生まれ落ちた瞬間から、星の民としての──俗的にいうところの、前世といわれる──記憶を有していた。年若い女(空の民の肉体としての生みの母)からの授乳やおしめ替えなどという屈辱を味わいながら、濁った死んだ目をしつつ、健やかに成長をした。いち早く庇護下から抜け出ようと、冷静になれば成長が早いの一言ではないスピードで授乳とおむつ生活から卒業をした。前世の記憶がある分大人びたどころではなく、可愛げのない子どもでもあったと記憶しているしルシファー自身、元より可愛らしい性格ではない。しかし、両親は気味悪がるどころか「うちの子ってもしかして、天才なのでは……?」なんて能天気過ぎる親ばか具合である。そんな能天気な両親のうっかりによって、本来は現代においてありふれた名前となったらしい「ルシフェル」とされかけたところ、スペルミスにより前世と同じく「ルシファー」という名前として今では吹っ切れて新たな生を謳歌している。何が哀しくて、かつて造ったものと同じ名前にならなければならない。加えるならば首を刎ねられた、最初の死因でもある男の名前だ。まったく、ぞっとしない。
弟が生まれたのは、ルシファーが一二の時。世間一般でいうところの、思春期と反抗期の拮抗する、あるいは同時期である重なる難しい年頃。年頃の子どもを前にして、両親は「ルシファー! ママが妊娠した! お兄ちゃんになるんだぞ!」「パパったら!」うふふあはは。なんてやりとりを目の前で繰り広げられたルシファーはげっそりとしながら、呆れた。何時までたっても仲の良い両親はルシファーの予想をはるかに超える行動ばかりだ。天才と持て囃された頭脳を以てしても予想を裏切られる。想像を超えていく。十月十日。生まれた、しわくちゃの弟を抱き上げたとき、流石のルシファーも驚嘆をした。
予想通り、ともいうべきか弟は「サンダルフォン」と無事に、うっかりもなく、スペルミスなく、名付けられた。記憶があるのだろうか。すぴすぴと眠る弟を見下ろしながら、一考。記憶があるのであれば、面倒だ。抱いた懸念は払拭された。弟──サンダルフォンは、けらけらとよく笑い、ぴぃぴぃとよく泣く、何処にでもいる子どもだった。どうにも、記憶があるようには思えない。全てが演技だというのならあっぱれな名優である。ルシファーを前にしてもきょとりとしたまま。何かしらの反応も示すことはない。にぱっと笑みを浮かべる。記憶は、これから蘇るのかもしれない。
ルシファーは一つ、楽しいことを考えた。
おそらくは、どこかで生まれているであろうルシフェル。ルシファーには妙な確信があった。だから、ルシファーはサンダルフォンを、可愛がることにした。これが、何も知らずにルシファーを慕う姿をあいつに見せつけてやろう。絶望を味あわせてやろう。趣味の悪い歪んだ欲望が顔をのぞかせる。何も知らない、勘付く事の無いサンダルフォンはにこにこと、ルシファーの想った通り、ルシファーによく懐いた。
その度、計画は順調だと、ルシファーはにたりと、悪い笑みをこぼす。
「……どこで、間違えたんだろうなあ」
ルシファーは頭を抱え、携帯端末の通知を見る。母からの連絡は、外せない用事があるため弟のお迎えをお願い、というものだった。勿論、まかせておけ。内心で意気込みながらも、わかったとだけクールに手短に返信して連絡アプリを落とす。待ち受け画面では、弟がにこにことソフトクリームを頬張っている。つい先日、遊びに出かけたテーマパークでのベストショットだ。食べるのが下手くそで、顔のあちこちをべたつかせているのに気にした様子もなく、ソフトクリームに夢中になっている。可愛い。癒し。安寧。だから頭を抱える。
──どうしてこうなった。
