ピリオド

  • since 12/06/19
 刹那のような、永劫のような戦いの果てに、ルシフェルが復活をした。サンダルフォンに譲渡されていた天司長としての役割と、伴う能力、権限も全て、ルシフェルに回帰した。永く、空を見守ってきた天司長は復活を果たした。「ルシフェルさま」囁くような呼び声に、応えるように笑みを浮かべた姿を、視界にいれて、サンダルフォンはぶっ倒れた。昏々と眠り、目を覚ましたサンダルフォンはおはようと、声を掛けられて、夢ではなかったのだとようやっと、現実であるのだと理解をした。天司長として回復をしているルシフェルに対して、サンダルフォンは弱体化した。弱体化、とは語弊がある。ただ、基の状態に戻っただけである、らしい。サンダルフォンは特に気にした素振りはない。今まで世話になった分を、働いて返すとは彼の言だ。世話になったのはこっちなんだけどなと思ったものの、団長はその言葉に甘えることにした。こうして、サンダルフォンは今まで通りにグランサイファーに身を寄せるようになったのだ。すると、死の間際に自身の問いを、願いを初めて理解をしたルシフェルも顔を見せるようになった。天司は、易々と人前に出ないのではなかったのだろうかと疑問を浮かべたものの、すっかり団員の一員となっている天司もいることだし、何よりよく脳内メッセージを送ってくるくらいだし、そういうものなのだろうと、責任者である団長は深く考えないようにした。それに、ルシフェルが会いに来ているのはサンダルフォンだ。サンダルフォンは、居心地が悪そうに、あっちこっちへと視線を彷徨わせながら、まごまごと、言葉を探している。何を言えば良いのか、どのような顔で会えばいいのか、心の整理が出来ていないのだ。それでも、決してルシフェルを嫌悪しているわけでもないし、避けるつもりもないようだった。真摯に、向き合おうとしている。
 暫くすると、サンダルフォンは依頼を熱心にこなすようになった。それまで、ルシファーの遺産に与することしか興味が無いようで、団長が強制しない限りはほとんど、関わることがなかった。空の民に、深く関わるつもりはないと、線引きをしていた。その線引きを、自分から悠々と乗り越えたサンダルフォンは、立ち寄った島の依頼を聞きつけるや率先して出向いた。弱体化したとはいえ基礎能力は高いため、戦闘においても問題はない。数々の依頼をこなすようになり、着々と信用を重ねて直接交渉の依頼も持ち込まれるようになった。島に立ち寄っている間は留守にすることが多くなった。けれど、ルシフェルはそんなサンダルフォンの事情を知る由もないものだから、擦れ違うことが多々起こった。寂しげに肩を落とすルシフェルを見て見ぬふりが出来ず、団員たちはその都度、サンダルフォンなら大丈夫だと声を掛けるようになった。
「サンダルフォンさん、疲れてないですか?」
「ああ、問題ないよ」
 蒼の少女の心配を鼻で嫌味に笑ってから、はっとして、ちょっと申し訳なさそうに答えた。
 補給のために立ち寄った島で引き受けた依頼は、簡単な討伐依頼だった。畑を荒す魔物を追い払ってほしいというものだった。その日から二日かけて終わらせて、報酬のルピを受け取り、それから上乗せされた依頼主ご自慢の作物を料理番たちに引き渡したところだった。
「そう、ですか……無理しないでくださいね」
「有難う、無理はしてないさ。ただ、そうだな。欲しい物があってね」
「欲しいもの、ですか? 珈琲豆でしょうか」
「いいや」
 小首を傾げた少女に、サンダルフォンは穏やかに答えた。欲しいものといえば、珈琲豆と思われる程に珈琲好きだと思われていることに、知られていることにやや気恥ずかしく思える。う〜んと悩む少女に、サンダルフォンは言うまいと思っていたのに、頭を掻いて、仕方ないというように打ち明けた。ひっそりと、耳元で打ち明けられたそれを聞いて、素敵です! 私も、協力しますから!! と意気込むので、これは内密になんて出来ないだろうなとサンダルフォンは諦めを覚えながらも、決して嫌な気持ちではなかった。サンダルフォンの欲しいもの……しようとしていることは、たちまち、団員達に知れ渡ってしまった。隠し通せるなんて微塵も思っていなかったものの、彼らのにまにまとした顔を見ると、どうにも、羞恥と、それを覆う様に怒りが湧き上がるのだが、抑えて、遮二無二、依頼をこなすようになった。団長も理由を知って納得したようで、サンダルフォンを依頼に誘う比率がやや増えたようだった。ルシフェルには悪いと思いながらも、団員たちはサンダルフォンの味方である。なんだかんだ、憎まれ口を叩きながらも手を貸してくれる小憎たらしい天司を、嫌いになんてなれなかった。
