ピリオド

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 ルシファーは憎々しく、忌々しくガラス越しに流れていく清々しい青空を見上げ、睨む。人の気も知らない、穏やかな天気。清々しい日和。いっそのこと、嵐でも来ればいい。何もかも、吹き飛ばしてしまえばいい。なんて、腹立たしい程の青空なのだろうかと有象無象にすら苛立ちをぶつけてしまう。思わず鳴らしてしまった舌うちに、運転手がバックミラー越しに怯えた視線を向けた。それに気が付き、睨めば逸らされ、私は何も見ていませんよ、仕事に集中していますと言わんばかりのすまし顔。ルシファーは再び視線を、通り過ぎていく景色に向ける。
──なぜ、俺がこのようなままごとに付き合わねばならない。
 沸々と、怒りが込み上がる。

 かつて、星の民と呼ばれていた頃の記憶をルシファーは有している。自身の願いのために、欲望のために、理想のために世界に反抗をした。結果として、ルシファーは何も手にすることは出来なかった。何もかもを台無しにされた。後悔はない。自身を打ち負かした彼らの願いが強く、敗北をした。彼らであるならば神と呼ばれる世界の思惑すら乗り越えるのだろうと勝手に期待をして、死を受け容れた。そして、今に至る。かつて侵略をしようとした世界の民の1人として生を受けたことに驚きがなかったわけではない。だが、たとえ空の民として産まれようとも、ルシファーの性質は何一つとして変わってはいない。その性質が彼にとって、最悪の現状を招いている。
 星の民であった時にも、望まれることはあった。けれど、星の民の果ての無いといってもいい生命活動において「それ」は必要ではなかった。周囲も期待はしていなかった。しかし、今の肉体には時間が限られている。それなりの地位と家柄で産まれたとなると、必然、子孫が求められた。仕事だ研究だと先延ばしにしているうちに、してやられた。
 今日、見合いをする相手はルシファーの個人的研究のパトロンだった。散々にルシファーの我がままのような無茶振りに応えてきた稀有な人物。年頃の娘なのだが、会うだけでもどうだろうか。好々爺面をした男の言葉を無碍にすることは出来なかった。何よりも、援助を打ち切られれば頓挫する研究。ルシファーが首肯せざるを得なく、男は見たことも無い笑みを浮かべた。ルシファーが研究を報告する以上の悦びだった。彼は、これが目的でルシファーを援助してきたのだ。育ててきたのだ。ルシファーは、らしくもない自身の失態に苛立ちを覚える。

 指定をされたのは湖畔を臨むホテルのレストラン。数年前までは貴族や王族御用達と言われていた格式の高い、歴史あるものだったと、世俗に疎いルシファーも知っていた。なんせ、今では経営は傾き、チープな宣伝を繰り返し、かつての栄光をさらに貶めているから、よく覚えている。そんな場所が見合いの場だというのだから、相手も本当はやる気がないのではないかと、ルシファーは訝しむ。レストランの個室では、初老の女と、若い女が並んで座っていた。若い女は幸の薄そうな、ぼんやりとした、死に際のように生を感じさせない。対して初老の女は、その女から精気を取り込んでいるようにあれこれと話しかけている。ルシファーを案内したボーイがお連れしましたと言えばしゃかりきとした様子を仕舞い込んでにこやかに話しかけてくる。「あら貴方がルシファーさまですのね。旦那さまからお聞きしておりますよ。思っていたよりも随分とお若いかたでいらっしゃいますね、ねえお嬢様」「……そう、ね」
 相槌を打った女をぎろりと睨んだ、初老の女の声が耳を通りぬける。ルシファーの眼は、釘付けになる。
 赤みがかった黒髪の、ゆるやかな癖毛。同色に縁どられた、ピジョンブラッド。空の世界において、然程、珍しい配色ではない。ルシファーは、その顔立ちを見て確信した。数千年前に、ルシファーの最高傑作であった天司に造らせたものが、自然摂理のなかで偶発的に形作られるはずがない。設計図によって造られたもの。これは、あのときの不用品であり、ルシファーの数千年の願望を砕いた存在。
 視線が交わる。僅かに揺れた視線。彷徨ったあと、俯いた女はじっと手元を見ていた。お嬢様、失礼ですよ。窘める初老の女の声に、仕方なさそうにあげられた顔は、悲愴さを帯びていた。
「……そういう、ことか」
 記憶がないのだと、気付いた。ルシファーの言葉は、二人には聞こえなかったようだ。
 もしも、記憶があるのならば、ルシファーに気付かない訳がない。そして、憎悪しない訳がない。だというのに、そのくせ、魂に刻まれた恩讐によって、人生を狂わされているようだ。そうかと、一つ、思いつく。