ルシファーにすればあまりにも子ども染みた嫌がらせ。ささやかすぎる復讐劇。そのために、幼いサンダルフォンの面倒を見てきた。年の離れた兄と弟。両親は喜んだし、周囲は仲の良い兄弟としか思わなかった。父親よりもサンダルフォンと遊び、サンダルフォンが遊びそうな玩具を用意した。既製品では物足りなくなった様子のサンダルフォンのために自ら工作することもあった。母親よりもサンダルフォンの面倒を見てきた。味覚は把握している。両親よりも接する時間を確保してきたと自負している。サンダルフォンの寝返りを納めたのも、サンダルフォンが最初に覚えた言葉も、呼んだものも「ルシファー」だ。ハイハイ、つかまり立ち、よちよち歩きと、サンダルフォンの成長は全て、ルシファーは記録している。結果。計画はおじゃんである。愛しいと、思ってしまった。計画を担う道具としての扱いなんぞ出来る訳がない。無邪気なサンダルフォンを利用なんぞ出来るわけがない。いうなれば、絆された。世の兄よ、姉よ、弟は可愛い。認める。
ルシファーはサンダルフォンを可愛がっている。もしも、サンダルフォンが誰かに怪我を負わされようものならば相手を地獄の底に突き落とし、死すら生温い生き地獄を味あわせてやろうと決意している。仮に、万が一、億が一にも、夢であっても「嫌い」なんて言われようものなら……。この世に未練はない。この世こそが地獄である。もうルシフェルとかどうでもいい。むしろ、いらない。だというのに、そんなルシフェルは学友である。高等部に進学した先、再会を果たした。互いに、今の生を謳歌している。かつてのことを蒸し返すことはない。そしてルシファーは、サンダルフォンのことを秘している。ルシフェルに聞かれたわけではない。ルシフェルが言ったわけではない。しかし、ルシフェルがサンダルフォンを探していることを察している。
だからこそ、絶対に、ばれてはならない。
授業が終わり、終礼が終わるや否や、ルシファーは席を立つと足早に教室どころか、学校を後にした。冷静沈着で焦りをちらりとも見せない大人びた普段の素振りが嘘のような、初等部から彼を知る同級生ですら誰だお前は。そんな動きも出来たのかと思う機敏さを見せつけた。唖然とする同級生や教師の視線にも気づかない。まっすぐに校門を目指し、去っていく。ルシフェルは、借りていた本を手にして立ち尽くしていた。茫然と、目を丸くして。読み終えて、議論を交えたいと思っていた。しかし、あんなにも慌てた様子は、かつて、ルシファーが星の民であったときですら、見掛けたことは無かった。
──何か、あったのだろうか。
純粋に、心から友を案じ、その背を追いかけた。
「おにーちゃん!」
舌足らずに、サンダルフォンは駆けよると、ルシファーの足にしがみついた。やわらかな鳶色の癖毛を撫でればきゃっきゃと喜ぶ声。黄色い通学帽をかぶせ、通園用の小さなカバンを受け取り、右手で小さな紅葉を握る。せんせい、さよなら。そう言って担当教諭に手を振る弟が、可愛い。この園でいちばん可愛いのではないだろうか。サンちゃん、ばいばい。弟の友達らしき子どもが手を振っている。比べるまでも無く、矢張り、弟が世界で一番可愛い。
サンダルフォンは、今日はどんなことをしたのか、ということを拙い、しっちゃかめっちゃかの言葉で伝える。あっちこっちに話題がふらふらと彷徨う。非凡な、卓越した頭脳をもってしても、子どもの表現を全て理解することは、困難を極める。しかし、一生懸命に、精一杯に伝えようとする姿の愛らしさは、常であれば整理してまとめて話せと一括する言葉も出させないほどに、ルシファーに訴えかけてくるものがある。
「友よ、その子は……?」
ルシファーは自身の後ろに、サンダルフォンを隠した。だが、既に遅い。ルシファーの数千年前の記憶がまざまざと蘇る。あるいは、再現される。ありったけの甘いものをどろどろと煮詰めて溶かした、胸やけをするような、甘い顔。しまったと、弟の前では見せることのない、悪影響と封じていた舌打ちを零した。それの、執着心をなめていた。