 飛行中のグランサイファーの甲板に、ルシフェルは顕現をした。今日は、会えるだろうかと期待をする。前回、顕現をしたときは疲れてぼんやりとした姿を見て、早々に顕現を解いたのだ。今日は、元気な顔を見たい。ルシフェルさま! かつて、研究所に出向いたときのように、待ちわびていたように、名前を呼ばれた。稍あって反応をする。反応が遅れたルシフェルに、不安そうに瞳をゆらめかせるサンダルフォンに、なんでもないよと安心させるように微笑みかけた。サンダルフォンとルシフェルの二人を、団員たちは固唾をのみながら、見守る。
「飲んでいただきたい、珈琲があるのです」
 お時間を、いただけませんかと、弱々しく誘われて、ルシフェルは勿論と答えていた。
 団員たちは、そっと胸を撫で下ろして、各々、自分のことに戻っていった。

「どう、でしょうか」
 声を呑み、部屋を見ていた。
 こちらですと言われてサンダルフォンが扉を開けたのは、空き室とされていたはずの部屋だった。なのに、扉の奥、部屋の床、所せましと敷き詰められるように、色鮮やかな花が咲き乱れている。赤、橙、白、桃、紫。色の洪水は、床だけではない。天上からは蔦がゆるりと垂れ下がっており、その蔦を支えに鉢がぶら下がっている。その鉢からも色があふれている。森のようだった。否、人工的に植えられ、設計されたその光景は、覚えがある。
「あなたの、望みをかなえたいと思ったのです。あの中庭とは、ほど遠いですが……」
「私の望み?」
「……最期に、中庭で、珈琲をと……仰って、おられたので」
 尻すぼみになる言葉だったが、確かに、ルシフェルの耳朶を打った。胸の内から、熱いものが湧き上がる。わなわなと、震えるだけの唇。言葉がまとまらない。歓喜で、震える。たまらずに、ふるふると瞳を彷徨わせて、不安を押さえつけているサンダルフォンを、抱きしめたい衝動に駆られる。その衝動をぐっと、堪えて、どうにか、
「ありがとう、サンダルフォン。素敵な、庭だ」
 サンダルフォンの眦がゆるりと下がり、はにかむ。いそいそとこっちですと案内されたのは、部屋の中央、花々に囲まれた真っ白なテーブルと椅子だった。塗料を上塗りしたのだろうか、所々に塗ムラがある。ルシフェルは何となしに見ていた。サンダルフォンは、その反応に、大きな罪の告白をするようにおそるおそると、中庭にあったような机と椅子が、どうしても見つからなくてと申し訳なさそうに言うものだから、ルシフェルはまたもや驚かされた。
「きみが作ったのか?」
「いえ、俺一人じゃなくて……団員たちにも手伝ってもらって……」
「そう、か」
 ルシフェルは笑みを浮かべながら、愛おしく、優しく、机を撫でた。毛羽立ちの無い、つるりとした滑らかさ。何と無しに見ていた塗りムラも、可愛らしいものに思えた。団員たちに手伝ってもらった。それは、彼が申し出たのか、彼らが申し出たのかはルシフェルには分からない。けれど、サンダルフォンは、弱さを打ち明けられる強さを、甘えられる拠り所を、此処で手に入れたのだということだけは分かる。サンダルフォンは孤独だった。研究所でも、パンデモニウムでも、繭の中で眠らせていたときも、孤独だった。ルシフェルは、その孤独に寄り添えなかった。彼らは、寄り添ってくれた。嫉妬、羨望、やっかみを抱かないといえば、虚言となる。その孤独に、寄り添いたかった。サンダルフォンの弱さも、甘えも、知る唯一でありたかったのだと、今、知った。
「あの机と椅子よりも、素晴らしいと思うよ」