 ルシファーは人受けする笑みを浮かべて、好青年を演じた。初老の女からは好感触を得たらしく、あれやこれやと若い女の来歴と家の名声を語る。その女の育ての母ともいうべき、幼い砌から付き従ってきたらしい。お嬢様は心優しいかたですのよ。手先も器用でして、趣味で淹れられる珈琲は絶品……。ルシファーはそうですか、素晴らしいですねと心にもない相槌を打つ。当事者である女の意思を蚊帳の外に、見合いは進み、両親が揃った食事会の約束が取り付けられた。食事会が終わった頃にはすっかり、結婚は決まりきったも同然でルシファーと若い女……サンダルフォンは入籍をした。この時に至っても、サンダルフォンは自身の意思を表示することはない。言われるがまま、受け容れるだけ。
 ルシファーの記憶に、サンダルフォンは薄い。ルシフェルが造った代替品、の役割も無い不用品でしかない。だから、サンダルフォンの状態に違和を抱くことはない。純白のドレスに身を包んだサンダルフォンが目を伏せている。ベールを上げれば化粧の施された顔。視線の合わない目。儀礼通りに口づけをすれば拍手が響いた。
「こちらへおいで、ルシフェル」
「……はい、お母様」
 自身とそっくり同じ顔は、今世では遺伝子の一言で済む。女となり、母となったかつて、慈しんだ存在に手を引かれている姿は、滑稽で、愉快でたまらず、ルシファーはひっそりと笑みを浮かべる。サンダルフォン、という存在に初めて価値を見出した。何もかもを諦めて絶望して死に損なったような顔をしていた女は、産まれてきた息子にだけは特別優しいものだから、その優しさが息子を酷く、苛ませているものだから。この生活も決して、悪いものではないと、サンダルフォンの淹れたコーヒーを飲みながら思うのだ。

 ルシフェルの幼い体は絶望に満ちている。どうして、こんな記憶を持っているのだろう。なぜ、この姿で、彼女から生まれたのだろう。何もかも、全てに絶望をした。何よりも、かつて安寧を抱いた、自身が造りだした天司の魂を宿している女の胎から生まれ落ちたこと……、そして父である男がかつての創造主であり友であり、そして首を刎ねた彼であること。全てに、絶望をした。
 母となったサンダルフォンには、かつての記憶はない。天司として、造られた記憶。ルシフェルとサンダルフォンを唯一結びつける記憶。今となっては、ルシフェルにとっての安寧であり縋るしか出来ない幸福であった過去を、サンダルフォンは知らない。初めて、羨んだ。自身に記憶がなければ、このような、哀しい感情に名前を付けることはなかった。醜い感情を抱くことはなかった。
 ルシフェルが抱いた感情は、人の子が持つには、あまりにも昏くおぞましい、ひとでなしの感情だった。