「おにいちゃんの、おともだち?」
何も知らない、理解できていない、記憶のないサンダルフォンがルシファーの後ろから顔をのぞかせる。兄とうり二つの顔に目をまるくして、しがみついている兄の顔と見比べている。ぱっと表情を輝かせたルシフェルが近づこうとしたので、ルシファーはそのままサンダルフォンと共に、後ずさる。
「友よ……」
「俺の眼が黒いうちは、サンダルフォンに近づけさせんぞ」
「……? 友よ、君の眼は青いのになにを」
脛を蹴り飛ばし、蹲ったのをわき目に、サンダルフォンを抱えて逃げた。きゃあと小さな悲鳴を上げて驚いたサンダルフォンだったが、兄が遊んでくれていると思ったのか、きゃっきゃと笑っている。守りたい、この笑顔。
おまけ
寒気にぶるりと震え、目をさました。キン、と冷えた朝の冷気に不快感を覚える。冷気を発する窓際に寄り、カーテンを開ければ曇天の空からちらちらと雪が降っている。道路も、早朝に誰かが除雪をしたのだろうけれど、早くもうっすらと白く塗り替えられていた。道路の脇はいわずもがな雪がこんもりと積もっている。
その雪のなかを、うごうごとしているものがいた。ルシファーは目を凝らす。
「サンダルフォン?」
ルシファーが認めざる得ないほど、溺愛をしている弟だった。まるまると着膨れした姿で、ころころと雪の塊を転がして、せっせとちょこちょこと動き回っていた。
何をしているのだろうか、と考えてから弟にとって初めての雪であったことを思い出した。
両親は何をしているのだか、一人にしておいて攫われたらどうするのだとか思ったが、ルシファーはそっと携帯端末を取り出し、カメラを起動させる。パシャパシャと何枚か撮り終えてロックをかけて保存をしたところで、サンダルフォンが顔を上げた。ぱっと顔が輝き、手を大きく振っている。ルシファーが小さく振り返すと、一段と大きく振られた。どこもかしこも小さくてかわいい姿で、細い腕がすっぽ抜けやしないかと不安になる。
今のはビデオカメラを回すべきだったかと小さく後悔をしたが瞳に焼け付けたので問題はない。記憶力には自信があるのだ。
苦く笑いながら決して嫌な気持ちにはならない。ルシファーは寝間着のまま、コートとマフラーと手袋を手に取る。素早く、顔を洗い身支度を整えて家を出た。想像をしたとおりの、痛いほどの冷気を浴びる。
「おにいちゃん!」
元気の良い声に、知らず、口角があがる。今日は休日だ。外遊びをするような年齢ではないが、弟と付き合うのならば苦でもない。
ルシファーは駆け寄ってきた弟を抱き留めて、それから手をつなぐ。雪だるまを作りたいという頬と鼻の頭を真っ赤にさせた弟の、可愛いおねだりに任せておけと応えた。兄弟力を合わせての力作は、悲しいが、翌日にはぐしゃりと溶けていた。この都市部で雪が積もるのも数年ぶりであるのだ。お兄ちゃんと作ったのにとぐずるサンダルフォンを、また雪が降ったら作ろうと宥める。近くのスキー場を調べながら登校をしたルシファーは友人に携帯端末を見せつけた。どうしたのかと言わんばかりだった友人は、悲しいのだか怒っているのだか複雑な顔で、
「友よ」
恨みがましい声に笑いが零れた。
「どうした?」
「これは……」
「愛らしいだろ。俺の弟だ」
「今更言われるまでもないこと。サンダルフォンの愛らしさを私はきみよりも理解をしている。……そうではなく、どうして私を呼んでくれなかったんだ」
不満な顔のルシフェルに、ルシファーはやれやれと肩を竦める。どうしてもこうしてもない。これはルシファーの「やさしさ」であるというのに。
「お前の家は真逆だろうが。片道一時間のやつを態々誘うほど人でなしじゃないさ」
「いや、君は人でなしだったろう」
何を言っているんだと言わんばかりの顔をしたのでルシファーは、休日の丸一日をサンダルフォンと過ごしてご機嫌であったから雪だるまと並んでにこにこと笑うサンダルフォンの写真をルシフェルにも分けてやろうかと思ったが止めた。