 おべっか。お世辞。気遣い。分かっている、真に受けるな。それでも、嬉しくて、サンダルフォンは、緩みそうになる頬を噛みしめた。珈琲を淹れますね。サンダルフォンが言えば、ルシフェルは穏やかに笑った。珈琲を淹れる間、無言だった。ルシフェルはすっかり、心を落ち着かせたように微笑みを浮かべて、サンダルフォンもまた、小さく口角を上げた。ルシフェルの前に、一際に丁寧に淹れた珈琲の入ったカップを、震えそうなる手を叱咤して、なんでもないように置いた。さっきまで、穏やかに夢心地だった。その上に、分厚い膜がかかる。体全てが心臓になったよう。ただ一言を、待ち望む。
「うん、美味しいよ」
 サンダルフォンは、やっと、カップに口を寄せた。
 ぽつり、ぽつり。言葉を紡ぐ。お互いに遠慮し合って、弾まない。昔のようには、振る舞えない。サンダルフォンは負い目がある。ルシフェルも、負い目がある。それでも、ルシフェルはこのひと時を望んでいた。もう一度と、願った。だから、心穏やかだった。かつてのようでなくても良かった。ただ、許されるのなら、サンダルフォンに許されるのならばと願った。
「私の願いは、叶ってしまったな。サンダルフォン、君の願いは、なんだろうか」
 不意に紡いだ言葉に、サンダルフォンは目をぱちくりとさせた。
「俺の願い、は……」
「烏滸がましいかもしれないけれど、どうか、君の願いも叶えたい。教えてはくれないだろうか」
 逡巡。サンダルフォンは、穏やかな笑みを浮かべるルシフェルに応えるように、綺麗に笑った。サンダルフォンは何を望むのだろうか。ルシフェルは、期待をした。新しい珈琲豆? 二人で考えながら、造りだすのも面白いだろう。かつて、共に空を飛びたいとささやかな願いを口にされた。願いともいえない、ただぽつりと漏らされた。その願いは、未だあるのだろうか。彼は、どのような願いを抱いているのだろうか。稍あって、口が開かれた。
「再び、パンデモニウムに、戻ることです」
「……理由を聞いても?」
「俺は、あなたに刃向った。その罰を、受けなければならない」
「サンダルフォン、きみは贖罪を果たした」
 天司長として、空の世界を守り抜いた。かつて、壊そうとしたものを、守った。十分ではないか。島を落としたとき、誰も命を失わなかった。ルシファーの忌まわしい遺産から、救った命の方が多い。その考えは極論であると言われても、単純に考えれば、彼は空の世界を守った。空の民たちを、救った。世界は、とっくにサンダルフォンを許している。ルシフェルだって、許している。
「いいえ、ルシフェルさま」
 首を振ったサンダルフォンは、はっきりと言う。何も迷いなんて無い。ルシフェルとは正反対の、燃え上がるような、命の色をした眼はまっすぐだった。どこまでも、まっすぐに、先を見据えている。
「俺の罪は、裁かれていない」
 こてん、と首を傾げて続けられる。
「それに、再利用できるかは分からないけれど、スペアとオリジナルが同じ場所にいては、意味がないでしょう?」
 あなたとは、いっしょにいられない。
 そう、言われているらしいことが、分かってしまった。

 珈琲、飲み終わりましたね。新しいのを淹れましょうか? サンダルフォンは、変わらない温度の声で言った。その誘いをどのように、断ったのか覚えていない。はたと気付いたとき、ルシフェルは大気中を漂って、あらゆる場所にいた。顕現を解いていた。空の民が、呑気に酒をのみ、隣人に愛をささやき、怒り、泣いて、笑っているのをゆらゆらと漂いながら見ていた。彼らの生は一瞬のものだ。永遠のように生き続ける天司<星晶獣>にとって、瞬きのように過ぎ去っていく。死をおそれながら、死を回避できないことを知っている彼らは、あくせくと、ばたばたと忙しない。死に向かって、我武者羅に、生きていく。天司長という機構であったルシフェルには、理解できないものだった。けれど、死を体験したルシフェルには分かる。時間は有限で、隣で笑ってくれた人は、明日の朝、いなくなるかもしれない。明日の夜を迎えることがないのかもしれない。永遠なんて、どこにもない。世界は不変ではない。あたりまえのことだった。ツボミは膨らみ、開いて、散っていく。世界の摂理。知っていた。変わらないものなんて、どこにもない。ルシフェルも、変化をしている。気付かぬところで、ゆるりゆるりと変化を、進化あるいは、退化をしている。天司長であるならば、退化に他ならない。分かり切った正解を、正しい行いに、あれやこれやと言い訳をして、成すべきことを、無さない。
