ピリオド

  • since 12/06/19
 目覚めて直ぐ、枕元に置いていたタブレット端末を手に取ることがすっかり習慣付けられていた。端末を操作すれば「自宅」で稼働している防犯カメラのリアルタイム映像が表示される。最新のセキュリティであることはルシフェルも認識しているが、それでも不安と心配は尽きない。
 昨夜から現在に至るまでを早送りで表示し、何も問題がなかったことを確認して一息つく。それから、バイタルを確認しても異変は見られない。まだ、眠っている様子だ。今でも、体を丸くして眠るのだろうか。小さな灯りを付けなければ眠れなかったけれど、今はどうなのだろうか。今度、聞いてみようか──考えたところで、ルシフェルは自嘲を浮かべてしまう。

〇 〇 〇

 ルシフェルの家は個性について研究していた。発現当初は「超能力」として畏怖されていた力を真っ先に解明に取り掛かり、今では個性における第一人者ともいえるような家系であるのだが、ルシフェルは研究者の道を選ばなかった。それきり、家からは勘当同然、とまでは言わずとも接触は少ない。元々かぞくらしい繋がりというものが希薄な関係であったのだ。ルシフェルが職業柄意見を聞いたり、事件や事故における専門家の知識が必要になれば連絡をとる、程度の繋がりだ。その繋がりを寂しいとも思わないのは、ルシフェル自身も家族に対しての思い入れが薄いからだろう。両親も含めて、どうやら一族自体がそういった傾向にあるらしく、代わりに、というべきか一点に対しての執着が張本人自身にも自覚があるほどに重い。一族は「個性」という未知の能力に、そしてルシフェルは「とある一人」にだけ向けられる。
 彼との出会いで、ルシフェルは変わった。彼に出会ってからルシフェルは「人間」になったのだ。それまでのルシフェルはといえば、最高傑作という扱いであり、いわば研究結果という扱いだった。一人息子として生まれたものの、両親の間には愛なんてものはなく、あるのは合理性と成果の追及だった。その過程として生まれた──あるいは作られたのがルシフェルである。両親と一族が求めたのはルシフェルの「個性」であり、そこにルシフェルの「意思」は無意味であり、無価値であった。物心ついたときには学習教材が与えられて黙々と解くか、あるいは個性の特訓をするかの二択がルシフェルの生活だった。その生活に疑問を持つことも苦に思う事がなくとも、我が家は家族としては異常なのだろうということはルシフェル自身が認識していた。けれども、だからといって両親に愛して欲しいだとか逃げ出したいだとか思う事も無かった。そんな中で、ルシフェルは彼と出会ったのだ。
 ルシフェルに会わせるつもりはなかったのであろう、実家兼研究施設に同年代と思わしき姿がルシフェルには物珍しく「彼は?」と思わず声を掛けたのだ。
 父が連れていたのはやせぎすで弱々しく、あちこちが傷だらけの小さな子どもだった。不安気にさ迷う瞳はどこか怯えているようにも見えて、ルシフェルは真っ先に虐待、という言葉が浮かんだ。虐待でなくても、なにかしらの事件に巻き込まれている子どもであるということは理解できたけれど、そんな子どもが何故父に連れられているのかまでは理解が追いつかないでいた。
 ルシフェルは父に説明を求めた。父は黙りこくって、やがて根負けしたように大きな歎息を吐き出すと、

「稀有なサンプルだ。お前が関わるものじゃない」
「──サンプル?」
 それきり父は説明は果たしたとばかりに、子どもの腕を引いていってしまった。歩む速度をあわせるような優しさなんてものを持ち合わせていない父に、子どもはよたよたと半ば引き摺られながらも、逃げる仕草は見せないでいた。
 言葉を交わしたわけではない。それどろか視線も交わっていない。なのに、既にルシフェルは惹かれていた。そもそもとして、ルシフェルが興味をもって声を掛けることはこれまでの記録でなかったのだ。だからこそ父は引き剥がそうとしたのだ。この子どもは稀有であるものの、ルシフェルという最高傑作に対しては悪影響にしかならないと直感で判断したのだ。合理主義に欠けるが、直感は正しく、そして何もかもが手遅れであったことを後悔する。
 それきり、ルシフェルの脳裏に、華奢──どころか骨と皮のような手足が焼け付いて離れないでいた。しっかりご飯は食べさせてもらっているだろうか。怪我の治療はしてもらっているだろうか。サンプル、と言っていたけれど危ないことはされていないだろうか。なんて、考え出すといてもたってもいられなくなった。与えられている部屋を出るとルシフェルは研究所に、その姿を探す。父に問い詰めたところで、無駄であることは承知していた。
 研究所には幾つもの部屋がある。部屋のすべてをルシフェルは把握していないし、研究内容についても、詳しくは聞かされていない。今までならば、知ったところで関係ないと思っていた。
 全ての部屋を確認する、なんてことは非効率的だ。時間がかかる。そうすれば父に発覚してしまう。あの子が移動させられてしまうかもしれない。だからこそ、最小限に探索箇所を絞る必要があった。

