薄暗い中を足早にグランサイファーへと向かう中で、サンダルフォンは今日の依頼での反省点と前回の経営修行から活かされた点を振りかえる。それから、だんだんと艇で、ルシフェル様はどのように過ごされただろうかと考えていた。
復活を果たしたルシフェルは、グランサイファーに同乗している。それは、ルシフェルの意思だった。ただの命として、空の世界で生きて、旅をする。それが新たに得た命でルシフェルが選んだ生き方である。サンダルフォンはその選択を嬉しく思った。天司長として作られ、その役割を全うした彼が、ルシフェルの意思で生きていることが、何よりうれしい。そして、その隣にいることを許可されたことがサンダルフォンは幸せだった。
グランサイファーに辿り着く。おかえりと声を掛けられて、ただいまと返すことに慣れていた。共闘を持ち掛け、同乗したばかりの頃はといえば、おかえりと言われることにはなれなかったし、ただいまと口にできなかった。ただいまなんて、口にしたことは一度としてなかったのだ。だから戸惑っていた。それも、何時の頃から自然と口にできるようになっていた。
「ルシフェルなら甲板にいたよ」
「聞いてないが」
「目が探してる」
揶揄い混じりの団員に、声を掛けられる。サンダルフォンはそんなにあからさまだったろうかと不思議に思いながらも、言われるがまま、甲板へと向かう。はたはたと強く、風が吹いた。広い甲板の先に、ルシフェルはいた。──「ルシフェルさま」
呼び掛けようとして、飲み込んだ。駆けだそうとした足は鉛でも巻き付いたかのように、重く、動かない。
視線のさき、甲板に、確かにルシフェルはいた。ルシオではない。あの男は町へと繰り出していた。なんせ態々サンダルフォンが手伝いに出向いた喫茶店に現れたかと思えば多少の混乱と騒動を巻き起こして、それでは頑張ってくださいねと労わるような言葉をかけるだけで、事態を収めることなく、去って行った。何がしたかったんだかときっと、サンダルフォンが抱いている精神的な疲労感の八割はその所為であることを確信しながら恨みがましく、思った。そのルシオはといえば、今日は観劇にいくのだと言っていた。一応、役者である自覚があるらしい。その観劇は夕刻からの開演だった。だから、ここにいるはずがないのだ。だから、彼がルシフェルであるのだと、サンダルフォンは確信している。視線の先、ルシフェルは、団員と話し込んでいた。その姿を視界に入れた途端に、サンダルフォンは数千年前に放り込まれたような、途方もない孤独感に襲われる。
ぽつんと、天司でありながら役割を知らず、与えられず、隔離されて、おめおめと息をするだけの日々。創造主であるルシフェルと会っている時だけ、生きていることを許されたかのように、世界に認識されたかのような気持ちを覚えた。そんな、気持ち。そんな、孤独感。世界から弾かれたような、心細さ。サンダルフォンは息を呑んだ。
──なんて、醜いのだろう。
煌めくルシフェルとは真逆。立場を思い出す。思い知らされる。途端に、息苦しくて、消え去りたくなった。浅ましい。恥知らず。きゅっと袋を抱えなおす。サンダルフォンは、逃げ去るようにして、甲板を後にした。
……そうだ。探して、どうする。いちいち、ルシフェル様の行動を詮索するのか。そんなこと、俺が口出しすることじゃない。なぜ声を掛けようとした。彼の御方の貴重な時間を潰そうとした。それを、どうして、当たり前に思った。思い上がっていた。付けあがっていた。厚顔無恥。恥知らず。
「──サンダルフォン?」
団員との会話の途中、不意に気配を感じ取り、振り向いた。呼びかける、というよりも思わずといった具合で声に出していただけの、小さなものだった。会話していた団員が聞き取れる程度の声量だった。そのルシフェルの様子に、団員は不思議に、首をかしげた。
