ピリオド

  • since 12/06/19
 最期の言葉を残した記憶がぼんやりとあった。
 それから先は暗闇の中にいた。自己が溶けていく闇の中。自分が自分でなくなる。己という存在を証明するものがなくなる。輪郭が溶けていくたびに大切なものも消えていった。大切なものとは何だったのだろうか、それすら最早、何も思い出せない。
 真っ暗闇の中からぼんやりとした光とともに、呼び掛けられる。必死な声だった。その声には、応えなければならない、悲しませてしまう。傲慢な考えが過って、顔も名前も分からない誰かだというのに、その誰かを求めて、光を求めて、ルシフェルは輪郭を失った手を、伸ばした。


 果たして、かつて凶刃に倒れた天司長は蘇った。
 激戦の中で荒野となった未開の地。特異点が率いる空の民たちの力によって、おぞましい悪意は消滅した。
 悪意から零れ落ちたような、光の粒子が繭を作り、やがて、純白の三対の翼が広げられた。神々しく、純然たる清廉な気配、そしてゆっくりと開かれる凪いだ蒼穹。その場にいるだけで、圧倒される。ルシフェルさま。零れ落とされた、その声を聴いたのは、ただ一人。肩を貸す裁定者だけだった。
 湧き上がる声は、ルシフェルの再誕を歓ぶものだった。
「よかった!! 本当に、よかった」
「君たちは……。そうか、君たちが……。特異点、空の民たちよ。感謝する」
 復活したルシフェルが視界に入れたのは、見覚えのある空の民の姿だった。特異点と蒼の少女。彼らの仲間たち。最期の言葉を聞き入れたのは彼らであったらしい。言葉の通りに、空の世界にとって脅威であるルシファーの遺産を破壊した。そして、滅びたはずのルシフェルを、空の世界に引き戻すという、奇跡を起こして見せた。
 それから、見覚えの無い、青年の形を取った星晶獣と目が合う。夜明けの色だ。黎明に、彼方から湧き上がる色。ひび入った鎧を纏い、一人で立つことも出来ない程に、誰よりも傷だらけの青年は、自身と酷似した男の肩を借りて、どうにか意識を保っているようだった。ぼんやりとルシフェルを見上げている。
「ところで、きみは?」
「ルシフェルさん……? 何をいってるんですか?」
「私は、きみのような星晶獣に覚えがない」
 青年に声を掛けていた。蒼の少女が引きつったような声で問いかけてくる言葉を、彼を見つめながら返す。眼を見開き、唇をわなわなと震わせてから、俯いた。再びそして、嗤笑を浮かべながら、突き放すように、
「俺は、ただの星晶獣です。天司長であるあなたが、記憶するのも無意味な、目にうつす価値もありません。覚えがなくて当然でしょう?」
「あ、サンダルフォン!!」
「ほら。無理をするから」
「うるさい……。さっさと肩を貸せ」
「こんなに、ふらふらで、よくもまぁ」
「そうだぜ、サンダルフォン! こういう時くらい素直になれよな」
「ビィさまのおっしゃる通りですよ」
「おいさっさと連れていけ」
「まったく……」
 特異点が引き留める間もなく、彼はふらふらの体で立ち去ろうとする。けれど、矢張りともいうべきか、ふらりと倒れかけて、その体を悪態をつきながら支えたのは肩を貸していた青年だった。赤き竜もからかうような言葉であるものの、心配をしている。気心が知れているのか、ルシフェルに対する険とは異なる、親しさゆえのもので応えている。ルシフェルはその光景が眩しい物に思えた。目を細め、見送る。そんな彼らを追うように、特異点の仲間たちもまた各々が、周囲の警戒にあたるものや、けが人の治療のためにと、その場を去っていく。荒れ果てた地で、特異点と蒼の少女、それからルシフェルだけが取り残された。
「彼は、サンダルフォンというのか」
「そうだけど……。ねえ、何とも思わないの?」
「何とも、とは?」
「こう……。なにか、引っ掛かったりとか、もやっとしたりとか、そういうの、ないの?」