(サンプルといっていた。稀有、とも……なら人の出入りが激しい研究室は除外される。情報が漏れる、あるいは逃げ出した場合を想定するとなると限られた研究者だけが入れる区域……)

 確実にいるという保証はないが、思いついたのは最奥の研究室だった。増築と改築を繰り返して複雑に入り組むようになった研究所の最奥に位置する。日の浅い研究者や外部の人間ならばまず辿り着くことができない。研究室を出るとなっても、構造の不慣れであれば迷うことになる。ルシフェルははやる気持ちを抑えて、父の不在を確認した。
 研究室には監視カメラの類は設置されていない。それでも、万が一にも父に気づかれてはならないし、どこに父の側近がいるのかもわからない。素早く部屋に忍び込む。
 そこに彼はいた。実験器具やレポート、書籍が乱雑に広げられている空間で怪訝な表情を浮かべてルシフェルの様子を窺っている。咄嗟に立ち上がったのだろう、足元には図鑑が転がっていた。見覚えがあるそれは、幼い頃、ルシフェルが読み終えた昆虫図鑑だった。
 視線が交わる。一拍遅れて、彼は怯えるように肩を跳ねさせて後退った。検査着から覗く手足は細いままだったが、真新しい怪我はない様子だった。それどころか怪我の治療はしっかりとされていたことに、ルシフェルはほっと安心を覚える。安堵から、表情が綻んだ。目の前の彼は警戒しながらも、対応が分からない様子で視線を泳がせている。そこで、ルシフェルも戸惑った。だって、探して、見つけて、その後はどうするのかなんて考えていなかったのだ。ただもう一度会いたいだけだったのだ。だから、目的は果たされた。けれど、それで終わりに出来なかった。したくなかった。
 声を掛けようとして、ルシフェルは生まれて初めて人間は緊張すると声が出なくなるのだと身を以て知る。そして、自分が緊張状態であることを頭では冷静に、けれども体は脳の指令を無視していることを把握した。
 口をまごつかせるルシフェルに、目の前の彼の方が冷静を取り戻している様子だった。

「あの人がかえってくるまえに、でてったほうがいいよ」

 その声は彼の口から発せられた。想像していたよりも落ち着いた声音だった。
 あの人、というのが父を指すということに気づく。そして、緊張とは別に胸がざわめきだす。

「きみは大丈夫なのか」
「さぁ……わからないけど……でもひどいことはされないとおもう。まだケンキュウはおわってないから」
「……きみは、なんの研究をしているのか知っているのかい?」
「うん」

 ルシフェルが問いかければ明瞭に首肯した。それからほんの少しだけ言い淀み、視線を足下に落とした。ルシフェルもつられるように足に視線を向けた。

「おれ、足のゆびのかんせつ、2つあるんだって」

 思わず、息を呑んだ。そして、父の言葉を理解する。なるほど、彼は稀有なサンプルだと納得をしてしまう。
 かつては少数派だった超能力──個性を持つ人間は今や大半だ。それどころか、持っていない人間のほうこそが見つけるのも苦労するほどで、その苦労する程の人間が、彼であるのだ。

「むこせいでも、やくにたてるんだ」

 嬉しそうにも、あるいは強がりにも聞こえた。個性であっても、能力に関しては優劣がある中で彼がどのように扱われてきたのかなんて、研究所に居る時点で、連れられてきたときの様子からして、察するに余りある。ルシフェルは衝動的に手を伸ばしていた。ほとんど無意識だった。触れれば思っていた以上に細く、薄い。

「っ」

 触れた瞬間、彼は小さな声を発して体をびくりと跳ねさせ、体を固くさせている。名前も知らない。彼にとっては顔を合わせた記憶もないかもしれない相手だ。言葉を交わしたのだって初めてなのだ。不審で気味が悪い。それでも、ルシフェルは抱きしめる腕を緩めることはできなかった。今の自分には、彼を抱きしめることしかできないということを、理解していた。