おまけ2
兄と、兄の友人にはサンダルフォンが物心ついた頃から可愛がられている。二人とも、プラチナブロンドに美しいブルーアイズである。自分の茶色の癖毛も赤色も嫌いだった。兄とお揃いが良かった。兄とその友人は、顔立ちがよくにているから、サンダルフォン以上に、ルシフェルとルシファーは兄弟に間違われていた。幼い頃はそれが許せなかったし、悲しくて、今なら世間話程度と分かっていても、不貞腐れて、我がままを言っては兄たちを困らせた。お兄ちゃんの弟は俺なのに!! 俺のお兄ちゃんなのに!! ルシファーの肩をびっしょりと涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしたのも、一度や二度ではない。ルシファーはそのたびにそうだな、俺の弟はお前だけだと慰めてくれたのだ。
年が離れているからか、兄はサンダルフォンに甘かった。兄弟喧嘩なんて一度もしたことがない。そんな兄が当たり前だったが、流石に、十三になると、兄の優しさが年の離れた兄弟故の優しさを越えた、行き過ぎた甘やかしであると気付いてしまう。
サンダルフォンも、兄のことは、好きだ。思春期も迎えて、反抗期であっても、頭もよくて、身内贔屓でも格好いい自慢の兄だと思っている。けれど、
「あのさ、ルシファー」
ソファでくつろぐ兄におそる、おそると声を掛けた。兄は手にしていた書類から視線をサンダルフォンに向ける。サンダルフォンはあー……と少しだけ言いよどんでから、
「俺、もう1人で寝れるし、風呂に入れる……」
「なにがいいたい?」
サンダルフォンは視線をさ迷わせているため気付いていないが、ルシファーは冷静を装いながら、書類を持つ手が震えていた。今も声が震えそうになるのを必死に押さえつけている。
「そろそろ弟離れをしよう?」
「そうだ、友よ。サンダルフォンのことは私に任せてほしい」
「いや、あんたも俺離れしてほしい……。どうして自分は関係ないみたいな顔してるんだ」
ショックを受けたようなルシフェルに、サンダルフォンは呆れてしまう。血の繋がった兄よりも、どうして自分は例外のように思っていたのかサンダルフォンには分からない。というか、すっかり当たり前に思っているがこの人、他人なんだよなと呆れる。
「俺が恋人を連れてきたら二人とも死にそうだな」
サンダルフォンはなんとなく、口にした。今のところ予定はない。ただ周囲は恋人がいたり、サンダルフォン自身も告白をされることもあって、他人事ではないように感じる話題である。ただの世間話程度だというのに、ルシファーときたら、
「サンダルフォンの相手だと……? 万が一にも連れてきたなら最低でも、俺と同等のスペックが最低条件だな」
そんな奴いるもんかとサンダルフォンは無茶苦茶な兄に苦く笑った。だってサンダルフォン自慢の兄はなんだって出来るのだ。しかし、ふむと何故か納得をしたような声がしたので嫌な予感がした。
「……そうか、私のことを認めてくれるのだな」
「待て脳みそハッピー野郎。お前は除外だ。絶対に許さん」
「別にルシフェルと付き合うつもりもないんだけど」
サンダルフォンが冷静に訂正をするが、ヒートアップしていく二人には届いていない様子だった。こうなると長い。
「しかし、そうなるとサンダルフォンの相手はいなくなってしまう」
「言葉のあやだ! 誰も認めんということだ!」
「サンダルフォン、幸せにするよ」
「いや、だからあんたと付き合うつもりもないんだけど」
「ざまあみろ!」
にこりと微笑んだままぴしりと固まったルシフェルにルシファーは子供のように勝ち誇ったように吐き捨てた。サンダルフォンは大人げないなあと二十歳を超えてる兄たちに呆れながらカフェオレを啜った。
2018/06/01