 必死になる特異点に、ルシフェルは何ら反応を示す事は無い。それが、何よりも雄弁に語っていて、肩を落とした。不可思議な様子に、ルシフェルは何かあっただろうかと考えるが何も思い出せない。記憶に齟齬はなく、肉体に不備はない。なんら、以前と変わることはない。ただ、言葉にするほどでもないが、サンダルフォンと呼ばれた星晶獣のことが気がかりだった。気配は確かに星晶獣のものであるが、研究所のどの区画でも見た覚えはない。かつて、友と呼んだ創造主は、ルシフェルにも内密にして、研究を推し進めていた。いっそ狂気的とも思えるほどに、鬼気として。彼はその研究課程で生まれたものだろうか、研究成果なのだろうかと思惑する。
 サンダルフォンが立ち去った方を、じっと見つめる。誰よりも傷ついた青年は、誰よりも、ルシファーの遺産との戦いに身を投じていたのだろうと推測する。なぜだろうか。考えても、わからない。空の世界を守るために、創造主の遺志に逆らったのだろうかと好意的にとらえると同時に、その姿は欺くためのものではないかとも懸念される。
(彼は、害をなすものとは、思えないが……)
 空の世界に害を成すなら、それまでのこと。
 腰元の剣を、確認する。
 パン!! 静寂を打ち壊す音に、特異点が肩を跳ねさせた。ルシフェルが僅かに纏わせた剣呑な雰囲気も露散して、視線が蒼の少女に注がれる。蒼の少女はその視線を受けても怯むことなく、
「ルシフェルさんも、一緒に旅をしませんか?」
 名案とでもいうように、自信に溢れた笑みをこぼした半身に、特異点は毒気を抜かれる。それから、その案に乗るように、
「よかったら、一緒にこない?」
 駄目で元々だ、天司は、空の民に、世界に介入することを良しとしない。それは、仲間である彼からも口を酸っぱくして言われたことだ。今回の共闘も、空の脅威に対して、空で生きるものとして自分たちが生きるためでもあった。だから、ここから先は個人的なものだ。言葉を掛けたのは根っからのお人好しだからだった。だから、ルシフェルが良いのだろうか、と返してきたのは意外だった。
「大丈夫ですよね、まだ、混乱しているだけですよね」
 騎空挺に戻る道すがら、半身の不安がる声に、無責任に大丈夫だよと声を掛けることはできなかった。世界って酷いなあと思いながら、先に戻っていった仲間の姿を思い浮かべる。大丈夫、団長だし。と自身を奮い立たせた。


 進化を司るという役割を持つ、天司長として蘇ったルシフェルは、一時的な仲間として迎え入れられた。空の世界を見てきたといっても、積極的に触れることは少なかったのか、興味深そうにしきりに騎空挺内をうろつく姿は目についた。それでなくても、人目を惹く容姿をしている。ルシフェルを誘った当人である団長やルリアは当然として、当初はおっかなびっくりと遠巻きにしていた団員たちも、慣れてきてしまった。ただ一人を除いて、ルシフェルは歓迎されている。たった一人、置いてけぼりにされたサンダルフォンはその様子を薄いガラス越しに、外側から見ていた。心の整理も、何も、追いつかない。何よりも苦痛なのは、ルシフェルが万全でないということ。天司長の力はその程度のものではなかった。任務に同行したルシフェル自身も驚いたようで、それからルシフェルは力を取り戻すためという目的を持ち、行動を共にしている。それが、たった一つの役割さえ遂行できなかったのかと、そのためだけに生きてきたといっても過言ではないサンダルフォンの全てを否定する。別に、忘れられていることを辛いなんて甘えるつもりはない。それに、サンダルフォンという、天司長のスペアである天司は、もはや、存在しない。ここにいるのは、天司ではない。役割を果たして、おめおめと惨めに生き残った、死にぞこないの星晶獣である。
「……ふぅ」
 キッチンに来るまでにどれだけの時間を費やしているのか。サンダルフォンは、額に滲んだ汗を拭い、本来の目的にすら手を付けずに、椅子に座り一息つく。サンダルフォンのスペックは天司長の"力"を受け容れるために、高く作られていた。それでなお、天司長の力は大きく、許容量を超えていた。段々と取り戻されていく力に、肉体が悲鳴を上げ始めていた。揮う力に対して、肉体は脆弱で、崩壊していく。ルシファーの遺産を滅ぼすのが先か、サンダルフォンが役割を全うせずに朽ちるのが先かと焦っていた折に、万事、片がついた。剣すら握ることが出来ない腕を持ち上げる。かつてのような再生能力も無くなり、戦いから時間を経ってなお、再生は追いついておらず、治癒に長けた術者たちによる治療を受け、騎空団に身を寄せている。