「名前を教えてくれないか?」
「おれの?」
「うん、君の名前を知りたいんだ」
「……サンダルフォンって、呼んでたから、たぶん」

 曖昧な言葉だった。それが、彼の──サンダルフォンの過ごしてた世界なのだと思うと胸が痛くなった。腕の中ではサンダルフォンが身じろぐ様子を見せた。嫌がるというよりも、所在無さげな様子で、抵抗はない。

「すまない、サンダルフォン。でもきっと、迎えに行くから」

 ルシフェルにはそれしか言うことが出来なかった。
 一緒に逃げよう、だなんて無謀な言葉を口には出来なかった。無理矢理に彼を連れ出すことなんて、出来なかった。自身の無力を嘆いた。彼を連れ出したい。助けたい。彼は必要としていないかもしれない。ルシフェルの独り善がりであっても、研究のサンプルになることを役に立てると言う彼への同情であっても、彼を救いたかった。その為だけに、ルシフェルはヒーローになった。

〇 〇 〇

 アラームの音にもぞもぞと手を伸ばす。手に取った携帯端末のアラーム設定をオフにして、そのままSNSを開く。トレンドには何時だって、その名前が表示されているから何かあったのか、何もなかったのか判断付きかねる。
 最新のタイムラインを見れば、どうやら事件があったらしい。詳細を見ようと検索をしてみれば、つい数時間前の投稿が目についた。
『ヒーロールシフェル大活躍!!』ネットニュースの見出しの記事は未明に起った事件についてだった。ヒーローを称讃する内容であり、他のニュースサイトでも同様だった。記事の執筆者もさることながら、事件発生から解決までを考えたら、あの人はちゃんと寝れているのだろうか、なんて心配がサンダルフォンには過る。自分が心配したところでなんの足しにもならないとは分かっているものの、ついつい、考えてしまうのだ。そして同時に、遣る瀬無くなる。
 対して自分はどうだろうか。
『対して』も何も、である。比べようがない。そもそもの立っている舞台が違うのだ。ルシフェルはといえばデビューしてから今日に至るで知らぬ者はいないと言われるほどの人気ヒーローだ。対してサンダルフォンはしがないフリーターだ。フリーターといっても住んでいる家も携帯端末も何もかもがその人気ヒーロー頼りで、細やかながら得た収入は貯め込むしかない。いずれ返済をしようと貯蓄に勤しむものの、そもそもサンダルフォンの収入では家賃の支払いも出来ないような場所に住む事自体、不相応なのだ。サンダルフォンが頑なに固辞をしても、それを上回る頑固さと、お願いをされて、サンダルフォンはルシフェルの厚意に甘えている。それがいつも、サンダルフォンを苦しめる。

(あの人にとって、俺は何時まで可哀想な子なんだろう……)

 成長したサンダルフォンを連れ出してくれたのは、ルシフェルだった。その頃には研究も落ち着いていて、件の研究者でありルシフェルの父はすっかりサンダルフォンを持て余していたから、遅かれ早かれ、サンダルフォンは研究所を出る手筈だったのだ。けれど、サンダルフォンは嬉しかった。約束を守ってくれたんだ。迎えに来てくれたんだと、嬉しくてたまらなくて、何も考えずに、ルシフェルの手を取った。それを、ほんの少し、後悔をしている。
 サンダルフォンは鬱々とした気持ちを覚えながら、ベッドを出た。伸びをする。伸びをして、手首につけられている時計型のデバイスの存在を思い出す。この存在にも、慣れてしまったなぁと思いながらも、仕事が忙しい人には意味があるのだろうけれど生憎とサンダルフォンは必要性を感じなかった。ただ、ルシフェルにつけていて欲しいと言われたからそのままだ。
 久しぶりの休みだった。カーテンをあければ眩しい程の青空が目に染みる。シーツを洗濯するには丁度いい天気だった。

