ピリオド

  • since 12/06/19
 小鳥のさえずりで、目を覚ましたルシフェルは奇妙な感覚を抱いた。感覚が研ぎ澄まされているように、それは遠い過去──かつて天司として活動していた頃を思い出させた。
 空の世界の総てを見守っていた。人々の営み、成長、発展──進化。
 天司長として数千年稼働していた。空の世界を守り続けていた。誰の記憶にも残られず、どの記録にも残されない。孤独な戦いを繰り返したのは、それが天司長の役割であると自身に課したからだ。空の世界を守ることこそが、天司長の役割だと、自らに課していた。そしてその最期は凶刃に倒れるというもので、ルシフェルも予想にしていないものだったのだが。
 思い出すことも無かった記憶に振りかえってしまうのは、思わず、懐かしい感覚を思い出したからだった。
 そろそろ支度をしなければと寝台から起き上がるころにはすっかり、人間としてのルシフェルになっていた。
 身支度を整えながら携帯端末を操作する。ニュースサイトに目を通して淹れた珈琲を口にする。代り映えのしない毎日の繰り返しだった。時間になり家を出る。天気予報では一日、快晴が続くとキャスターがよみ上げていたがどうにも怪しい空模様が広がる。ただ、ルシフェルは日ごろから車通勤であるため、外れてもそこまで被害を感じることはなかった。
 車を走らせ数十分で職場へと到着する。リモートワークに移行しつつある社内は静かなものだった。近頃では経費の関連から社屋であるビルの売却案も出ている。必要性に応じて会議室をレンタルすればよいのではという案については、効率性や将来性を考えればルシフェルも賛成である。それは社内でも管理職であるルシフェルの意見である。ただのルシフェル個人としての意見は淋しいと感じる。人恋しさではない。ただ一人に対してだけ、ルシフェルはたとえ職場という環境下であり、親しく接してはいけないと考えながらも、天司長ではなくなったからなのか、制御できない感情は、一人を求めて止まないでいある。
 人気のないフロアを進み席に着くとパソコンの電源を入れる。メールを確認してから部下へと指示を出す。
 それから、ルシフェルは立ち上がるとフロアの隅に設けられている給茶室へと足を運んだ。社員で人が行き交っていた時から、ルシフェルは自分の珈琲は自分で淹れていたのだ。何度か秘書のような役割を担う部下を与えられても、珈琲だけは任せることはなかった。我慢できなくなる。どうせならと、つい、彼と比べてしまうのだ。といっても誰が淹れても変わらないはずのインスタントコーヒーである。市販のお湯で溶かすインタントコーヒーに対して自分の幼稚さと狭小さにルシフェルは苦い気持ちを覚えてしまう。

「あ、」

 沸騰させている間に上がった声に振り向いた。目を丸くしている姿にルシフェルは知らず、頬を緩めてしまう。そんなルシフェルに、はにかんだ笑みを浮かべる姿は変わらない、安寧そのものだった。

「おはよう、サンダルフォン」
「おはようございます、ルシフェルさ……ん」

 慌てて取って付けたようなさん付けに、ルシフェルは声を押し殺して笑ってしまう。さま、と言いかけたのだろうと分かってしまう。サンダルフォンはきまり悪そうにするから、そのいじらしさはルシフェルには愛らしく思えた。

「きみも珈琲を?」

 首肯したサンダルフォンにルシフェルは笑みを浮かべてしまった。サンダルフォンもまた、ルシフェルの言葉とカップから漂う香りに気づいた。今年入社して、そしてその時期が丁度リモートワークに移行したものだから、サンダルフォンはルシフェルのルーティンワークを知らないでいる。だから、ルシフェルが変わらず珈琲を好むことを、サンダルフォンは嬉しく感じてしまいそれがルシフェルにも伝わって来る。いじらしい。ルシフェルはあふれ出しそうになる感情を必死で推しとどめる。その所為で、少しだけ難しい顔をしてしまったのだろう。サンダルフォンは途端に、心配そうな不安そうな顔でルシフェルを窺う。ルシフェルは取り繕うように、サンダルフォンを安心させようとして微笑を浮かべた。サンダルフォンの不安は晴れない。