(お人好しにも程があるだろう)
 任務に同行して戦うことも出来ず、かといって騎空挺内での些事を手伝うこともできず、ただ肉体を維持する。研究所にいた頃と変わりない。寧ろ、あの時は知らなかったとはいえ役割があり、肉体維持も役割の一つともいえた。今は、何もない。お荷物でしかない自分を、何故おいておくのか、わからない。
「探しましたよ」
「ルシオ? 何か用があったのか」
「いえ、部屋にも何処にもいなかったので」
「それで探す理由になるのか?」
「なりますよ。ご一緒しても?」
「最初から、そのつもりだったんじゃないのか」
「いえいえ、そんなことは」
 胡乱な笑顔に、じとりと目を向ける。
 憂鬱な思考にはまる前に、声を掛けられたて良かったと思った。同じ声でも、それを聞き分けることは容易い。裁定者と名乗るルシオは、かつて災厄を引き落としたサンダルフォンに悪意もなく、敵意もなく、友愛を向けて接する。そのさまが不気味で、逃げ回っていたのに、案外と、この男のそばは心地よかった。一息ついたところで、キッチンに入り、戸棚から珈琲豆を取る。共用にと置かれているが、殆どサンダルフォンが淹れて、そしてまた補充をしている。サンダルフォンが淹れているときに、ついでに淹れてくれと頼まれれば悪態をつきながらも淹れる。けれど、彼らは自ら淹れることは無い。
「ああ、美味しい。貴方が淹れる珈琲と、自分で淹れるものはどうして違うのでしょうね」
 差し出したものを一口飲んだルシオが首を傾げる。きみの淹れ方が下手なのだろうと返すが、その耳は僅かに赤く染まっている。遠くで、幼い団員がはしゃぐ声がする。それを叱る声。平穏な時間だ、世界は、優しい時間を過ごしている。
「天司長と話さなくても?」
「……きみまで、同じことを言うのか」
 うんざりと、サンダルフォンはため息交じりにぼやく。ルシフェルが騎空団の一因として馴染むようになるや否や、団員たちはしきりにサンダルフォンを気に掛ける。サンダルフォンは、見知らぬふりをしてきた。団員たちも、まだ気が引けると思っているのか深くかかわってこずに、気遣いをちらりと見せるだけだった。それを、ルシオは台無しにした。
「スペアとしての役割を果たしました、ルシファーの遺産を滅ぼすのを頑張りました、とでも言えば良いのか?」
「まあ、それでも良いのでは?」
「恩着せがましいにも程があるだろう」
「恩を着せても良いのでは?」
「……話にならない」
 珈琲を飲み、この話を切り上げる。肩をすくめて仕方なさそうにするルシオが憎たらしく見える。静寂に落ち着きを取り戻す。見計らったように、ルシオが声を掛けた。
「肉体の方は?」
「駄目だな」
 考えるそぶりを見せることなく答えたサンダルフォンは、何てことの無いように言う。
「俺の肉体が限界を迎えるまえに、天司長としての力を持ったまま、壊れてしまう前に、復活をなさったのだから、これ以上のことはないだろう。まだ、マシな結果だ。天司長としての権限は返還され、失われた力も戻っているという。あとは時間が解決するさ。元々はあの御方の力で、俺のときよりも早くに戻るだろうさ、空の世界は安定する。きみにとっても、良いことなのでは?」
「……そうですね」
 ルシオは自身に課せられたものとは別の、個人としての憂慮は、伝わらなかった。けれど、満足げなサンダルフォンに何を言うことも無い。別にサンダルフォンの生を望まない、というわけではない。ただ、彼自身が望まないのであれば、ルシオがどうこうするつもりはない。そこまでの深入りはルシオ自身が良しとしない。サンダルフォンは、ぬるくなった珈琲を口に含む。風味は落ちてしまった。ルシオの投げかけられた問いに、答えたものは全て本心であり、サンダルフォンにとっての真実だ。