 静音機能に優れたドラム式洗濯機は半年ほどまえに買い換えられたものだ。動いているのか心配になるほどの静けさなので、サンダルフォンはつい、ぐるぐるとまわる中を覗き見てしまう。眼で追いかけると気分が悪くなるから、動いているのを確認してそそくさとキッチンへ向かう。
 店長の好意兼捨てるのは勿体ないからと押し付けられたサンドイッチ用のパンを処理しなければならない。一人暮らしだということを知っているのに、良いから良いかと、ちっとも良くないと言うサンダルフォンに押し付けられた8枚切りの食パンは3斤ある。何枚かはすぐに食べたら良いが殆どは冷凍するしかない。生憎と、サンダルフォンにはお裾分けをするような親しい間柄の知り合いはいなかった。淋しくはない。けれど、虚しくある。
 パンを取り出すと、これまた持て余す程の機能が充実されたトースト機能のついたオーブンレンジに突っ込む。オート機能で目を離してもよいらしいのだが、以前に目を離した隙に真っ黒こげになっていらい過保護になってしまう。そもそもサンドイッチ用の薄いパンを焼く事は想定されていないのだから仕方ないことだったのだろう、と在りし日に黒焦げの部分をせっせとナイフで削いでいた自分を慰める。
 1分弱で取り出したパンは程よく焼け上がっていた。焼き上がったパンの上にマヨネーズを絞り、伸ばし、その上にハムを乗っける。ハムは期限が切れかけていた。それからケトルで保温されていたお湯をマグカップに注ぐ。喫茶店で働くようになってから、珈琲を飲むようになった。店では淹れることを任されるようにもなっているが、部屋には珈琲に関する器材は無い。精々がお湯を注ぐだけのインスタントだ。
 一人で使うには広すぎるテーブルにお皿とマグカップを置いてサンダルフォンは小さく、いただきますと声に出した。
 ルシフェルが用意をした家と家具に囲まれながら、一人で食べる食事の味気の無さには、洗濯機が使用期限だからと買い換えられるほどの時が過ぎても、慣れることはなかった。研究所では一人で食事が当たり前だったのになと不思議に思ってしまう。
 食べ終えて、食器を片付け終わったときに丁度洗濯機が終了音を鳴らした。
(干し終えたら、買い物にいかなきゃな)
 ハムを使い終わった冷蔵庫にはドレッシングと水しか入っていないことを思い出す。作り置きも出来やしない。

〇 〇 〇

 外は得意ではない。閉鎖的な環境で育った所為が、開放的な空間は落ちつかず、どこに身を寄せればいいのか分からなくなってしまう。それに加えて、どうにもハイレベルな人間が住んでいる住宅地であるということも、拍車をかける。
 引退をしたヒーローや現役ヒーローも住まいを置いてあるということで、防犯レベルが高くなり、引き寄せられるように住宅地そもそものレベルが高くなっているようだった。研究所を出て、ここが新しい家だよと連れられて、当然のようにルシフェルも一緒に住むものだと思い込んでいたのはサンダルフォンが墓まで持って行く秘密のひとつだ。何年も前のことながら、思い出す度に、思い上がっていた、調子に乗っていたと羞恥でもんどりうちたくなる。そんなことを思い出してしまったから、反応が遅れた。

「危ない!!」

 その声が自分に掛けられているとは思わなくて、気付いた時にはトラックが迫っていた。逃げなければ、と思うのに身体は動かないで、そして冷静にこれは死んでしまうな、と他人事のように思っていた。サンダルフォンの体に衝撃が走る。思っていたよりは痛くはない。けれども、こういうものなのかもしれない。キキーと甲高いブレーキ音が聴こえた。同時に周囲がざわめきだす。そこで初めてサンダルフォンは自分はまだ死んでいないのだと気づいた。
 突き飛ばされたようだった。
 体を起こせば、先ほどまで歩いていた歩道にはトラックが乗り上がっていることが確認できた。
 今更になって恐怖心が湧き上がった。心臓が馬鹿みたいに跳ねて、冷たいものが背中を伝う。同時に、体が震え出した。

「大丈夫ですか?」

 すぐ近くで声を掛けられる。若い声だった。その声のお陰か、震えは残るものの混乱状態からは抜け出せつつあった。声は出ないものの、頷き、首肯を示す。暫くして警察が到着した頃には落ち着きを取り戻していた。同時に脳も正しく、体の異変を感じ取ったようで、足首に痛みを覚えていた。サンダルフォンは思わず眉を寄せた。