サンダルフォンは依頼なり、買い出しなり、なんせ出かけ先から戻ってくると、真っ先にルシフェルの元へと向かい、声を掛けることは、団員達はとっくに気付いていた。きっと本人はその感情を理解していないのだろうと、団員は顔を見合わせてはあらまあ、なんて気持ち。微笑ましくていじらしい。もどかしさを感じる団員を、酸いも甘いも知り尽くした年長者が抑えつける。けれどもそれを口にしたらサンダルフォンは照れであったり羞恥であったり、なんせ、こじれるかもしれない。すっかり、手のかかる末っ子扱いの天司長の言動。ルシフェル自身は、サンダルフォンの気持ちは分からない。けれども、嬉しく思っていた。自分を見つけた途端に、ぱっと顔を輝かせる。名前を呼び、頬を紅潮させて、駆け寄る姿。安寧と呼び慈しむには相応しい存在であることに、変わりはなかった。
「帰ってきてるの?」
「ああ、そのようだ。さっきまで居たようだったが……」
失礼すると言うなり、ルシフェルは艇内へと向かっていった。会話内容はといえば、確認程度。星の民が書き記したとされる古文書の解析結果。その確認も済んでいる。団員はしょうがない、と笑って見送った。
ルシフェルは艇内の廊下を歩き抜けていく。サンダルフォンの姿を探しても、見つからない。艇内にはいないのだろうか。すれ違う団員もサンダルフォンの姿を見ていないという。それどころか、帰ってきているの、なんて聞き返される。ルシフェルは少しばかり、居心地が悪いような気持ちを覚えた。
ルシフェルはサンダルフォンの部屋の前に立った。ノックをするも、反応はない。けれど、確かに、サンダルフォンがいるのであろう気配はある。ルシフェルは逡巡、ドアノブに手を掛けた。あっさりと、扉は開いた。不用心だと思った。
カーテンの閉め切られた部屋の中は薄暗かった。ベッドの上に膨らみがあった。ルシフェルはその膨らみに手を伸ばす。膨らみが強張った。
ルシフェルは浅く、寝台に腰掛けた。膨らみを撫でる。おそらく、背中に当たる場所だった。天司の急所。羽の付け根。サンダルフォンは反応を示さない。部屋に入って来た気配が誰であるのか分からないわけではなかった。誰であるか分かったうえで、醜態を、ふてぶてしい態度を取っていた。ルシフェルもそれを承知の上で、手を伸ばし、触れていた。
声を掛けるでもない。ルシフェルには分からなかった。ただ、触れたかっただけだという自覚がぼんやりとあるだけだった。
触れる手付きに、次第に遠慮は無くなっていく。布越しに触れる背骨の形を確かめるように指先でなぞると、びくり、と体が震えたものの、ルシフェルの手を払う気配はなかった。ルシフェルを追い払う気配はない。ルシフェルはサンダルフォンの背に、布越しに触れながら、なんと無しに部屋を見た。整理整頓されているものの、物が多いと思った。備え付けられている棚には瓶がぎっしりと詰められている。丁寧にラベリングされて、ラベルには豆の品種や日付が書かれていた。
「……何か、あったのか? 私では、力になれないか?」
サンダルフォンは何も答えない。一方的に話しかけるルシフェルも、返事は期待していなかった。独り言のようなものだった。それでも、言葉を紡ぐことを止めることは出来なかった。ルシフェルの問いに、サンダルフォンは沈黙を返した。何も答えるつもりは無かった。答える言葉が、見つからなかった。
──貴方は、俺を何だと、思っているんですか。
ルシフェルの言葉に、サンダルフォンは胸中で問いかける。まるで、子ども扱い。それが、自身の行動を何よりも的確に表現しているものだから、また、歯痒い。サンダルフォンは押し寄せるような苛立ちとも、羞恥ともとれない感情を御することに不慣れだった。黙りこくって、知らないふりをすることだけは得意になって、その気持ちを伝える術を知らなかった。教えられることは、なかった。
「サンダルフォン、顔を見せてくれないか」
発した声が、あまりにもしょぼくれたような、情けないものであったから、ルシフェルは自分の声で言葉だというのに、驚いてしまった。その音を耳にしたサンダルフォンも、一瞬、本当にルシフェル様なのかと不敬な疑いを覚えてしまったから、確認のためにと、おずおずと被っていた布団から顔を覗かせた。布団をまるまると被っていた顔は赤くなり、髪もあちこちに跳ね返っている。その様に稚さを、変わらぬ愛しさを感じて、ルシフェルは息苦しくなる程の感情を必死におさえつけた。取り繕うように、浮かべた笑みはどこかぎこちない。サンダルフォンはその笑みを向けられて、戸惑い、釣られるように、同じく、ぎこちない笑みを浮かべた。