「どうせなら、インスタントではない珈琲をと考えてしまったんだ」

 ルシフェルが咄嗟に口にした言葉にサンダルフォンは目を丸くした。それからふふ、っと肩を震わせる。ルシフェルはほっと、安堵した。サンダルフォンは表情が豊かだ。昔から、そうだった。研究所では所在無くぽつんと淋しげに過ごしているなか、ルシフェルの姿を見るや顔を明るくして駆け寄って来る。嬉しくてたまらないと伝わって来る。その姿に、ルシフェルは愛しさを覚え、心の安らぎを得たのだ。それが、ルシフェルにとっての後悔であったとしても、サンダルフォンの劣等感に甘えていたのだとしても、どうしようもなく、真実であり事実だった。
 始業まで時間はある。出社している社員も少ないため、役職持ちであるルシフェルと平社員且つ入社したばかりのサンダルフォンが会話をしていても向けられる視線は少ない。ただ数少ない通りがかった社員は、一瞬だけぎょっとした顔でルシフェルを見るとそそくさと自分の席へと向かう。というのも、ルシフェルは人間生活を送っていてもルシフェルだった。完璧完全公正無私清廉潔白であるのは天司長としてではない。故に社会生活を営むルシフェルは部下からは優秀で真面目だがお堅い上司として認識されていた。そんなルシフェルが、笑みを浮かべているのだ。まだ寝ぼけているのかも、なんて目にした光景を疑う部下の思考なんてルシフェルは読めやしない。それよりも、思いがけず、朝からサンダルフォンに出会えた幸福を噛みしめていた。

「あ、の……」
「うん?」

 口をまごつかせるサンダルフォンを急かすことなく、言葉を待つ。やがてサンダルフォンは意を決したように、口を開いた。

「お誕生日、おめでとうございます」

 誕生日。ルシフェルは日付を思い出す。そういえば、そうだったと気づかされた。
 奇妙な間が空いた。サンダルフォンは間違っていただろうかと憂いを浮かべる。だとしたら、とてつもなく失礼なことだ。居た堪れない。不敬だ。恥ずかしい。口にしてから後悔する。けれども、なんども確認したのだ。でもでも、もしかしたら。そんな不安がぐるぐるとサンダルフォンの中で渦巻いた。はっとルシフェルが息を呑み、そうだったと音を零したものだからサンダルフォンは間違ってなかった、良かったと安堵した。
 ルシフェルは頬が緩みそうになる。

「そうか、誕生日だったな」
「忘れていたんですか?」
「うん。あまり興味のない行事だった。──けれど、これは悪くはないな」

 ルシフェルがしみじみというものだから、サンダルフォンは大袈裟だなあと思ってしまう。

「大袈裟ではないよ、私にとっては何よりの祝福だ」
「え?」
「どうかしたかい?」
「あ、いえ……」

 サンダルフォンは首を傾げながら不思議に思う。口にしていただろうか。けれども、俺はとてもではないがポーカーフェイスは得意ではないし、いやでも……。そんなことを考え百面相を浮かべるサンダルフォンを見詰めながらルシフェルも不思議に思った。そういえば、サンダルフォンは口を開いてはいなかった。なのに、どうして聞こえてきたのだろう。
 考えたところで正解は出なかった。
 何とも言えない気まずさを覚えてしまうが、どうにも離れがたく感じるのはサンダルフォンだけではなかった。ルシフェルがまた、と口にすればそれだけでサンダルフォンは気まずさを忘れてしまう。我ながら単純だと思ってしまう。ルシフェルもまた、私も単純だと思ってしまう。サンダルフォンが祝ってくれるだけでそれまでただ生まれた日付としてしか認識していなかった日を特別に感じてしまうのだ。そしてルシフェルは、どうしてサンダルフォンと比べたのだろうと不思議に思いながら、席へと戻り業務に没頭した。
 報告を聞きながら問題を対処して指示を出すという繰り返しが一息ついたときに喉の渇きを覚える。伸ばした手で取ったカップはすかしたように軽い。おやと思えば空だった。いつ飲み干したのかと記憶にない。いつも以上の集中力だった。どうやらサンダルフォンからの祝福は思いがけずルシフェルにとって活力になっていたようだった。時計を確認する。昼休憩をとるには丁度良い時間だった。
 ルシフェルは立ち上がるとカップを手に取る。給茶室へと向かおうとして、ふと、足を止めた。止めざるを得なかったともいう。
「やあご機嫌いかがかな?」なんて口にするのは数少ない同期であるベリアルだった。
 サンダルフォンはベリアルを見ると毛を逆立てた猫のように威嚇をするが、ルシフェルはベリアルに対して昔──副官である当時から変わらぬ態度で接する。同期として親しげのまま、裏切りだとか、間接的とはいえ自らの死因であることを忘れているのではないかと思ってしまう態度に、サンダルフォンは勿論のこと当人であるベリアルですら困惑を覚えた。けれどもベリアルは順応が早かった。あるいは、ルシフェルのことを本人にとっては不本意ながらその性質を理解していたのだ。
 ルシフェルにとって、その程度のことであったのだ。今も昔も、ルシフェルは変わらない。彼が固執するのはサンダルフォンのみだ。寧ろ本来ならば分散されて当たり前の執着をすべてサンダルフォンに向けているのだから、ベリアルは柄にもないと自分でも思いながら、サンダルフォンに同情すらしてしまう。