「すみません、よろしいでしょうか」

 事情聴取をしたいのだという警察官に、サンダルフォンはわかりましたと首肯した。気が動転していて、今の今まで座り込んでいたことに今更になって恥ずかしくなる。すくっと立ち上がると矢張り足首の痛みで眉間にしわが寄った。それどころか先ほどまで引いていたはずの冷や汗が米神を伝った。
 そこからの記憶は曖昧だ。
 警察車両とともに駆けつけていた救急車にサンダルフォンは搬送されて、レントゲンをとり、重度の捻挫と診断された。骨折じゃなかったのかとほっとして、気付けば家だった。警察の事情聴取はうけたのかも曖昧だった。何かあれば警察から連絡があるはずだ。サンダルフォンは今日はもう何もしたくないと玄関から動けずに座り込む。
──報告したほうが、良いのだろうか。
 受け身を取りそこない、画面に傷がついた携帯端末に触れる。

「何かあったらすぐに連絡をしてほしい」

 そう言ってルシフェルから渡された端末だ。緊急用の連絡にメッセージを送ったことはない。ただ、サンダルフォンには何か、の基準が分からなかった。だから優先事項をつける。ルシフェルはもしかしたら人命救助にあたっているかもしれない、秘密裏のヒーロー活動をしているかもしれない。なら今の自分の状況は緊急だろうか。サンダルフォンは足首を見る。たかが、捻挫だ。重度、とは言われたものの命に別状はない。念のためと頭も含めて検査をしたが、異常は見られなかった。だからサンダルフォンは連絡先画面を閉じる。それからまた、SNSを開いた。トレンドにはルシフェルの活躍を讃える文章が表示される。大きな交通事故があったらしい。死傷者が出るほどの事故だ。やっぱり、こちらの緊急性は低い。
 サンダルフォンは玄関先でいつまでもぐだぐだしているわけにはいかない、と足をひょこひょこと引き摺りながら壁に手をついてリビングへと向かう。

(結局買い物どころじゃなかったな。最後の手段のカップラーメンか……デリバリーか……今日くらいは抜いても良いか……。それよりも店長に連絡をしないと……今の時間なら迷惑じゃないかな……)

 リビングにようやっとたどり着いた頃には、緊張の糸がぷつりと切れてしまう。メッセージを送る気力もわかない。襲い掛かる眠気に抗いながら、携帯を手探りで取り出す。その拍子に、時計型のデバイスが傷だらけになっていることに気づいた。失念していた。幸いにも、故障はしていないようだった。使いこなしているわけではないし、絶対に必要としているわけではないけれど、毎日身につけているものだから、気付かないうちにいつのまにか、愛着がうまれていたようだった。ショックを受けている自分に気づきながらも、連絡先から店長を探し出す。多少であれば痛みも我慢できるが、喫茶店のスタッフは基本が立ち仕事だ。この具合では邪魔になってしまう。電話を掛けるも不在のようすで、留守電メッセージ対応に切り替わる。
 事故に遭った旨と暫く休みにしてほしいとメッセージを残す。
 簡潔な言葉になってしまうが、今のサンダルフォンには取り繕う余裕はない。やるべきことはやった。同時に店長からパンを貰っていたことを思い出す。まさかここにきてだな、と思いながらサンダルフォンは微睡みを受け容れ、身を委ねていた。

〇 〇 〇

 私用の携帯端末にメッセージは無かった。便りがないのは良い知らせだと自身を納得させて、落胆を上書きする。ただバイタルアプリが異常を知らせていた。昼頃のことだ。丁度、大規模な事故現場に駆けつけている時間だった。ばくばくと心臓は早鐘をうつ。喉がつまり、息苦しさを覚える。震える手で現在の状況を確認すれば、通常状態だと表示される。それでも、昼間に何かしらあったのだということは明らかだった。もしかしたら、デバイスの異常で、測定ミスかもしれない。ただ押し寄せる不安を打ち払いたい一心で、玄関モニターの映像を確認する。
 玄関先でひょこひょこと歩く姿にルシフェルはすれ違いざまに頭を殴られたかのような衝撃を受けた。思わず、携帯端末を手に取るが、連絡は何一つ入っていない。留守電メッセージにも、何もなかった。出掛けている間に、事故かあるいは事件に巻き込まれたのは明らかだというのに、何も、連絡は無かった。
 なぜ、どうしても、と気づけばタクシーを呼びだしていた。口が堅く、運転の出来ない状況や足が必要になったときに声を掛けさせてもらっている、気に入っているタクシー社だった。運転手は何度かルシフェルの担当をしたことがある。しかし、ルシフェルのただならない様子に気に掛けながらも、声を掛けなることはない。
 まだつかないのか、と口に出しそうな言葉を呑みこみ、昼頃に近くであった事故や事件を検索する。多くを占めるのはルシフェルが対応をした交通事故だった。痛ましく、死傷者がでるほどの事故であったが、ルシフェルが今求めているのはその情報ではない。くまなく探して、やっと見つけたのは自治体が管理しているホームページだった。マンションのすぐ近くであることや、被害者の年齢から、この事故だと確信をする。