「それは?」
 ルシオのものにしては硬い声で、サンダルフォンはそれを聞き間違えることはしない。険の無い表情を晒したサンダルフォンに、ルシフェルはもう一度問いかけた。ルシフェルは何の感情も宿していない凪いだ目で、サンダルフォンとカップを交互に見遣る。
「何を飲んでいるのだろうか」
 珈琲を飲んだばかりだというのに、口内はやけに乾いていた。舌が縺れそうになりながら答える。
「これは、珈琲、というものです」
「珈琲……きみは、それを好ましく思っているのか」
「……いや」
 サンダルフォンは自嘲的な笑みを浮かべた。
「泥水のような酷い味ですから……とても、天司長におすすめできるものではありません」
 飲み干した珈琲から、何の味もしなかった。その様子をルシオはため息を殺して見知らぬふりをする。泥水と、繰り返しつぶやいたルシフェルが何を考えているのかなんて、ただの星晶獣にはわからない。


 窓から零れる光が、サンダルフォンの輪郭を優しく包む。癖のある黒髪は、光を受けてやや赤みを増して、青白い肌は僅かに、健康的に映った。遠くで団員たちの声がする。珍しく、トラブルに巻き込まれてもいない、事件に首も出さない、何もない、長閑で、平穏な昼下がりだ。キッチンまで、ままならない肉体を引きずってどうにか珈琲を淹れるのは、唯一、今のサンダルフォンにとって出来る事だからだ。どうにか、生きているのだと自分に言い聞かせている。テーブルの隅で、目を伏せて、サンダルフォンは珈琲を啜り、ほっと息を吐いた。此処には自分しかいないというように、振る舞う。
「きみは"珈琲"を好ましく思っているのだろうか」
「そんなことは、貴方には、関係の無いことでしょう」
 話し掛けられて、意識を引き戻される。もともと、ルシフェルを意識の外に追いやるなんてことはサンダルフォンには出来ない。其処にいるだけで注目されることを、ルシフェルが知っているのかは分からない。ルシフェルはつっけんどんに答えるサンダルフォンに、気を悪くした様子もなく、興味が尽きない様子で、珈琲について聞いてくる。その度にサンダルフォンは貴方が飲むようなものではないと断る。他の団員に聞けばいいのにと思うが、それを口にすることはない。サンダルフォンは、ルシフェルに己から関わらないと決めている。相変わらず、何を考えているのかわからない。そして、この態度すらも、彼にとっては意に介さないのだと、告げられているようで、サンダルフォンは下唇を噛むしかない。ただ、ルシフェルの興味が失せるまで、問答は続く。ルシフェルは"らしくも"なく、意固地になっていることにも気づかずに、サンダルフォンの下へ通い詰める。初めてサンダルフォンを見たときに浮かべた懸念は最早どこにもない。サンダルフォンの飲む珈琲について、気の良い団員たちに聞けば解決できることだとわかっているのに、彼の口からききたい。ただ、それだけだった。けれど、それだけでは足りないと思うようになった。朝焼けの瞳に映りたい、名前を呼ばれたいと、倨傲な一面が顔を見せる。その度に、感情に疎くとも、気付いてしまう。サンダルフォンにとって、ルシフェルはどうあっても"天司長"であると気付いてしまう。会うたびに頑なになっていくサンダルフォンは、一度だって名前を呼ばない。天司長と呼び、一線どころか何重にも線引きした上で慇懃な言葉を選ぶ。天司長であるルシフェルにとって、そういった線引きは慣れたものだった。かつても、友と呼んだ星の民以外に、会話らしいものをした記憶はない。その会話も、楽しむものではなく、報告といっても変わらないものだった。名前も、記号でしかなかった。
 ルシフェルにとって、真に対等なものは存在しない。
 それは、共に生活をするようになって久しい空の民たちであっても変わらない。彼らは善良なる心をもっている。好ましい、と思う。けれど、彼らではない。彼らは違うと、否定する心がある。もしも、対等であるならば、それは──。