 じわりと汗ばむ初夏の末。庭の一角を色鮮やかな花々が咲き乱れている。定期的に庭師を呼ぶために美しく整備されている庭は、視覚を楽しませた。使用人を下がらせて、サンダルフォン自らが用意した甘いカフェオレと、焼いたばかりのクッキーを広げる。広げられた童話集を読み聞かせる声は、女性にしては低いアルト。落ち着いた声は、ルシフェルの耳によく馴染んだ。
──ルシフェル。
 名前を呼ばれると、たまらなく悲しくなる。子どもとはいえ精神は成熟しており、童話に対して関心は抱いていない。ルシフェルは、空の民……人の子は、こういうものを好むのだろうかと達観して考えていた。人として生まれて数年経っても抜けきらない天司の視点。何をしても、幸せな結末を迎える。世界は理不尽に溢れているのに、夢ばかりを見せようとする。幼い身でありながら、自信の心を巣食う薄暗い感情に付いたルシフェルにとって、あまりにも痛い言葉の羅列と幻想。
「……戻られたのか」
 矢庭に呟かれた言葉に、ルシフェルは顔を上げた。それから、サンダルフォンが見つめる先。屋敷の玄関に視線を向けた。白いコートを羽織った、父。ルシファー。後ろには彼の荷物を持つ、付き人にしては軽薄な短い黒髪を逆立たせた男が控えている。こちらに気付いた男が、ウインクをした。ぞっと、気持ち悪さに肌がざわめいた。サンダルフォンは、どうするのだろう。ルシファーは、夫だ。気に掛けるのが、当然だ。サンダルフォンは、ルシフェルに気付くと何事もなかったように開いていたページの先をめくる。その顔には、うっすらと、笑みが浮かんでいる。
「出迎えなくて、良いのですか?」
「ああ、構わないだろう。連絡も来ていないからな」
 詭弁だ。サンダルフォンも分かっていることだ。連絡がきていなくても、気付いている。なのに、こうして、ルシフェルを優先している。ルシフェルが、ルシファーを苦手と思っていると知っているから。ルシフェルが、嫌がっていると、思ったから。
「……もしも用事があれば、声がかかるさ」
 その言葉に、安堵を覚える。
 彼らの子どもとして生まれてきたルシフェルに、許されない感情。杞憂を浮かべるルシフェルに、サンダルフォンは安堵させるような、笑みを浮かべた。けれど、くしゅんと小さなクシャミ。初夏であるにも関わらず、顔は青白い。
「冷えてきたな……。そろそろ、中に入るか」
 顔を曇らせたルシフェルの頭を、サンダルフォンが撫でた。不安を取り除くように。細く、小さな、か細い手。今のルシフェルよりも、大きな大人の手。サンダルフォンの中で、ルシフェルは父を苦手にしている子どもだ。母親にだけ甘える子どもとしか、思っていない。息子がどのような感情を抱いているかなんて、夢にも思わない。
 勉強という名目で、ルシフェルはひどく詰られていることを、サンダルフォンは知らない。ルシファーは愉快に、サンダルフォンのことを母と呼び、何をして過ごしていたのかと聞いてくる。
 ルシフェルの隠したがっている感情を無理矢理にこじあけて、暴き、曝け出させて絶望を語る。
 サンダルフォンは知らない。ルシファーは知っている。そして、破滅を嗤うのだ。

 生まれつき、サンダルフォンは体が弱かった。成人するかどうかと言われて過ごしたとき、父親に見合いを勧められた。サンダルフォンが服用している薬品を開発した研究者であるらしい。サンダルフォンは男兄弟の末娘で長女として生まれた。体が弱いということもあってか、両親からは過保護に育てられた。結婚をしたところで、それまで長く生きられないのにと思っていた。夫となる人にも、迷惑をかけてしまうのに、気付けばサンダルフォンは結婚を承諾していた。夫であるルシファーについて、サンダルフォンはあまり知らない。研究が忙しく、家を空けることが多い。だからといって浮気を疑うことはしなかった。彼は、そういった類に興味がないようだった。
 気まぐれに、時折珈琲を強請られた。
 プラチナブロンドに縁どられた青い眼が伏せられて珈琲を飲む姿は、嫌いではなかった。
 ルシファーは決して口数が多い訳でもなければ、サンダルフォンを喜ばせる術も知らない。研究熱心な夫だが、一人息子のことは溺愛しているのか、生まれてからは帰宅することが増えた。子は鎹とは、よく言ったものだ。サンダルフォンはミルクと砂糖を加えた甘い珈琲を飲む息子をつむじを見下ろす。珈琲を好む息子だが、まだブラックは早いと甘いものを出している。不満そうにしながらも、出されたものを飲むとき目元がやわらいだ姿は我が子ながら愛らしいと思うのだ。
 夫とうり二つで、自分の遺伝子はどこに反映されているのだろうと不思議に思う程に出来た息子。少し、構い過ぎてしまっただろうかと不安になるほど、母親にべったりだが、まだ子どもだ。それに、父親に期待されているプレッシャーもあるのだろうと、甘える息子にサンダルフォンは可能な限り、優しく接した。
 この子に、ルシフェルに頼られることが、うれしかった。

2018/05/25
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