 サンダルフォン。
 思い浮かべると、大気が震えた。
 ただ、慈しみたい。気が遠くなる時間のなかであっても、ルシフェルにとって唯一不変であった。変わりゆくことのないもの。ひっそりと抱きかかえた、初めて抱いた想い。それだけだった。それだけが、ルシフェルの罪だった。優しくて、残酷な罪。気付かぬうちに犯した罪。その罪は、他ならぬサンダルフォンによって明かされた。
「ルシフェルさん」
 名前を呼ばれた。鈴を転がしたような、春の訪れを告げるような声。蒼の少女の声だとすぐに分かった。大気に溶け込むルシフェルに呼び掛けられるものは、極僅かだった。何かあったのだろうかと、ルシフェルは形造って、少女の前に降り立った。夕闇がすっぽりと覆うまであとわずかというような薄暗い甲板で、少女が物言いたげに佇んでいる。戦闘中ではないことは一目でわかる。船内から漏れる騒ぎは、トラブルに巻き込まれたものではない。
 蒼の少女、ルリアは、サンダルフォンの声を聴いてしまった。不可抗力である。聞きたかったわけではない。あんな言葉を、悲しい言葉を、知りたくなかった。サンダルフォンがひっそりと告げた、優しい願いを叶えたいと思ったのは、サンダルフォンの幸福がそこにあると信じていたからだ。非道いことをされた。大切な人を傷付けられた。それでも、ルリアはサンダルフォンのことを、恐ろしいなんてちっとも、思わなかった。だって、彼が本当は、とても寂しがり屋であることを知っていたから。ずっと寂しくて、悲しくて、だから、怒っていた。ルリアよりもウンと年上の青年なのに、子どものような人。そんな人に手を差し伸べることが出来るのは、ルリアではない。ルリアにとって大事な人の手も、サンダルフォンは振り払う。たった一人しか、サンダルフォンは求めない。たった一人だけを、待っていた。だから、あの悲しい言葉でも、ルシフェルの言葉があれば、きっと大丈夫なのだと思っていた。なのに、ルシフェルの言葉はサンダルフォンには届かなかった。届くはずがない。だって、ルシフェルは何も言わなかった。ただ胸の内で、どうしてどうしてと、いやだいやだと叫んでいるだけ。その言葉を、どうして、伝えないのかと、つい、おせっかいだと分かっていても、言葉にしていた。わざわざ、ルシフェルを呼び出して、サンダルフォンに知られれば何をやっているんだと呆れられてしまうと分かっている。けれど、だって、ルリアだってサンダルフォンのことが、好きだから。優しい寂しがり屋の彼は、誰にも言わずに、自分で決めてしまう。止められるのは、ルシフェルだけだから。
「私の言葉は、無意味だ」
「そんなこと……!!」
「……彼の言葉は、提案は、正しい物だ」
「そん、な」
 口にした言葉と、浮かべる表情のちぐはぐさに、ルシフェルは気付いていない。
 胸で握りしめた拳を降ろして、スカートのすそをぎゅっと握りしめたルリアは、ぷるぷると震える唇を噛みしめた。静かに、その様子を見ていたルシフェルは顕現を解いた。きらきらとした粒子が、宵闇に溶けていく。風に吹かれて舞い上がるのを、髪を抑えて見つめた。どうして、うまくいかないの。うまくいく、なんて、傲慢かもしれなくても、誰かの幸せを願ってはいけないの。ルリアは膝を抱えて、しゃがみこんだ。探しにきたカタリナに声を掛けられるまで、ひっそりと、悲しみを抱きかかえて、涙をこらえる。この涙は、私が、流していい涙ではない。
 幸せになってほしい。
 ただ、それだけ。たった、それだけ。

「サンダルフォンは、本当に、どこまでいってもサンダルフォンだよねえ」
 むっとしたように眉をひそめたサンダルフォンだったが、思い当たる節はあった。視線を空の下へと向ける。雲海が広がる。果ては見えない。ごうごうと強い風が吹きあがる。わっと、団長が声を上げるよりも前に、羽で包み込んだ。ありがとう、という声が聞こえたのか、団長には分からない。ツンとすました顔で不機嫌そうに口を開いた。
「俺は間違ったことを言ったつもりはない。君たち、空の民にとっても、災厄を引き起こした"俺"は裁かれて当然だ」