「きみは出社の予定ではなかったはずだが?」
「呼び出しさ。その癖待ちぼうけ。君は休憩か? なら丁度いい」

 言ってベリアルは手にしていた紙袋をルシフェルへと差し出した。思わずルシフェルは手に取る。怪訝に思いながらベリアルを見れば促されその中身を覗きこんだ。果たして中身はといえば、ルシフェルは眉間に皺を寄せてしまう。

「……これは?」
「ゴム。ああ、コンドーム、避妊具って言った方が君には理解が早いか?」
「いやわかる。そのくらいは」
「なんだ。知っているのか」

 詰まらなさそうなベリアルに対してルシフェルは困惑混じりにこれをどうすれば、と視線で訴えてしまう。ベリアルはにこりと笑った。

「まあ俺からの誕生日祝いってところさ」
「……感謝、すべきなのだろうな」
「はは、別に良いんだぜ。それに魔法使い様には不用だろう」

 ベリアルが口にするにはメルヘンな言葉だった。意味が通じていないであろう様子にベリアルはまじかと呟くとガシガシと頭を掻く。セットされている髪が少し乱れていた。それから重く溜息を吐き出すとひとつひとつと丁寧に説明する。

「きみ幾つになったんだ?」
「30だが」
「それで童貞だろう」
「そうだな」
「魔法使いじゃないか」
「……なるほど。スラングか」

 ルシフェルは今までベリアルに馬鹿にされていたのかとやっと理解をした。理解したようで何よりだとベリアルは呆れたように溜息を吐いた。一つ納得をしたルシフェルはベリアルの期待に反して、そして予想通りに不快感は見せない。

「まあそれで童貞卒業でもしてくれ」

 それじゃあと言うだけ言ったベリアルは去っていく。
 大量のコンドームの入った紙袋を手にルシフェルは始末に頭を抱えた。
 容姿端麗頭脳明晰それでいて社会的地位もあるルシフェルが女性経験皆無であることを知るのは少ない。そもそも性事情に関してあけっぴろげに話すような知り合いはベリアル程度だ。とはいえ、そのベリアルに対してもルシフェルが進んで話したわけではない。何故だか指摘されたのだ。それが外れていないから、そして否定すべきことでもないからルシフェルは首肯したのだ。

──それにしても、魔法使いか。

 ルシフェルはスラングだと分かっていても態々口にしたベリアルは、ロマンチストなのかもしれないと思った。その瞬間、ベリアルは言い知れぬ悪寒に襲われたのをルシフェルは知らない。
 誕生日を祝われたのだなと嬉しい気持ち以上に、手にしているものの処分に困りルシフェルは立ち尽くしてしまった。ややあってから、席へと戻る。贈り物であるとはいえ、大量の避妊具を手にしながら社内を歩くだなんてルシフェルには出来なかった。中身が見えないようにと隠して今度こそルシフェルは席を立った。ちらっと時計を見れば丁度正午だった。なんとなしに、意味もなく給茶室へと行けばそこは誰もいなかった。ルシフェルはそこでサンダルフォンがいればと期待していた自分に気づく。そもそも、今日出会ったことすらも偶然であり、奇跡のようなものだ。

「ここにいらしたんですね」
「……サンダルフォン?」

 顔を覗かせたサンダルフォンにルシフェルは目を丸くしてしまう。きっとサンダルフォンはタイミングを見計らったわけではないのだが、丁度サンダルフォンのことを考えていたものだから、ルシフェルは一瞬だけ驚いてしまった。