「私は、きみになにか、不快な思いをさせているのだろうか」
「は?」
「きみの気を悪くさせるようなことを、知らず、したのだろうか」
「何を言っているのですか?」
 サンダルフォンはわざと目を背けて、思わず、顔を上げかけたのを堪えて、見ないように努めながら、泣くのをこらえるようにどうにか、声が震えないように、
「貴方がそんなことを気に掛ける必要はないでしょう。俺のような取るに足らないたかが一介の星晶獣如きに心を砕く必要はありません。俺には価値も意味もないと言ったはずです」
「そんなことはない。私は、君が無価値とも無意味だとも、思わない」
 はっとしたように、サンダルフォンの眼が、ルシフェルを見つめる。その目は僅かに、光を、希望を、抱いている。もしかしてなんて甘い考えは、サンダルフォンの中で根深く、息衝いていた。赤い目はじっと何かを探るように天司長を見つめた。
 ルシフェルの前で、サンダルフォンは無価値、無意味だと頻りに自身を貶める。それは、とても悲しいことだ。
 不意に見掛けた光景を思い浮かべる。特異点や蒼の少女、それから団員たちは、サンダルフォンの名前を呼び、姿が見えなければ探した。彼は、名前を呼ばれる意味をもち、探される価値がある。サンダルフォンは、愛されている。無意味でも無価値でもない。
 だから、思ったままのことを口にした。
「きみは、特異点や蒼の少女たち、この騎空団にとって、なくてはならない存在だろう。きみは、必要とされている。だから、無意味でも、無価値でもない」
 血潮のような真紅の目は丸まってから、ややあって細められた。その目からは一切の希望も光も何もが写らない。ぼんやりとした暗い目だった。
「あなたが、それを言うのか」
 伏せたサンダルフォンが、か細く、ため息とともに口にした絶望の音は、空気に溶けていった。カップの底に僅かに残った珈琲が情けない顔を映しだす。サンダルフォンはどうしようもない遣る瀬無さに口を開きかけ、僅かに残った珈琲と共にのみこんだ。
 サンダルフォンの呟きが聞こえたのか分からないルシフェルは、何を考えているのか分からない眼でサンダルフォンを見つめた。もう、その視線は交わらない。
「きみと、話せてよかった。また、来るよ」
 その言葉に何も返さない。ルシフェルもまた、期待をしない。サンダルフォンの、もとより、決して頑丈ではない継ぎ接ぎだらけの心は、軋むだけだった。天司長は、それに気付かない。
 飲み終えたサンダルフォンは、カップを洗い、壁にもたれかかりながら、自室へ戻った。ふらふらとした姿は、幽鬼のようだった。


 珈琲はサンダルフォンにとって、美しい、思い出の形をしている。
 研究所で孤独だったとき、珈琲を飲めばルシフェルとの、中庭での逢瀬を思い出すことができた。だから、どんな苦しみにも、痛みにも耐えることが出来た。ルシフェルの微笑みを脳裏に浮かべて、あの方の役に立てるならと思った。カナンの地でルシフェルの首を抱いて、最期の言葉を聞いて、特異点たちの下に身を寄せることになっても、珈琲を飲めばルシフェルとの美しかった日々を思い出せた。だから、繰り返される悪夢にも耐える事が出来た。あの人の最期の言葉を、守らなければと、悪夢を背負って、なんでもないように、ただ我武者羅に戦ってきた。
 浮かべるほほ笑み、掛けられた言葉を、思い出させてくれた珈琲は、サンダルフォンにとって掛け替えのないものだった。
 かつての、純粋に、あの人の役に立ちたいという最初の願いを、思い出させてくれた。
 サンダルフォンにとって、ルシフェルとの間にあった、ただ一つの宝物だった。
(奇跡なんて、あるはずがないのに)
 噛みしめた唇から、血の味がにじむ。
 寝台の上でサンダルフォンは膝を抱え、壁に背を預けた。明るい時間の賑わいが嘘のように、気持ちが悪い程に静かで、世界でただ一人置き去りにされたようで、サンダルフォンに孤独を思い出させる。もう、孤独ではない。扉を開けば、どこにだって行ける。なのに、孤独は、忘れることは許さないというように、サンダルフォンを包み込む。