 サンダルフォンにとって、空の世界はどうでも良かった。空の民も、どうでも良かった。ただ、一人に振り向いてほしくて、もう一度、見てほしくて、彼の愛したものを壊せば、なんて思いで、浅はかで、愚かしいことをしでかした。得たものは何もない。失っただけ。
「元々、スペアとオリジナルだ。同じ場所に保管していてはいざという時、どうにもならない」
 それから、付け加えた。
「……もう、いざ、なんて、こないだろうけれど」
 サンダルフォンは諦めたように、笑った。
 役に立ったのだろうか。気掛かりだったけれど、口にした事は無い。褒めてほしいから、役割を果たしたのではない。ただ、あの人の、ルシフェルの言葉があったから、戦い続けた。サンダルフォンはきっと、その言葉がなければ、空の世界なんてどうでも良かった。あの狂ったような世界で、ほそぼそと世界の終焉を迎えても、なんとも思わなかった。彼の、今際の言葉だけが、サンダルフォンを突き動かした。
 そのサンダルフォンをずっと隣で見てきた団長は、頬をふくらまて、むっすりと不機嫌そうに腕を組んだ。間違ったことは言ってない? 間違いだらけじゃないかと、沸々と怒りが湧き上がる。なんでもかんでも勝手に決めて、何もいってくれない。そんなの、悲しくて、怒るしかないじゃないか。ルシフェルは人の感情に疎いようだけれど、サンダルフォンだって、十分に、人の気持ちがわかっていない。ルシフェルは経験が、統計が足りていない。サンダルフォンは感情豊かではあるけれど、余裕がない。サンダルフォンは自分の感情を勘違いしている。何を言っても聞き入れてくれない、鼻で笑い飛ばす、頑固者だということが、分かっているから、やきもき。もやもや。ルシフェルだって、サンダルフォンが思っているよりもきっと、完全ではない。確かに、実力者だ。何千年も空を見守ってきて、知識はあっても、それは完全ではない。完全ではないから、サンダルフォンは此処にいる。その矛盾を知っていて、気付かない。二人は、わからない。それがもどかしい。
「ルシフェルと、一緒に居たくないの?」
 サンダルフォンは唇を一文字にして手すりに体重を預け、じっと詰まらなさそうに、退屈そうに雲海を見下ろしている。梃子でも、口を開けないつもりらしい。
「あんなに、ルシフェルのために頑張ってたのに?」
 ルシフェルのために。サンダルフォンの行動理念はルシフェルだった。災厄を引き起こしたのも、ルシフェルの気を引きたかったから。ルシファーの遺産を破壊するために共闘したのも、ルシフェルに託されたから。全て片付いたあとにも、気を休めなかったのは、ルシフェルの今際の願いを叶えたかったから。
「どんな花にするかって、ユグドラシルとロゼッタを散々困らせてたくらいなのに?」
 依頼で貯めたものの、サンダルフォンは花についての知識は浅かった。団員たちの中でも、己に近い、星晶獣であるロゼッタとユグドラシルに助言を求めた。彼女たちも、サンダルフォンに思うところはあったものの、彼の純粋な、ルシフェルのためにという想いに応えた。サンダルフォンは明確なイメージを思い浮かべていたようで、ああでもないこうでもない、こういう花だったと注文をつけて、その度に二人はぐったりとしていた。それでも、一つ二つと花が決まっていくたびにほっとしたように柔らかな笑みを浮かべるサンダルフォンが健気で、決して、突き放すことは出来なかった。造り上がる部屋に、素敵ねとロゼッタが感想をつぶやけば、君たちのお蔭だとサンダルフォンはいやに素直に言ったものだから、ロゼッタは毒気を抜かれて、ほほ笑んだ。
「ルシフェルに一番おいしい珈琲を飲ませるって試飲会開いたくらいなのに?」
 ちょっと付き合ってくれないかと言われるままにキッチンに顔を出せば、ずらりとカップに並んだ珈琲に度胆を抜かれた。その犠牲者は数知れず。珈琲が苦手という団員や、年少者以外はもれなく餌食となった。サンダルフォンの淹れる珈琲はどれも美味しい上に、そのサンダルフォンが厳選した珈琲だ。しかし、数が数である。ゆうに十を超える珈琲を飲まされてたぷたぷとする腹で、どれが美味しいと聞かれてもどれも美味しいとしか言えなかった。サンダルフォンは不満そうにそうかとちっとも納得していない様子だった。どうにか、これが美味しかったと一つ二つを絞っていった。
「ルシフェルに喜んでほしかったんでしょ?」