「今、お時間よろしいですか?」
「もちろんだ。……そうだ、もしよかったら一緒に昼食をどうだろうか?」

 おずおずと伺うサンダルフォンはルシフェルの言葉に嬉しさを噛みしめながら是非と首肯した。そんなサンダルフォンを見詰めれば、ルシフェルの胸には暖かな気持ちを込み上がった。

「いつも私が利用している喫茶店があるんだ」
「社食は利用しないんですか?」
「うん。私がいてはどうにも、気が休まらないようだから。いや……君は、社食のほうが良いだろうか?」
「いえ、ルシフェルさ、んのおすすめの喫茶店を知りたいです」
「……そうか」

 やはり、どうしても魂に刻まれているようについ、さまと口にしそうになって慌てて言い換えるサンダルフォンの様子がルシフェルには愛しく思えた。
 ルシフェルが殆ど毎日のように通っている喫茶店は社屋からは目と鼻の先にあった。けれどもサンダルフォンはルシフェルに案内をされるまでそこに喫茶店があるとは知らなかった。ここだよと言われてやっと、喫茶店だったのかと認識したほどだ。こんなところに喫茶店なんてあったのかとサンダルフォンは驚いてしまう。

「目立たないだろう?」

 ルシフェルの言葉にサンダルフォンはきょどきょどとしながらも首肯した。ルシフェルは可笑しそうに息を殺して肩を震わせたものの、扉を開けた。見慣れたルシフェルの姿と、見慣れない青年の姿に店主はちょっと驚いた顔をしてみせた。数年間殆ど毎日同じ時間に顔を見せる顔の良い青年が、初めて知り合いを連れて来たことに対する興味はある。それもどうやら親しげである様子だ。部下なのだろう。けれども店主はすぐさま興味なさそうに装うと空いている席へと案内をした。それから注文を取る。ルシフェルは決まっている。ランチセットで飲み物はホットコーヒー。年中、同じである。サンダルフォンはちょっとだけメニューを見たが、ルシフェルと同じものを頼んだ。
 ランチセットが用意されている間、サンダルフォンは少しだけ視線を店内をさ迷わせた。初めて訪れる場所に興味があったのだ。そんなサンダルフォンにルシフェルは声を掛ける。

「ここの珈琲はとても美味しいんだ」
「そうなんですか」

 相槌をうつサンダルフォンの言葉は興味深いという気持ちと、そしてほんの少しの嫉妬があった。俺だって、という張り合う気持ちがあった。ルシフェルはいじらしく思えた。微笑ましく、サンダルフォンを見てしまう。サンダルフォンはその視線を不思議に、そして居心地悪く感じた。
 運ばれてきたランチを口にしながらそっと、互いに窺い合う。どちらともなく、可笑しくなって肩を震わせてしまった。
 一人ならば食事をして会社に戻るには十分な時間がある。けれども、サンダルフォンと食事をすると時間が惜しく感じた。

「またこうして一緒に食事をしないか?」

 気づけば言葉にしていた。サンダルフォンは珈琲を啜っていた途中で、目を丸くする。それから、俺なんかでよければとはにかむ。ルシフェルはなんか、ではなくサンダルフォンだからこそ誘ったのだが、了承を得られたことに目元を下げて喜びを浮かべた。
 名残惜しみながら会社に戻り、フロアで別れる。
 それじゃあ、またと口にしたルシフェルは喜び半分と淋しさ半分で席へと戻った。今日1日で2度もサンダルフォンに会えるだなんて幸運なことだというのに、時間が足りないともどかしく感じる。サンダルフォンをもっと堪能したいと思ってしまう。強欲な自身に呆れながらパソコンを立ち上げた。昼休憩の間にもメールや報告が溜まっていた。それらを処理しているうちにざあざあという音を拾った。ちらりと窓を見れば叩きつけるような雨が見える。やはり天気予報は外れたようだった。ただ通り雨だろうとルシフェルは再び画面へと向き合った。
 暫くして、業務を終えたルシフェルはパソコン画面を落すと席を立つ。足元にがさりと紙袋があたった。そして中身を思い出してなんともいえない渋い気持ちを覚えた。
 窓の外はすっかり暗く、そして変わらず雨が降り続いているようだった。通り雨にしては長い。この様子では電車はどうなっているのだろうかと考える。そして、サンダルフォンのことを考えてしまう。通勤方法を聞いたことはなかったし、そもそもどこに住んでい居るのかも知らないでいる。今、互いに知っているのは名前と立場ぐらいしかない。ルシフェルに至っては、サンダルフォンの誕生日すら、知らないのだ。そういえばと、ふとサンダルフォンはどうして自分の誕生日を知っていたのだろうと、疑問に思った。今度はいつ顔を合わせられるだろうか。会いたいなと思った。