(サンダルフォン……)

 ヒーローになって、一番に恐れたのは自分の所為でサンダルフォンが害されることだった。
 一般市民にとってヒーローは正義の味方だ。けれども犯罪者にとっては邪魔者でしかない。そんな相手の逆恨みで、ヒーローの近親者が被害にあうことは大々的には取り上げられていないものの、少なくはない。サンダルフォンのためにヒーローになったのに、危険にさらすなんてあってはならない。だから、遠ざけた。だというのに、このざまだ。
 タクシーが緩やかに目的へと到着をする。礼を告げて急いでマンションへと向かう。所有者はルシフェルであるが、部屋に立ち寄ったのはサンダルフォンを案内して以来だ。どこから関係性が発覚するのか分からなかった。
 エレベーターに乗り込むなり、思わず階層ボタンを無駄に何度も押してしまう。一度しっかりと押した感覚は分かっているし、連打したところでスピードアップをするわけではない。もどかしく思いながら、到着した階で降りようとするも気持ちが急いて、足がもつれる。何がヒーローだ。情けない。
 乱暴に開けた扉の先に明かりは灯っていない。足を怪我していた。それ以外の外傷はなかった。だから、大丈夫だと言い聞かせても不安がルシフェルを煽る。引っ掛かりながらも、靴を脱ぎすて部屋に上がる。その拍子に、かつんと、立てかけられていた松葉づえが倒れた。元の位置に戻すたった数秒すらも惜しくてならず、部屋に駆けこむ。
 ばたばたと、大きな音を立てていた自覚はあった。だから、ぼうっとした様子で寝起きですと言わんばかりのサンダルフォンがぽつんとラグの上とはいえ、床下に座り込んでいるのに、ルシフェルは戸惑った。怪我の様子は、とか、事故についてだとか聞きたいことがあるのに、言葉が出てこない。無我夢中で、サンダルフォンを抱きしめていた。
 寝ぼけ眼だったサンダルフォンもやっとどうしてルシフェルがいるんだろう、と意識が明瞭になる。もしかして店長にかけたつもりだったのがルシフェルになっていたのだろうか。そうだったら余計な心配をさせてしまったかもしれない。
 落ち着いたらしいルシフェルがすまない、といって離れるまでサンダルフォンは抱きしめられたままだった。そういえば、抱きしめられるのは二回目だなと思ったものの、たった二回では経験値がたりず、サンダルフォンは腕に収まっているだけだった。

「……疲れているのに押しかけてしまったな」
「それをいうならルシフェルの方が疲れてるだろ? 俺のはちょっとした捻挫だから、大したことじゃない」
「そんなことはない。心臓が止まるかと思った」
「大袈裟だな」

 サンダルフォンは苦笑する。
 押しかけるも何も、そもそもこの家はアンタの家なのに、とは口にしない。
 サンダルフォンが何を言ったって、ルシフェルが受け入れるかは別だった。そんなことはサンダルフォンだって今更なことで、分かってる。ルシフェルにとって、サンダルフォンは無力で、可哀想で、守ってあげなければならない子どもなのだ。弱くて、一人では生きていけない。それがルシフェルの目に映る自分の姿なのだろうとサンダルフォンは諦めた気持ちを覚える。惨めになる。何を言ったところで強がりにしかならない。
 未だ心配そうなルシフェルに苦笑しながら、サンダルフォンは心の内でひとりごちる。
 研究所から連れ出してくれたのはルシフェルだけど、なら、この檻からは誰が連れ出してくれるんだろう。
 世界に誇るようなスーパーヒーローが気に掛けてくれている。ファンであれば、羨み妬むかもしれない。けれどもサンダルフォンは、ヒーローのファンではない。ルシフェルは、サンダルフォンのヒーローではなかった。
 サンダルフォンはヒーローを望まない。助けてなんて願ったことはない。ただ、一緒にいてくれるだけで救われる。けれどその救いすらも、サンダルフォン自身が分かっていない。
 きゅう、とサンダルフォンの腹の虫が鳴る。サンダルフォンは誤魔化すみたいにへにゃりと笑った。
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