 一言も、口にした事は無い。けれど、準備をしているときのサンダルフォンはまるで戦闘真っ只中であるように真剣で、失敗は許されないというように鬼気迫るものがあった。一つ、二つ、三つと計画が進むたびに緊張よりも、これでいいのだろうかと不安に駆られていた。誰が大丈夫だよと言ってもそうか、なんてぼんやりとした生返事をするのだ。仕方ないと苦く笑うしかないほどの、ぼんやりっぷりだった。
「本当は、サンダルフォンが一緒に珈琲を飲みたかったのに?」
「ちがう!!」
 サンダルフォンは悲鳴のように否定をした。はっと、自身の声の大きさに驚きながらも、まごつきながら、
「あの方が、望まれたから……」
 駄々のようだった。サンダルフォンは気が遠くなるほど長く生きているというのに、今ばかりは、子どものように、弟のようにも思えてしまう。背伸びをして、くしゃりと頭をかき混ぜた。おい何をする、と言う不満の声の、張りの無さったら! ぐしゃぐしゃとかき混ぜると流石に不快そうに、ぱしりと、振り払われた。
「いい加減にしろ」
「そっくり、そのまま返すよ」
 いい加減にしなよ、サンダルフォン。怒られ慣れていない子どもは、くしゃりと顔をゆがめる。

 ゆらゆらと大気の中に漂う中で、想いだけが募った。会いたい。珈琲を共に飲むだなんて、口実だったのだ。勿論、珈琲を好ましいと思う気持ちに変わりはない。けれど、誰とだって良い訳ではない。サンダルフォンとだけ。二千年。離れていた。パンデモニウムに封じたサンダルフォンを、忘れたことはない。二千年。永かったけれど、サンダルフォンはたしかに其処にいた。触れることも、会話することも出来なくなっても、サンダルフォンは生きている。二千年。今は、会えるのに、会えない。合わせる顔がない。何も、気付けなかった。気付こうともしなかった。サンダルフォンの胸に巣食うものを、ちらりとも、分からなかった。理解が出来なかった。惨め。全て、ルシフェルの自己満足で、押し付け。そうあってほしいと願っただけ。変わっていない。何が、天司長だ。役割に縛られて、たった一人のために、生きることも出来ない。たった一人、慈しむ子を、理解出来ない。制御が掛かる。我武者羅に、遮二無二に、何もかもを捨て去る勇気は、ルシフェルに、無かった。規律に縛られて生きている。臆病。弱虫。対して、サンダルフォンは、なんて気高いのだだろうかと、眩しさすら覚える。ルシフェルには、出来ない。サンダルフォンは、強く、美しい。ルシフェルには、無い。サンダルフォンはこのままで良い、なんて思っていない。サンダルフォンはもう、ルシフェルの後を追わない。自分で、歩ける。ルシフェルを、必要とはしない。庇護下で、ぶるぶると不安に、押しつぶされそうになりながら、怯えていたサンダルフォンは、何処にもいない。天司長という役割を果たし、空の世界に返還をすれば、対等でいられると思っていた。その役割が無くなって、どうしたらいいのか、不安が過る。空の世界に返還をしている最中。これで良いのかと囁く己がいた。天司長でなくなったルシフェルには、何が残る。何も、残らない。ルシフェルには、何もない。サンダルフォンに、見限られる。そんな、恐ろしい、不安。
「信頼してないの?」
 特異点は頬杖をつきながら、マドラーをかき混ぜる。旬の果実を絞った飲み物は粘度が高いらしい。甘酸っぱい香りが立ち込める。昼食を終えて人の気配が疎らな食堂。サンダルフォンは、ルシフェルが顕現したことに気付いているようだったが、蒼の少女に連れられて甲板で洗濯の手伝いをさせられているようだった。顔が見えないことを残念に思いながら、胸を撫で下ろし、安堵する自分から、目を背けた。
「裏切ったから?」
「裏切られたと、思っていない」
「ルシフェルはそう思ってるの」
「私が、あの子の信に値する存在ではなかっただけのことを、裏切りとは、思わない。裏切ったのは、私だ」
「……サンダルフォンが、可哀想になってきた」
 これほどまで、忌憚ない言葉を掛ける人間はいなかった。