「……サンダルフォン?」
「あ、」
「どうしたんだい?」
「傘を持っていなくて」

 会社の玄関にサンダルフォンは立ち尽くしていた。ルシフェルに問われたサンダルフォンは困ったように笑うと空を見上げた。雨脚は強く、止む気配はない。困り果てた様子のサンダルフォンに対して、ルシフェルはひどいことだとわかっていながらも、これは良い機会ではないかと思ってしまった。

「家は近いのか?」
「……電車で1時間半ほどです」

 最寄りの駅を口にした。殆どリモートワークとなっているからこそ、たまの出社にならば良いだろうと立地はあまり考えないで選んだアパートである。その分住み心地はよく、コンビニやスーパー、駅近など環境は良いのだ。けれどもこの雨で電車は運転を見合わせているらしい。

「そう、か……。もしもよかったら、家に来ると良い。この雨はいつ止むのか分からないだろう」
「そこまで迷惑はかけられませんよ。俺に構わず帰宅してください」
「迷惑だと思っていたら声は掛けない」
「いざとなったらタクシーも呼びますし」
「なら私が送ろう。車を取って来るから待っていてくれ」

 サンダルフォンは何を言っているんだと目を丸くするが、ルシフェルは至って真面目で真剣だった。冗談ではないのだ。このままでは本当にサンダルフォンの家まで送りかねない。否、かねないどころではない。本気であるのだから、サンダルフォンは困り果てる。ルシフェルの家か、態々送ってもらうか……。そもそもとして、ルシフェルの家はどこなのだろうか。ルシフェルの家までの間にサンダルフォンがあれば、まだ心持ち、申し訳なさが和らぐ。
 ルシフェルを引き留める。思わず手を伸ばして手が触れ合ってしまったことに、サンダルフォンは頭が回らない。ルシフェルはどきりとして思わず、一瞬だけ、固まった。

「あのルシフェルさまの家はどちらなんですか?」

 ルシフェルは最寄りの駅を口にした。そこはサンダルフォンの家からは真逆の駅であった。ルシフェルはサンダルフォンに笑みを向ける。

「問題は無いよ、サンダルフォン」
「ありまくりですよ!!」

 声を荒げるサンダルフォンにルシフェルは可笑しそうに肩を揺らした。それから、私のことは気にすることは無いと言う。無茶である。無理である。気にしてしまう。ルシフェルにサンダルフォンを見捨てて帰宅するという選択肢はない。ここでもしも大丈夫だと言ったとしてもルシフェルならば、私も待とうと言い出しかねない。サンダルフォンは肩をガックシと落とした。これならば雨が止むまで待とう、なんて考えずに濡れネズミになっても駅に向かえば良かった。
 ルシフェルに連れられて駐車場へと向かう。電車通勤であるサンダルフォンには縁のない場所だった。一台だけ停まっている車こそがルシフェルの所有しているものなのだろうと察した。そしてその車につけられているエンブレムは、サンダルフォンですら知っているものだから、その車にこれから乗るというのだから、緊張を覚える。乗り物酔いの性質は残っている。もしも吐いてしまったらと不安になってしまう。それでなくても、そんな失態をルシフェル様の前に晒してしまうなんてと恐怖を覚えた。
 顔を青ざめさせるサンダルフォンに気づいたルシフェルは、助手席へと座らせるとシートベルトを締めさせた。それから自分も運転席に乗り込むと、エンジンをかける。車が動き出すと同時にサンダルフォンは息を呑む。知らず、体は強張る。しかし、いつになっても息苦しい程の不快感はわき上がらない。雨が降っているために締め切っている車内だというのに、込み上がるような吐き気は感じられない。どうしてだろうかと不思議に思いルシフェルを見た。

「車は苦手だったのか」
「……は、い」
「それはすまないことをした」
「いえ、ルシフェルさまの所為ではありません」
「私の家の方が近い。家で休んでいきなさい」
「よいのでしょう、か」
「私が良いといっているのだから、良いんだよ」
「……はい」

