ピリオド

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 肉体を維持していた。呼吸をして生命活動を続けるだけの日々。誰も訪れることのなくなった部屋で呼吸する音は存外に大きく聞こえた。それが、未だ自分が生にしがみ付いているようで惨めで、哀れで、どうにかこの生を終えたいと何度となく願った。自分で終わらせる思い切りはつかない。そのくせに、いつ扉が開かれるのかと怯える。こんなところで終わりたくない、役割が欲しい、あの人の役に立ちたいと求める心はしぶとく根を下ろして叫び続ける。そんな場面が来ることは永劫にないというのに、夢見る気持ちが捨てられない自分が、滑稽すぎて、おかしくて、泣きそうになる。研究者が言っていたように、天司長ルシフェルという完璧な存在に"もしも"の危機が訪れることはない。だからスペアは不必要だ。盗み聞いた会話に勝手に裏切られた気分になって、爆発したように怒りが湧き上がり、やがて絶望して、悲しみであふれた。もしも、この順番が逆であったならきっと怒りのままに行動を起こしていたのだろう。何も知らず、周囲の慌ただしさの中で取り残されていたとき、星晶獣の一部が叛乱を起こしたと彼が言っていたことを思い出す。世界から取り残されたように変わることのなかった中庭で、ざわりとした胸騒ぎを覚えた。
「大丈夫なのですか?」
「きみは何も不安がることも、心配をすることもないよ」
 安心させるように微笑みを向けられ、何を返したのか覚えていない。けれど、不安だったのは、心配だったのは、彼を案じてのことだった。そしてあわよくば叛乱制圧のために共に並びたいと思った。少しは、役に立てるかもしれないと淡い期待を抱いていた。何もかもが無意味なことだった。彼の人が傷を受けることはない。苦しむことはない。だから、不用品となったのに。バカバカしくナンセンスな会話だった。叛乱を制圧するため、天司長も征伐に駆り出されるようになり、以前にもまして研究所に現れることは少なくなった。加えて、負い目があるのか、最後に顔を合わせたのも随分と昔のように思う。活力が残っていれば、叛乱に加担していたのかもしれない、そこまで墜ちていたのかもしれないと妄想をした。感情に突き動かされる愚かさに気付いてからは、与えられた部屋で膝を抱え、廃棄の時を待っている。思い出すのは研究所の奥深くで、肉塊にされていく同朋の姿だった。誰にその死を悲しまれることも無く、嘆かれることも無く、思い出されることもないまま慟哭を上げて消えていく命たち。おぞましい姿になって血を吐きながら呪詛を吐き、憎悪を抱きながら藻掻き、絶えていく命たち。実験の果て。成果を求めぬ狂気の果て。その光景を、あの男は笑っていた。
「しっかりと目に焼き付けておけ」
 思い出してもぞっとして背筋を冷たいものが這う。あの姿を、忘れることなんて出来ない。とうとう扉が、開かれる。ついにきたのかとゆるりと頭を上げた。
「こい」
 言葉少なく、フードを被った研究者は命じた。視線を合わせることもなく背を向けられる。隙だらけの背中だった。あの背中に、剣を突き立てることは容易いことのように思える。けれど、何をする気も起きない。実験の痛みに喘ぎなが過ごして、彼の人を待ち望みながら過ごした部屋。もう戻ることの無い、唯一与えられたものをぐるりと見渡して、のろのろと寝台から立ち上がり追従した。同じ背中だった。当然である。彼の人はこの研究者をモデリングして造られたのだと下っ端の研究員が話していることを聞いてしまった。だからこそ、この男が苦手だった。名前を呼んでくれる温度のある声も、役割が無いと嘆くといつか与えられると希望を囁く声も、何もかも、優しかった記憶を塗り替えるような冷たい目。それ前にすると何もできなくなる。何もできず、立ち去ることを祈りながら怯えるしかできない。ふと、最初に見たものと、最期に見るものの姿だけは同じだということに気付いた。こつん、こつんとヒール音が長い回廊に響いている。叛乱の鎮圧に多くの天司は駆り出されているらしく、研究の補助をしていた天司の姿は何処にもない。星の民の姿も無かった。実験施設とは程遠い部屋に通される。与えられていた部屋よりも広く、物に溢れているが壁にも床にも血の跡も無ければ、鼻に付く薬品の臭いも無い。男の私室のようだった。花のような甘い香りにほうと詰めていた息を吐き出した。フードを取り払った男は銀の髪を面倒くさそうにかき上げた。ローブを外すと、書籍が積み上げられたデスクに放り投げられた。扉の前で立ち尽くしていたところを、腕を引かれた。思っていた以上の強い力に思わず痛い、と漏れる。その言葉如きで男の力が弱まることはない。脚をもつれさせながら引き摺られ、寝台に押し倒される。柔らかなマットに一度体が跳ねた。真っ白い天井を背景に、敬愛していた人と同じ顔で視界が埋まる。静かな青い目は一欠けらの温度を宿していない。
「なんだ、何の反応もしないのか」
 投げかけられた言葉は落胆した素振りを見せる。けれど、声音も表情も、愉快さを隠し切れていない。鎧をつけていないラフな格好だったことを思い出す。するりと造作なく、インナーが捲りあげられた。手袋越しの手が、筋肉の薄いつくりをした腹をなぞり、胸の飾りを悪戯につまみあげる。何をしようとしているのか分からないほど、無垢ではない。嫌悪に、ぞわりと肌が粟立つ。拘束されていないというのに、手足は動かない。身は竦み、がたがたと、みっともなく震えるしかできない。
「ルシ、」
 誰を呼ぼうとしていたのか、助けを求めようとしているのか気付いて、はっとして、青褪めた。男がせせら笑う。視界がにじんだ。

2018/05/19
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