 蘇ったルシフェルに、サンダルフォンの記憶だけがないことは理解していた。サンダルフォンという天司を造った記憶もなければ、サンダルフォンという存在そのものが、ルシフェルの中にはない。ルシフェルは、自身の最期や特異点のことを覚えているのに、サンダルフォンという存在だけが唯一、彼の中から消えている。
 サンダルフォンが関わったことは無かったことに。あるいは誰かが成り代わり都合よく、編纂されている。だから、ルシフェルにとって、サンダルフォンは研究所で知らぬ間に造られた星晶獣、という認識でしかない。
 散々に、特異点に投げ掛けた言葉はそのまま返ってきて、サンダルフォンの心を抉った。もしかして、思い出してくれるかもしれない。そんなことは起こるはずがない。復活こそが奇跡そのものであり、それ以上は烏滸がましい。これ以上、何を望むというんだ。
──きみは必要とされている。
 たった一人に必要とされなければ意味がないのに。思わず口にしそうになって、理性が推しとどめた。そんな、独り善がりを、口にすれば、きっと、泣いてしまう。無様を、晒してしまう。今のルシフェルにとって、サンダルフォンは麾下の天司ではない。有象無象の獣でしかない。それで、良い。
(なのに、なんて、浅ましい)
 誰に言えるはずもなく、胸に秘めてきた。口に出してはいけないとわかっている。わかっているから、消えるのを、諦めるのを待っていたのに、再び触れてしまって、それは、またサンダルフォンをひどく、責め立てる。
 心というものが目に見えるなら、サンダルフォンの心はひび割れている。ルシフェルによって造られて、守られてきた心は、何時だってルシフェルによって傷付けられる。最初はあの会話だったろうかと思い浮かべては、またひびが入る。
(感情なんて、いらなかった)
 天司にとって感情は不必要なものだ。役割に支障をもたらす危険が高いために、意図的に排除される、あるいは制限をされる、本来、宿ることのない機能だった。
 サンダルフォンだけが例外に、役割を知らされていないルシフェルによって創られたために持つことが出来た。ならば、ルシフェルはどうだったろうかとサンダルフォンは考える。
 原初の星晶獣であり、創造主をして最高傑作と呼ばれた彼に、感情はあったのか。
 本来ならばなかったのではないのか。
 サンダルフォンは、他の天司よりも目に掛けられていたのだろう。それが、創造主と被創造物であるからというものを、越えたものであることに気付かないほど、鈍くはない。それから、今になって、サンダルフォンは自分が都合のいい勘違いをしていることに気付いてしまった。
(あの人にとって、俺はバグだったのか)
 サンダルフォンに与えられた優しさは彼にとって不必要な、過ぎるものだった。本来彼が保有する"優しさ"を越えたもの。
(なるほど、完全に復活を成し遂げたというわけか……。あの人の優しさは、天司長であるから)
 サンダルフォンという存在は、ルシフェルにとって不必要なものであった。バグは消去された。
 今の姿こそが"完璧"な"天司長"であるルシフェルなのだ。
 役割を持ちえぬ天司──もはや天司でもなくなった、ただの星晶獣にすら優しいのは、あの人が天司長であるから。サンダルフォンだから優しく接しているのではない。群れから逸れた獣を、案じた優しさは彼の、天司長である優しさだった。
(ああ、よかった)
 サンダルフォンは歪に微笑して、頬を伝うものを拭った。あの方は完璧であるのだと、役割を果たせた嬉しさで流れる、歓喜のものであると言い聞かせながら。歓喜で震える手で、膝を寄せて、顔を埋める。何もかも、これで良い。なにも、間違っちゃいない。だから、次に進まなくてはならない。


 何度となく会いに行っては、何度となく追い返される。