 サンダルフォンの声は小さく、ほんの少し舌足らずになっていた。ミラー越しにちらりとサンダルフォンを見れば、うつらうつらと船を漕いでいる。それだけ気持ちが安らいているのか、あるいは緊張がピークであるのか。どちらにせよ、無防備な寝顔を晒されることに悪いきもちは全くなく、寧ろ優越感めいたものが沸き起こった。
 暫くして車内には時折、サンダルフォンの小さな寝息がルシフェルの耳朶をかすめた。その寝息を乱さないようにと殊更に慎重にルシフェルは運転をする。ルシフェルは今までにない緊張を覚えた。誰を乗せたときにも抱くことの無かった緊張である。
 マンションの地下駐車場に車を停めてやっと一息ついた。
 うん、と唸るような声と同時にサンダルフォンは目をうっすらと開いた。ぼんやりと夢現な目は明瞭になるとはっとルシフェルを見た。それから顔を青ざめさせる。ルシフェルは気にした素振りを見せない。それどころか心配そうに声を掛けた。

「気分は悪くないか?」
「はい、申し訳ありません! 俺、眠ってしまって……」
「謝ることは無い」
「けれどルシフェル様に運転をさせて、」
「誘ったのは私なんだから当然だ」

 ルシフェルは話しはそれで終わりと言わんばかりに車を出ようとするから、サンダルフォンも慌てて車を出る。
 きっとこれから一生乗ることの無い高級車だったのだなとサンダルフォンはちょっとだけ思った。
 高級車だからあんなに居心地が良かったのだろうか、それともルシフェル様の運転だからだろうか。

──私の運転だから居心地が良かったと思えたのなら、これほどうれしいことは無いな……

 ルシフェルはふと思った。そして振り向く、所在なさげにルシフェルに追従していたサンダルフォンは突然振り向いたルシフェルに目を丸くして首を傾げている。ルシフェルはいや、なんでもないよと言うと矢張りどうしたのかと内心で首をかしげた。そんな、まさかと思いながらエレベーターに乗り込んだ。カードキーをかざすルシフェルにサンダルフォンは見慣れない、けれどもテレビの物件情報番組だとかで取り上げられた高級マンションならではのセキュリティシステムに内心でとんでもない場所にいるのではと気付かされる。高級車に乗る時点で薄々どころではなく気付いていたのだ。

「楽に過ごしてくれ」

 ルシフェルの部屋に辿り着くまで驚きの連続でサンダルフォンは呆気にとられた。
 住む世界が違い過ぎる。
 サンダルフォンは通されたリビングで所在無く、ルシフェルから勧められてやっとソファに座った。包み込むようなソファに居心地の悪さを覚えてしまう。車内でのような失礼がないようにと身構えてしまう。迷惑をかけないようにと気を張り詰める。ルシフェルはそんなサンダルフォンを借りてきた猫のように思えた。遠慮はいらないのだがと淋しさを覚えると同時に、無理もないことだと致し方ないのだと思えた。
 風呂を進めるとルシフェル様より先に入るなんてと遠慮をされる。サンダルフォンの中ですっかり、ルシフェル様と天司長扱いが戻っているものだから苦笑してしまう。

「私はやることがあるから、先に入ってくれると有難い」
「……申し訳ありません」
「謝ることではないよ、サンダルフォン」
「──……ありがとうございます、ルシフェルさま」

 サンダルフォンは笑顔を作ろうとして失敗したような不格好な表情を浮かべた。ルシフェルは苦笑する。

「それと、先ほどから気になっていたのだが……」
「なにかしてしまったでしょうか!?」
「いや、そこまでではないのだが……様付けになっている」

 それだけを言うとルシフェルはサンダルフォンを風呂場に押し込めた。暫くしてからシャワーの音が聞こえた。そういえばこの家に他人を招いたことは無かった。それどころかシャワーを使うだなんて考えたこともない。
 サンダルフォンがシャワーを浴びている。彼は、裸なのだろう。当たり前だ。シャワーを浴びているのだから。当然のことだというのに、ルシフェルは妙に破廉恥なことのように思えて、そしてふしだらなことを想像している自分に、その相手がサンダルフォンであるということに罪悪感を覚えた。
 よこしまな妄想を忘れるように、着替えを用意する。幸いにも下着は新品は幾つか用意があった。出張用にとストックを用意していたのだ。ただと考える。ルシフェルは平均的な体格よりも恵まれている。サンダルフォンは平均的な体格だ。つまるところ、体格差がある。用意をしたとはいえ、サイズは合うのだろうか。首を傾げる。考えた末に、まあ、無いよりは良いだろうと着替えを用意した。