 重苦しい息を吐き出した特異点は、特別に優しい訳ではない。誰にだって平等の優しさを分け与えるほど人間が出来ている訳ではない。自己犠牲なんて精神、本当はちっとも無い。何処にでもいる子どもだ。人並みに怒るし、悲しむし、笑う。どういう訳か、何時だって、巻き込まれるだけ。特異点、と呼ばれる所以もまだ知らない。世界を救うなんて思ったことはない。ただ、困っている人を見捨てる事は出来ない根っからのお人好し。困っているのが、助けを求めてきたのが、サンダルフォンという天司なだけだった。そのサンダルフォンのことだって、本当は、好きではなかった。殺されかけたのだから、当然だった。むしろ、ルリアがどうして許せるのかと思った。それでも、共同生活を送っていくうちに、気心は知れて、彼の性質を理解した。責任感が強くて真面目で、誰よりも純粋なのに、捻くれて自分に自信がない。
「サンダルフォンの仕出かしたことを、許せるとか、そういうのは置いといて、まあ許せないんだけど、それでも、サンダルフォンがどうして"あんなことを"したのかは、分かるよ」
 ルシフェルには、分からないでしょ。特異点は、せせら笑った。怒っている、らしい。なぜ、怒っているのか、ルシフェルには分からない。
「私は、また、過ちを犯したのだろうか」
 ルシフェルの問いかけに答えず、カラカラとマドラーをかき混ぜる。
 ぱきりと、氷が割れた。
 窓越しにうつる空は澄み渡り、果てなく、広がっていた。
「サンダルフォンは、嫌われる覚悟をしていたのに」
 ぶすりと不機嫌に呟かれた言葉。サンダルフォンが抱いた覚悟を、ルシフェルには出来ない。持てない。サンダルフォンに、嫌われたくない。だって、ルシフェルは、サンダルフォンを失いたくない。かつてサンダルフォンの世界が小さかったころ、ルシフェルが安寧を抱いたのは、サンダルフォンにとっての唯一が、ルシフェルだったからだ。その姿に、安寧を抱いた。歪な感情だ。天司長として、平等ではもない、公平ではない。一方的なものだった。かつて廃棄か愛玩かという選択を迫られたとき、咄嗟に否定も何も出来なかったのは、何処かで、その扱いが愛玩と変わらぬことを自覚していたのだろう。最早何もかもが遅いのだろうけれど。
「これ、サンダルフォンに渡しておいてよ」
 特異点が紙袋を差し出す。
「少し前に、サンダルフォンが引き受けてた依頼の報酬の追加。渡しそびれてたから。渡しておいて」
 頼むような言葉振りではあるものの、返答の有無を言わせない強引さで、ルシフェルは頷いていた。本日初めて、満足げに、破顔させた特異点にルシフェルは、これは、気遣いなのかと思い至った。

 手伝いも断られて、引き受けた依頼も何もなく、空虚なまま、いつかのように、騎空挺の自室に閉じこもっていたサンダルフォンのもとに、ルシフェルが出向いた。顕現したことには気づいていたけれど、気まずいまま、知らぬふりをしていた。互いに、知らぬふりをし続けていた。驚いたサンダルフォンの顔を見て、ルシフェルは知らず、自覚なく、笑みを浮かべて、特異点に言われた通りに紙袋を手渡した。両手で受け取ったサンダルフォンは紙袋よりも、ルシフェルの笑みに目を奪われる。無垢。この人こそ、その言葉が相応しい。穢れを知らない。妬みも知らない。汚い感情を、宿さない。綺麗な人。ただ一人の、正義の人。時間は、あるだろうかと問われて頷いていた。珈琲を淹れようとしていることに気付いて、俺が用意しますと言うより早く、制止されて、私にさせてくれないかと言われてしまえばサンダルフォンは従うしかない。畏れ多くも持て成されて、かちこちと油不足の機械人形のように硬い動きをしていたサンダルフォンも、珈琲を一口飲んでしまえば、落ち着いたように、僅かに口角を上げる。ルシフェルが思っている以上に、サンダルフォンは、珈琲を好ましく思っているのだと改めて知った。落ち着いたところで、ルシフェルが切り出す。
「私は、きみの願いが聞きたい」
「俺の願いは、パンデモニウムに戻ることです。それ以外に、ありません」
 サンダルフォンは、笑みを浮かべる。手本のように、にっこりと、笑う。けれど、ちっとも、心がこもっていない。心は凪いだまま。嬉しいことも、楽しいことも何もない。仮面。作り笑い。ルシフェルが求めることだろうと、振る舞ってきた、サンダルフォンに染みついた、歪な、反射行動。捨てられることに怯えて、身に着けた。浅ましい笑み。ルシフェルは、ああ違う
