謝罪に来たのだと、言い聞かせる。
「昨日、あれから色々と考えたんです。俺は、あなたのことを何も知らなくて、勝手に理想を押し付けていただけなんだって、気付いたんです。あの人のいう通りだった」
「そう、か。きみは、幻滅したのだろうか」
「いいえ。ちっとも」
 あっけらかんというサンダルフォンに、ルシフェルは良かったと、胸を撫で下ろして、なぜ安堵するのだろうと不思議に思ってから、サンダルフォンに、嫌われたくないと思っていたらしいことに気付いた。
「もっと、本当のルシフェルさまのことが知りたいです」
「本当の私なんて、何もない、からっぽな男だよ」
「そんなことないです!」
 サンダルフォンはムキになったように言い切ってから、その先を言いよどむ。稍あって意を決したように、
「俺にとって、ルシフェルさまは憧れなんです、ずっと貴方に憧れて、あなたのことを知りたかった」
「サンダルフォン……」
「学校で育っている菜園のことも、知らなかったんです。あれ、私物だったんですね」
 学校の許可はとってあるとはいえ、サンダルフォンにしたりと言われてルシフェルはばつが悪くなる。そんなルシフェルを見上げサンダルフォンは少し、崩れかかった表情をあわてて引き締める。
「厚かましいって、わかってるんですけれど、ルシフェルさまのお料理を食べてみたいんです。さっき、あの人……ルシファーに自慢をされて、気になってしまって……もちろん、材料費は出しますから!!」
「私の料理なんて、普段きみが食べているようなものとは比べ物にならないよ」
「な、なら! 俺に料理を教えてくれませんか?えっと……その、俺も少しは育てるお手伝いをしてますし!」
「サンダルフォン、気を遣わなくても良い」
「気なんて遣ってません!」
 自分のあげた大声にサンダルフォンがはっとして、ごめんなさいと肩を落とした。
「あなたのことを、知りたいんです」
「なあ、ルシフェル。そこまで言われて断るわけないだろうな」
 助け舟のようにルシファーも言葉を掛ける。けれど、ルシファーは、おそらく、サンダルフォンという純粋な青年のことなんて目にもくれない。サンダルフォンの発した材料費という甘い誘惑に……いや、こうなるように仕向けたのはルシファーだと、ルシフェルは確信している。サンダルフォンはルシフェルの知らぬ間に、彼の手のひらで踊らされているようだった。
「……わかった」
「! ありがとうございます!!」
 うしろで食費が浮いたと喜んでいる兄が憎たらしい。
 ぱぁと花が開くようなサンダルフォンの笑顔に仕方ないと思いながらもルシフェルの心は癒される。どうやら、ルシフェルもまたサンダルフォンに、踊らされているらしい。

山田太郎物語パロディ
2018/07/24
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