 会いに行くたびに、視線は外され、視界から、彼の世界からはじき出される。思いのままの言葉は受け止められない。返される言葉は鋭い針にように、ぷすぷすと刺さり、ルシフェルに、今まで知らなかった痛みを教えた。痛みは、好ましいものではない。
 それでも、会いに行っては、痛みに耐える。
 彼のいう通り、進化を司る役割のため、あるいは天司長としてのルシフェルにとって、サンダルフォンという存在は必要なものではない、と理解している。
 頭では理解していても、どうしようもなく、サンダルフォンという存在を求めた。
 眦の吊り上った、日の入りをはめ込んだような赤い目。日にあたると赤茶色にも見える癖のついた黒髪。高い踵の靴を難なく履いているしなやかな脚。カップを包む手と指先。泥水と表現した珈琲を飲むとき少しだけ表情が柔らかくなることに気付いて、珈琲に興味を抱いた。
 彼を構成する全てに焦がれる。
 何故だろうと首を傾げても、答えは出ない。
 彼に見てほしい。彼に笑いかけてほしい。彼にルシフェルと名前を呼ばれたい。ぼんやりと芽生えた感情は、確かに、ルシフェルのなかで形を作っていく。それに気付いたのは、ルシフェル当人ではなく、蒼の少女だった。彼女はまるで、自分のことのように、嬉しそうに、喜びながら、ルシフェルに言った。
「その感情はとても素敵なものだから、もう、忘れないでくださいね」
 私は、この感情を忘れていたのだろうかと、少女の言葉で知った。いつ、忘れたのだろうか。私は、いつ、この感情を得たのだろうか。何も思い出せない。探ろうとするたびに、ぼんやりと霞掛かり、先に踏み込めない。記憶にも、記録にもおかしな点は無い。けれど、彼女が偽りを告げる理由もない。名状し難い、違和感が燻る。
 違和感を抱きながら、律儀に扉から入ってきた天司長に、サンダルフォンは珍しく、視線を向けた。その視線を受けたルシフェルは穏やかな、微笑を浮かべる。その微笑が、かつての記憶と重なって、まるで中庭にいるように思えて、サンダルフォンは泣きそうになる。今まで、全て、無かったように思えてしまう。決意が、揺るぎそうになる。
 持っていたカップをソーサーに置き、僅かに乱れた呼吸を整えて、再び視線を合わせた。心臓が、忙しなく、早鐘を打つ。
「あなたはどうして俺に構うのですか。俺には何もない、貴方に必要なものはなにもない、あなたに何も与えられない」
 物資補給のためにとある島に停泊しており、多くの団員は街に出かけていた。見張りのために残っているのは僅かで、彼らは騒ぎたてるような性質は持たない。だから、震える声は、よく響いた。
「ここには特異点や蒼の少女がいる。それ以外の団員たちも。彼らは素直で…… 無垢だ。あなたを相手にしても上下関係を気にすることはないでしょう? 会話を楽しみたいのならそちらへどうぞ、きっとあなたにとって有意義な時間になります。わざわざ俺のようなものにかまうなんて、ナンセンスだ」
 サンダルフォンはこれ以上会話をするつもりは無いというように、カップを手に取ろうとして、けれど、震える手がみっともなく、膝の上で握りしめた。爪が手のひらに食い込み、ちくちくと痛い。
「私は」
「なんです? ああ…… 流石は公正無私な天司長さまだ。俺ごときにも優しく、態々同情をしてくださる、御情けをかけてくださる!!」
 きっと睨みつけられたルシフェルは厳しい表情を浮かべて、目を閉じた。その様子が災厄を引き起こして、罰を求めた、あの時を思い出させて、泣きたくなる。
「すまない、今日は出直そう」
「はっ!! 出直す? 冗談じゃない。俺に会ったところで、今まであなたが得たものは何もなかったでしょう。時間の無駄だ、非効率的だ。貴方には、不要なものに裂く時間はないはずだ!!」
 ルシフェルは言葉を失う。初めて、サンダルフォンの心に触れて、その痛みを知る。ルシフェルにとってサンダルフォンと過ごす時間を無駄だとも、不要だとも思った事は無い。同情なんて寄せたこともない。ただ、焦がれて、けれど、それを伝える言葉を、術をルシフェルは知らない。だから、サンダルフォンにとって、本当は、否定されたい言葉は、真実となって返ってくる。