「それが、本当に、君の幸いになるのであれば、君の願う通りにしよう」
「けれど、」
 ルシフェルは区切り、サンダルフォンを確りと見据える。蒼穹はサンダルフォンを映す。何もかも見透かされているようで、その目がおそろしくて、目を逸らしたくても、体は凍りついたように動かない。視線を逸らすことも出来ない。詰られているわけではない。責められているわけではない。そう、感じてしまうのは欺瞞であると、自覚しているからだ。自己欺瞞。サンダルフォンの自室であるにも関わらず、居心地の悪さに逃げ出したくなる。逃げ場所なんて、無いのに。
「私には、きみの選択が、幸せをもたらすようには思えない」
「……俺は、贖罪のために戻るといったのです。幸せになろう、だなんてと思っていません」
 絞り出した言葉に、軋むような痛みを覚えた。そうかと、相槌を打ったルシフェルは目を伏せた。カチャリとカップが鳴る。その音は判決を言い渡す前の木槌のようだった。正しく、裁かれることを、サンダルフォンは望み続けた。罪に応じた罰を望み続けた。
「贖罪、か」
 繰り返した言葉は、軽い。サンダルフォンを見るも、赤スグリの眼は伏せられて、薄い膜が張られている。瞬き一つで、壊れそうな膜だった。サンダルフォンは、何も答えない。何を言うべきなのか、分からない。唇を結び、断罪を待つ。
「かつて、私が言ったことを覚えているだろうか」
「あなたの言葉を、忘れたりなんてしません」
「そうか……。なら、私も償わなければならない」
「なに、を」
「言っただろう、同罪であると。きみの罪は、私の罪だと。きみが、罪に苛まれているというのなら、私も、共に、償いを」
「違う! これは、俺の罪だ!!」
「サンダルフォン」
 ただ、名前を呼ばれただけなのに、煮えたぎるように、マグマのようにどろどろふつふつとしていたものが、さらさらと流れていく。かっかとした怒りは沈んでいく。目の奥が熱を持つ。熱くて痛い。じんじんと、でも、瞬きをすると、どうしようもない、弱さを曝け出す。可哀想になってしまう。慈悲深いルシフェルは、憐れんでしまう。憐れまれてはいけない。だから、ルシフェルを、睨む。
「サンダルフォン」
 ただ、名前を、呼ばれただけ。ほろりと、サンダルフォンのちっぽけな虚勢は剥がれて丸裸にされる。ほろりと、一粒、ほろり、ほろりと二粒、三粒──。
「きみの、願いは?」
「俺の、願いは、」
 あなたの役に立ちたい、あなたの傍にいたい、あなたに褒められたい、あなたに、
「俺は、おれ、は……」
 あなたと、生きたい。
 言葉が出ずに、サンダルフォンは俯いた。
「サンダルフォン、私は、君が幸いであることを願っている、望んでいる」
「俺は、幸せになんて、なっちゃいけない」
「いいんだよ、幸せになって」
「だめだ」
「そんなことはない」
「だめだ!!」
 幸せになんて、なれない。幸せになんて、なりたくない。サンダルフォンは顔を両手で覆って、しゃくりあげた。逃げられない、この人は、もう逃がしてはくれない。サンダルフォンの自欺は、全て剥がされてしまう。残された柔らかな、甘い、弱さを、すくい上げられる。隠すことも出来ない。全て、暴かれる。
「こわい」
 しゃくりあげながら、露わにする。
──しあわせから、さめることが、こわい。おれには、すぎた、しあわせだった。あなたのとなりは、しあわせにみちすぎている。
「もう、きっと、たえることができない」
 だから、どうかパンデモニウムに戻してくださいと懇願する。両手で覆われた手から、零れるものは塩辛い。子どものように、不安におびえて、恐れて、泣きじゃくる姿に、ルシフェルは場違いに愛しさが募ってしまう。サンダルフォンの嘆願は、愛の囁きだった。サンダルフォンは、気付かないけれど、気付くことなんて、出来ないけれど、その言葉が、どれだけルシフェルに幸福をもたらすかなんて、知る由もないけれど、ただ、優しい温もりに包まれて、また涙を流す。だから、はやく、パンデモニウムに、自分から戻りたいのに、もう、ルシフェルは手放しはしない。

2018/07/17
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