ルシファーと接する機会は多くはない。だが確実にルシファーにとって自分は不快な存在なのだろうということは見当がついていた。誰に対しても、ルシフェルのみが例外である中で、冷徹な振る舞いのルシファーであるのだが、サンダルフォンは自分に対してだけは当たりが強いことを自覚していた。自分は何か仕出かしたのだろうかと思い悩んだことがある。自覚がないだけで、失礼なことをしたのかもしれない。考えたものの、その確認をいざ本人に確認することも出来ないままだった。
何を言われるのかとサンダルフォンは次の言葉を待つ。暫くしてからルシファーは小さく息を吐き出した。それをサンダルフォンは溜息のように感じた。呆れられたように思えた。ひどく、惨めになった。
「ルシフェルはどうした」
「すでに研究所を発たれました」
サンダルフォンの言葉に、ルシファーは眉を寄せて怪しんだ様子を見せた。疑う視線を受けて、サンダルフォンはさらに身を縮こませる。
嘘をつく理由はない。ルシフェルが発ったことを責められたとしても、そもそもルシフェルを引き留めるだなんて、サンダルフォンには出来ないことだ。どうすることもできない。
「そうか……ならばいい。ついてこい」
それだけを言い放つ。
サンダルフォンの返事を必要としていない。求めていない。サンダルフォンもルシファーの言葉を、命令を、拒絶することは許されない。天司として作られたサンダルフォンにとって、天司長であるルシフェルの言葉こそが最上位の優先事項ではあるが、研究所に身を置く身であり、何より役割のないというサンダルフォンの現状、研究所所長であるルシファーの言葉に異を唱えることは出来ない。
サンダルフォンはついてこい、と言われた理由を探す。なぜと疑問を抱く。けれど、口にすることは出来ず、ただ、ルシファーの後を追いかけた。
ルシファーの後ろ姿を見つめながら、実験室に連れていかれると思った。検査をするのだと思ったのだ。
サンダルフォンの検査に関してはルシファーが管理をしている。そのルシファーが多忙だ。なんせ研究所所長という立場もありながら、ルシファー自身も研究者である。それらに比べれば、役割の与えられていない天司の検査の優先順位は断然に低い。そして検査をするから、ルシフェルを探していたのかとサンダルフォンは辿り着いた。
(検査をするときは、いつもルシフェル様が付き添ってくださっていた)
冷え冷えとしていた胸があたたかになる。
ルシフェルを前にしても緊張をするが、同時に絶対的な安心感を覚える。大丈夫だと理由のない安堵を抱ける。だから、検査の際にルシファーを前にしてもある程度は、落ち着けたのだ。
あるいは、研究所の奥。水の腐ったような、生臭い臭いのする区域。纏わりつくような気持ち悪さを思い出す。ぞっと背筋に冷たいものが走った。いっそ考えないようにしていた。敢えて、排除していた。
──廃棄
過った思考を振り払うように小さく頭を振った。
「なにをしている?」
「いえ、なにも」
なぜ気づいたのだろうと思いながらも、サンダルフォンは首を振った。ルシファーは特に気にしていないようだった。
サンダルフォンは気持ちがどんどんと沈んでいくのを感じた。黙りこくってルシファーの後をついていく。やがて見慣れない区域へと入っていく。研究棟よりも静かだった。サンダルフォンに許可された区域ではない。サンダルフォンだけではない。そもそも、天司が立ち入ることを禁止されている区域──星の民の居住区だ。サンダルフォンは立止ってしまう。ついてこない足音に、ルシファーが訝しむように振り返った。
「どうした」
「これ以上は立ち入ることができません」
「あぁ、問題はない」
「しかし、規則です」
「そもそも無意味な規則だ。規則を制定したくせに、やつ等もろくに立ち入ることが無いからな」
「ですが」
「責任者である俺が許可を出している」
ルシファーの言葉はサンダルフォンを安心させる材料にはらなかった。
サンダルフォンにとって、どれだけ理由があったとしても、規則を破るだなんて、考えられない行為だ。あってはいけない。規則を破ったことによりサンダルフォンが責められるのは耐えられる。当たり前のことだからだ。しかし、サンダルフォンの失態を通して、創造主であるルシフェルが責められるような事態はあってはならない。
「はやくしろ、時間が惜しい」
急かすルシファーに、サンダルフォンは散々に思い悩んで、区域に足を踏み入れた。
「利用者が少ないだけで、利用していない区域ではないことを頭にいれておけ」
聞いていないとでも言いたげな様子で、責めるようにルシファーを見つめてしまう。ルシファーは小さく微笑した。その姿がルシフェルに似ていたからサンダルフォンは小さく息を呑んだ。けれどもその微笑は一瞬だった。瞬きをすればいつもの冷徹な顔だった。見間違えかと思いながら、後ろに続いた。
居住区は研究棟以上に人の気配はなかった。無機質な空間がどこまでも続いていた。検査や廃棄を態々居住区空間でする必要性はない。だったら、なぜ呼びだされたのか──サンダルフォンには思いつかなかった。そして通された部屋があまりにも殺風景だったものだから、戸惑う。
そして殺風景な部屋の中で机の上に置かれているものだけは、見覚えがある。
珈琲を淹れるための道具一式だった。
サンダルフォンがそれを目に入れたのを確認したように、ルシファーがため息をつく。それから「淹れろ」と、命じた。できないとは言えないサンダルフォンは首肯するしかなかった。
「お待たせしました」
振り絞るように出した声はサンダルフォン自身でもどうしようもないほどに、強張っていた。カップを差し出す手が震える。注がれている珈琲が小さく波立つ。どうにか机の上にカップを置いても、サンダルフォンの張り詰められた緊張の糸が緩むことはない。緊張だけではない。じりじりとした不安が押し寄せる。サンダルフォンは判決を下されるのを待つような沈痛な面持ちで、それ以上言葉を繋ぐことも出来ず、かといって立ち去ることも出来ずに、立ち尽くすしかなかった。
サンダルフォンの様子は気にも留められず、黒いグローブに包まれた手がカップに伸びる。サンダルフォンがよく見かける冷徹な顔で、珈琲を口にした。
サンダルフォンは緊張、不安、それからそわそわと心配になる。
なんせルシフェル以外のために淹れたことはなかった。ルシフェルは美味しいと言ってくれる。サンダルフォン自身も、悪くはないなと思っている。けれど、果たして──。
ルシファーの眉間に皺が寄っていた。
「……悪くはない」
表情と言葉が不一致なものだから、サンダルフォンは何を言えばいいのか分からなかった。