「もう来ないでください」
「それは、約束できない」
 その言葉にだけは否定をした。
 また来るよ。それだけを言うと去っていく。その後ろを見送って、サンダルフォンは震える手で、目を覆う。
「やめてくれ、もう」
 背を丸め許しを請う。けれど、誰も許さない。これは、罰だから。だから、償いを、しなければ。
 ゆらりと、立ち上がる。もう、迷いはない。
 日が暮れて、夜になって、島の商人との交渉から帰ってきた特異点に別れを告げる。久しぶりに出歩くサンダルフォンを見て喜んでいた特異点は、目を丸くして、サンダルフォンの言葉に、イヤだと我がままをいう。笑って、追いかけてきた手を振り払う。団員たちが動くよりはやく、そんな力がまだ残っていたのかと自身でも驚きながら、体を、空に投げる。
 サンダルフォン!! 誰かの叫びが遠くから聞こえた。
 墜ちていく、おちていく。
 此れで、良い。


 羽の無い身体は、呆気なく、落ちていく。ひゅうひゅう。呼吸も儘ならない。風の音を聞きながら、遠くなる夜空を見上げる。あの空を飛んでいたのだということが、遠い昔のことのように思う。
 いつか、コアに眠らされたときを思い出していた。おそろしいとすら思えるほどの優しい海に呑まれ、悲しくなるほどの優しさに包まれて、無為に時間を過ごして、そして、役割の通りに、稼働した。くるりくるりと記憶が蘇って、これが、走馬灯というものだろうかと感慨深く思う。
 眦から零れた水が、ゆらゆらと舞い上がって、きらきらと溶けていく。それをみて、ふふふと笑った。なんとも穏やかな気持ちだった。猶予はもう、終いだ。
 投げ出した四肢は、風に、切り裂かれている。ぴりぴりとした痛みと共に、血が浮かび上がって、それを見てから、目を閉じた。
 役割を終えた。サンダルフォンの身にあるのは、かつて、災厄を引き起こしたという罪だけだ。だから、償いをしなければならない。罰を、受けなければならない。ただ一人に罰せられたくても、そのたった一人は、もう、何処にもいない。だから、自身の手で罰を選ぶ。人の良すぎる特異点たちであるならば、役割を務めたことが贖罪であると言うのだろう。それでは、ダメだ、いけない。役割は、最初からあってしかるべきもの。天司であるならば、全うして、当然であるもの。災厄を引き起こしたのは、天司ではない。浅ましくも、願って、焦がれたのは、サンダルフォンなのだから。
 このまま、地の底へ、死ぬことは出来なくても、身を以て償わなければ──「サンダルフォン」
 放り出された手を取られて、目を見開いた。
「どうして」
 手繰り寄せられて、夜の風に冷え切った体を抱きしめられる。彼の手は、僅かに汗ばんでいた。
「暗闇の中で、私の名前を呼んでくれたのはきみだった」
 胸に寄せられて、彼の心臓の音が聞こえた。破裂するのではないかと思う程の速さで、サンダルフォンは息を呑む。
「きっと本来ならば、不必要なものなのだろう」
 ルシフェルに支えられると、風は穏やかに、二人を包み込んだ。
「私には、過ぎた、感情なのだろう」
 なぜ、あなたが。
 貴方にとって、俺はもう、意味はないのに。嬉しいと、思ってしまう。あの時の、ルシフェルではないとわかっていても、かつて、サンダルフォンが慕ったルシフェルではないとわかっていても、嬉しいという感情は、もう、隠せない。目を、背けることができない。この人に、ルシフェルという人に、求められたい。必要と、されたい。気付いてしまった、わかってしまった。
「きみが与えてくれた感情を、私は、失いたくはない」
 たとえ記憶が無くても、失っても、何度だって、繰り返す。ルシフェルが、ルシフェルである限り。サンダルフォンが、サンダルフォンである限り。求め合う。それは、運命なんてちっぽけな、野暮なものではない。それは、本能。

2018/06/16
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