「着替えを置いておくよ」

 返事を聞く前に脱衣所から出る。ザーザーとシャワーの音が忘れたはずの妄想をよみがえらせた。

「……お先にいただきました」
「うん、じゃあ私も入って来るからくつろいでいてくれ」

 サンダルフォンは決して小柄ではないものの、ルシフェルと比べると華奢になってしまう。袖や裾の余っている寝間着は更に華奢に思わせた。サンダルフォンの横を通り抜けたルシフェルは一瞬、すれ違った瞬間に、サンダルフォンから嗅ぎ慣れたシャンプーの香りがして妙に浮足立ってしまった。平常心を装って、ルシフェルは浴室に向かった。
──サンダルフォンを自宅に招いて、泊める。
 その事実にルシフェルは今更ながらに緊張を覚える。そして、浴室に入ればサンダルフォンも利用したのだということを思い出す。すれ違いざま、一瞬だというのに目に焼き付いているほんのりと色付いた頬だとか水気を含んだ髪だとかを思い出す。何を考えているんだと自分を戒めるも油断をすれば、ついと、考えてしまった。
 風呂を上がる。何時までも風呂に入っているわけにもいかない。
 サンダルフォンはリビングのソファに座っていた。くつろいだ様子はなく、ソファの隅で体を縮めるようにして固くしている。自分が風呂に入っている間、この様子だったのだろうかとルシフェルは申し訳ない気持ちになった。けれど、

「ルシフェルさ、ん」

 ルシフェルの気配にはっと振り返ったサンダルフォンが喜色を浮かべると、ルシフェルは優越感にも似た満足感を覚えてしまう。これは、覚えのある悪い感情だった。甘えだ。

「テレビをつけてくれても良かったんだ」
「あまり見ないんです」

 それを言われるとルシフェルは強く言えなかった。

「食事にしようか」
「手伝います」
「客人にそこまでさせられないよ」
「お世話になるのだから、せめてお手伝いだけでも……迷惑ですか?」

 懇願するように言われて、ルシフェルは否定できない。迷惑だなんてとんでもないことなのだから。
 狭くはないキッチンだった。
 2人で並び用意をする。とはいえルシフェルはそこまで食事に拘りは無い。結局、殆どの食事の用意はサンダルフォンが用意をしていた。ルシフェルは自分の冷蔵庫や冷凍庫に保管されていた食材がどうしてこんな風になったのか分からずに首を傾げてしまった。
 昼食だけでなく夕食も──それも、殆どサンダルフォン手作りの食事を一緒に取れた。あまりにも幸せな時間を過ごせてしまった。もしや自分は死ぬのかと考えてしまう。けれどもこんなにも幸せならば仕方のないことではないかと思ってしまうのだ。

「折角のお誕生日なのに、俺と過ごしても良いんですか?」
「君と過ごせる誕生日ほど、幸福なものはないよ」

 ルシフェルの言葉にサンダルフォンは困ったように笑って何も言わず、あるいは口にして良い言葉が分からず洗い物に目を落す。ルシフェルは誕生日だからこその幸福の連続なのだろうかと思った。それからサンダルフォンの寝室をどうしようかと考える。この調子ではルシフェルの寝台を使うなんてと拒否をするだろう。ルシフェルとしては客人にソファで眠らせるようなことを、それもサンダルフォンに対してならなおのこと、させるわけにはいかないのだ。
 考え込むルシフェルの耳朶にわっと小さな悲鳴が聞こえた。悲鳴というよりも、驚いた声だ。それからガサリという紙の音。ルシフェルは振り向き、青ざめる。
 リビングの脇に、置いたままだったのはベリアルに押しつけられた──誕生日プレゼントである。
 サンダルフォンは躓いたのだろう、その中身が一部飛び出していた。すみません、と慌てたサンダルフォンがとびだしたそれを、手に取り、固まる。

「それはベリアルが、」
「ベリアル!?」
「誕生日なのだからこれを使って卒業しろ、と……」

 自分は何を馬鹿正直に口にしているんだろうとルシフェルはしまったと思った。サンダルフォンはきょとりとしている。それから、ややあって視線をさ迷わせて、紙袋から飛び出ていたコンドームを手にして、ルシフェルを見上げると口を開いた。

「……卒業してみます?」

 ルシフェルの喉が上下した。

2022/10/10
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